宿題と美味い料理

将成しょうせいは、当然のことながらと言うか、夏休み中の子供の割と多いパターンとして、宿題は後になってからやる方だった。しかも、結局は完全にはやらずじまいということも何度もあった。そして小学生最後の夏休みも、そういう形で過ごそうとしていたのだった。


だがそこに、思わぬ助け舟が入った。工藤浩一くどうこういちだった。


「もしよかったら、宏香と一緒に勉強したらどうかな?」


と、ほの姫に持ち掛けてきたのだ。毎年、将成に宿題をさせるのに四苦八苦していた彼女にとってはまたとない申し出に、「ぜひ、お願いします!」と浩一に詰め寄らんばかりに応じてきたのである。浩一にとっては海に行くきっかけを与えてくれたお礼だった。


で、土日の午前と午後に一時間ずつ、将成は工藤家で宿題をすることになったのだった。


「なんだよめんどくせー」


と将成は不満げだったが、正直言えば彼もどうせ宿題をすることになるのなら後でも先でも同じだとは思っていたのだった。ただこれまではほの姫に頭ごなしに言われるだけで結局は傍で監視してる訳でもなかったことから、結果として後回しになっていたというだけなのだ。


なので、宏香と一緒に宿題をすることになったのは、将成にとってもそれほど問題でもなかった。もちろんそれは、将成と宏香の距離が出会った当初よりは近付いていたからという大前提があってのことだが。実は工藤浩一も、この部屋に食事に来た時の彼の様子を注意深く見ていてこれならと思って提案してくれたというのもあった。でなければ、この粗暴で暴力的な臭いを発している少年を宏香に近付けようとは思わなかっただろう。


なお、浩一のその判断には、他ならぬ宏香自身の様子も影響していた。彼女が将成のことを恐れていないというのが見て取れたというのが今回の提案の一番の要点である。


工藤家がある一号室で、将成と宏香が勉強をしていた。実は宏香の方は、夏休みに入って最初の三日間でプリント等の宿題は終わらせてしまっている。あとは夏休みの工作もしくは自由研究と読書、そして日記二日分だけだ。だから将成は夏休みの宿題のプリントをやってるところだが、宏香は自主勉強のドリルをやっているところであった。


『マジかよ……』


言葉には出さず頭の中でそう言いながらも、父親代わりである工藤浩一が宏香のプリントの答え合わせをしているのは一緒に勉強をし始めた初日に見たので、既に終わっていることは事実だと認めるしかなかった。その上で、さらに宿題でもない勉強をしてるのが彼には信じられなかったのだ。


それでも、こうやって一緒に勉強をしてる分には意外とやり易かったと彼は思った。いつもは気が乗らず雑に適当にやってたのがスムーズに進んだ。あと、この学校の宿題のプリントは答えが一緒についてきてて、書き写しできてしまうのが面白かった。それは本来、保護者が答え合わせをすることで子供の勉強に積極的に関わってもらえるようにという狙いでつけられているものなのだが、勉強が苦手でやる気が出ない生徒でも、やったという体裁だけは整えられてしまうことがユニークだった。


というのも、実は宿題をやることで学力の向上をというのが狙いではなかったのである。宿題はあくまで毎日家でも勉強をするクセを付けることを目的として出されており、本人がどの程度理解しているか等はあくまで学校でのテストや授業中の様子を見ることで判断するというのがこの学校のスタンスだった。つまり、宿題自体は形だけでも良いのだ。とりあえず勉強というものに触れているという行為そのものが目的なのだから。その為、学校で宿題をやって帰ることは原則禁止されている。<家でする>ことこそが目的なのであって、学校でされてしまっては意味がないのだ。


ただし、その形すらやらないとなれば話は別である。宿題をやってこなければ、放課後に居残りでやらされる。<出された課題をこなす習慣をつける>ということも狙いの一つであったのだから。とは言え、それを逆手に取って<結局学校でやらされるから家でやらなくてもいいじゃん>とわざとやってこない生徒もいるので、その辺りの指導については、保護者の協力も不可欠ではあった。だからこその、<保護者による答え合わせ>とも言える。


ほの姫はまだその辺りの理解が十分ではなかった。勉強については学校にお任せというのが当たり前の学校に通わせてきたので、仕事が忙しいこともあり将成の勉強を見てやるということができていなかった。その辺りを、工藤浩一が補ってくれているという形になるだろう。


浩一の方は、宏香が来て今の学校に通いだしたこともあってこの学校のやり方しか知らなかった。自分が小学校に通っていた頃のやり方は多少覚えていても、それは時代の流れで今はこうしてるんだなという認識ですんなりと受け入れたのだ。しかも宏香自身が真面目な性分なので最初の頃から家に帰ればすぐに宿題を終わらせていたし、今は学校が終わってから浩一が迎えに来るまで八上家でシュリやケイと一緒に宿題をする習慣がついていたため、宿題で困ったことは殆どなかったのだった。


なお、将成は、勉強は決して好きではないしなかなか気持ちが乗ってこないというのはあるのだが、その一方で、元々の知能自体は決して低くなく、かつできないことで馬鹿にされるというのが癪に障るということもあって、平均以上の学力は持っていた。問題はいかに自然に宿題をする流れに持っていくかだけだったのだ。だからこうやって、誰かと一緒に、それも決して嫌っている訳ではない誰かと一緒にそういう空気の中に置かれれば案外すんなりとできるのである。


そんなわけで、黙々と勉強をする宏香のペースに乗せられてか、将成のプリントも一気に十枚が片付いてしまっていた。これまでの分と合わせるともう二十枚が終わっている。残りは十枚。早ければ今日の午後。遅くとも次の土日には終わってしまう計算になる。これは、今までに無かったことであり、他ならぬ将成自身が驚いていた。


『こんなにやってたのかよ。気が付かなかった』


決して面白いと思ってはいなかったものの、今まで感じたことがないくらいに苦にならなかった。なんとなくやってたらこんなに進んでいたのだ。


午前の勉強が終わり、もうすぐまたシュリやケイがやってきて、今日はビーフシチューに挑戦するという。


『うまそうだな…』


工藤家での食事にもすっかり慣れ、しかも好物の肉料理となれば、ついそんなことも思ってしまうようになっていた。


「こんにちは~。ヒロリ~ン、来たよ~」


玄関のチャイムが鳴らされ、浩一が鍵を開けると、「おじゃまします!」の第一声に続いていつもの明るい挨拶と共に、シュリが雪崩れ込むように部屋に入って宏香に抱き付いた。


「う~ん、この感触。この感触がたまんない!」


殆ど毎日、一回はやるのが習慣になっていた、宏香の頬に自分の頬を擦り付けて感触を堪能するという行為の後、そんな二人を微笑みながら見守っていたケイと一緒に、三人でビーフシチューづくりが始まったのだった。


将成は別に何もしない。ただ食べる専門だ。『お前も手伝え』とは誰も言わない。だがもし、『自分もやりたい』と言えば拒むことはなかっただろう。これはそういう集まりだった。


シュリとケイについてきたリカは、浩一と共にテーブルについて三人を見守っていた。完全に身に着いた習慣だというのがよく分かる姿であった。




いつものように、宏香が簡単な指示を出し、三人は手慣れた感じで料理を作っていった。もう既に子供の手つきとは思えないほどの熟練ぶりである。一年半以上、毎週のようにやっていれば当然のことかも知れないが。


ただよく見ると、実際に作業をしているのは主にシュリとケイの二人であり、宏香は基本的に、細かい部分の指示を与えたりする役目のようだ。


まあそれは当然のことなのだが。浩一の妻から料理の手ほどきを受けて習熟した宏香はもう実際に工藤家の台所を完全に仕切っており、これはあくまでシュリとケイの習熟の為に行われていることなのだから。


いや、むしろ三人で『遊んでいる』と言った方がいいかも知れない。そう、これは三人にとっては大事なレクリエーションの時間なのだ。だからこの時の三人はいつも楽しそうである。


学校では無表情にも思える宏香でさえ、こうして三人で料理をしている時には穏やかな表情になる。時には笑っているように見えることもある。と言うか、本人にしてみれば笑っているつもりなのかも知れない。


宏香は様々な辛い経験により表情を上手く作れなくなっているだけだったのだ。だから感情も、普通よりは起伏が小さいかも知れないがちゃんとある。それを、みな知っているだけなのだった。


そんなこんなで手際よく作業をこなし、気付けばもう後は煮込むだけになっていた。とろ火で煮込みつつ焦がさないように交代で鍋をかき混ぜながら、宏香とシュリとケイは楽しそうに会話を交わしていた。この時ばかりはポツリポツリとだが宏香も喋っていた。この日の話題は、昨日、ケイの家で見たアニメの内容についてのようだ。


将成は、アニメにも興味が無いので三人が何を話しているのかはさっぱり分からない。それを羨ましいとも思わないが、この三人の様子には何か違うものも感じていた。


将成がこれまで見てきた<友達>というのは、互いに上辺だけを取り繕って、実際には相手のことがそれほど好きでもないのに何となく合わせているだけの、それぞれ相手がいないところでは何を言っているか分かったものではない、形だけの<仲良しごっこ>しか見た覚えがなかった。実際、何人かの集団でもそのうちの一人がいなくなると残った者でいない人間の悪口を言い始めるなんていう様子も何度も見てきた。だから友達なんてものに何の価値もないどころか毒にしかならないと思ってきたのだ。


なのに、この三人から感じるものはそういうものとはどこか違っていた。


「ヒロリンもさあ、可愛いんだからもうちょっとファッションとか気にした方がいいんと思うんだよね。正直、今の格好って地味よ地味」


という感じでシュリがずけずけと言うと、宏香も、


「私はこれでいい。派手なのは苦手。シュリみたいにはできない…」


と正直に答え、それを見ていたケイが、


「ヒロは今のままで別にいいと思うけどな。あんまりにぎやかな感じなのはキャラに合わないと思うし。って言うか、シュリがはっちゃけ過ぎなんだよ。やり過ぎで女の子らしい可愛げがなくなってる」


などと身も蓋もない突っ込みを入れたりしていた。それに対してシュリも、遠慮がない。


「べーっ! っだ。どうせ私は色気ない女ですよ~だ。でもいいも~ん、私は男にウケるためにやってるんじゃないも~ん」


といった感じで、舌を出して見せたりしていた。そう、『遠慮がない』のだ。仲良しごっこに見られる、お互いを上辺だけで持ち上げてみせる、薄ら寒い慰め合いがないのである。それこそがこの三人の関係性であった。例えるなら、<友達>というよりはそれこそ本当の姉弟きょうだい、<家族>そのものの姿にも見えた。嘘とおべっかと馴れ合いで帳尻を合わせるだけのごっこ遊びにはない深みがそこにはあった。


お互いがどういう人間か十分に承知しており、慣れ合うだけの関係を維持する為の誤魔化しが必要なかったのである。この三人は、実の姉弟以上に姉弟らしい間柄だということだ。


しかし将成は、<仲の良い家族>というものも見たことがなかった。いや、本当は見たことがあるのだが、ほの姫とその両親の仲の良さを見てきている筈なのだが、それを無かったことにしてきたのだった。そうしなければ、自分のこの世界への憎悪が意味を失ってしまいかねないからだ。この世には仲の良い親子など存在しない。だから自分が全てを憎みそれらを破壊しようとしているのは当然のことなのだと。


本当に仲の良い家族などというものがいるということを認めてしまっては、彼がこの世の全てを、憎み、侮蔑し、嘲笑し、見限ってきたことの大前提が崩れてしまう。人間はどうしようもなく愚かで、綺麗事を並べるのと同じ口で他人を嘲り貶めるのがその本性であり、だから生きる価値など欠片もない、自分が十分に力をつけその時がきたなら片っ端から殺してやると誓ってきた、その日が来ることを心の支えにして生きてきたことが無意味だったということになってしまう。だから認められない。認めたくなかったのである。


だが、現実はそうではなかった。将成が思っているような人間も確かに少なからずいるのだろうが、人間は愚かであると同時に自らを高めていくこともできる生き物なのだ。彼は、それを知らなければいけない。自分の思っているものだけがこの世の全てではないことを知らなければいけないのだ。でなければ彼はいずれ、多くの人間を道連れにして不幸の奈落に堕ちていき、命すらも落とすことになるだろう。いくら恵まれない境遇に生まれついたからといって、そのような結末を迎えなければいけないという決まりなどない。不幸な星の下で生まれてきた人間でも、幸せになるチャンスは等しく残されているのだから。


しかし、妄執に囚われている間は、そのチャンスを掴むことすらままならないだろう。それもまた事実である。幸せになれるかどうかの最後の分かれ道は、結局のところ自分自身が選択するということなのだから。しかも、そうやって幸せを掴んだ人間達の実例が、今まさに将成の目の前にいるのである。彼はもう既に、それが手の届く場所に来ているのだ。後は実際にそれを自ら掴む為に手を伸ばすかどうかだけにかかっている。


なのにまだ、将成にはその勇気がなかった。自分より体が大きく力が強い者にでも立ち向かっていく無鉄砲さを持っている彼でも、自分の妄執を否定する勇気は備わっていなかったのだった。それを得る為にはさらに時間が必要なようだ。


それでも、宏香とシュリとケイの三人が協力して作ったビーフシチューは美味かった。今よりもっと幼い頃に、ほの姫と出会う前にも、こんな美味いものを食べていたなら、自分はどうなっていたのだろうとか思わされてしまう程度には。


「うっわ、美味っ、コレ。めっちゃ悔しいけど美味しいよ、泣ける~。凹まされる~」


などと、もはや本人も何を言ってるのか分かってなさそうなくらいに感動しているほの姫を見ながら、将成はただ黙ってそれを食べた。その一口一口が、彼の中に沁み込んでいくようであった。当たり前のと言えば当たり前の幸せが、幸せの味とでもいうべきものが、こうして彼の体に取り込まれ、内側から置き換わって行くかのようだった。


まだまだ先は長いのかも知れない。しかし、変化に必要なものは既に揃っている。<誰かが丁寧に作ってくれた美味いもの>という、手っ取り早く幸せを感じることができるものも、こうやって用意される。非常にゆっくりではあるが、ナメクジが這うようにじれったい速度かも知れないが、確実に変化はもたらされてきているのであった。


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