罪と罰
「ねえ、先輩。今度の日曜日にでも、宏香ちゃんも連れて一緒に海に行きませんか?」
八月に入ったばかりのある日、工藤家で夕食をごちそうになっていたほの姫がそう切り出した。
「宏香ちゃんのご飯をいただいてるお礼も兼ねてと思ってるんですが、ダメですか?」
思いがけぬ申し出にまず反応したのは、意外なことに宏香の方だった。一見、いつもと変わりないように見えるが、他人には分かりにくいが、実は期待に満ちた目で養親である浩一を見詰めたのである。
実は、宏香にとって海は、今の両親と打ち解けるきっかけとなった思い出の場所でもあった。それ以来、宏香は、すごくはしゃぐ訳ではないが静かに興奮するくらいに海が好きだったのだ。
とは言え、浩一の妻が入院していて以来はなかなか思うように遊びに行けないという事情もあった。
それでも去年は、
と言っても、実は行けそうにないのは志望校への合格がボーダーライン上にありそうなアユ(桝谷阿由美)だけであって、ルカ(岸咲流華)はそもそも進学せずに就職を目指してるし、サキとリカ(鷹取真理香)はほぼ安泰だったので行こうと思えば行けたのだが、やはりアユが行けないのに自分達だけというのは気が引けてというのがあったのだった。
そうなると宏香としても浩一と二人だけで行くのも気が引けてというのもあったようだ。
が、美朱里と慧一はやはり海に行きたかったということで、二人の引率者として余裕のあるリカが付き添い、浩一、宏香、ほの姫、将成、リカ、シュリ(美朱里)、ケイ(慧一)の七人で海に行くことが決定したのだった。
で、その日曜日。あまりカンカン照りでもなくやや薄曇りでありつつ天気が崩れる心配はないという絶好の海水浴日和に恵まれ、七人は須磨の海に来ていた。
「うみ~っ!」
四人の小学生を差し置いて一番テンションが高かったのは、三十路も間近の
決してマイクロビキニという筈ではないのだが、元々のボリュームが大きすぎてそれに比例して布が小さく見えてしまう蛍光ピンクの水着の破壊力に、周囲にいた男達はもはや圧倒されていたのだった。
だが、それを見た将成は一言。
「まるでチャーシューだな。おデブ」
と冷めた視線で辛辣な言葉を投げつけた。
「デブじゃない!、私はぽっちゃり!!」
などという一連のやり取りを、浩一はくすぐったそうに見ていた。
スクール水着を着てさらにその上からライフジャケットを身に着けた宏香は浩一にぴったりと寄り添い、小学生にしては大きくて発育の良い体を見せつけるかのように黄色いビキニをまとったシュリはほの姫に次いでテンション高く、
「はははははは!」
と何がおかしいのか仁王立ちになって高らかに笑い、その背後には、上半身にラッシュガードを着て苦笑いを浮かべるケイと、清廉な印象のある青いビキニを身に着けて平静を装いながらちらちらとケイの方に視線を向けつつ頬を染めているリカの姿があった。
朝から出てきたためにまだ人も少なめで余裕もあり、二組のビーチパラソルを立てて場所を確保。ほの姫とシュリとケイはさっそく海へと突撃した。
「ひゃーっ!」
「きゃーっ!!」
ほの姫とシュリはほぼ同じノリで戯れ、ケイはまるでそんな二人の保護者のように傍で見守りながら波に揺られてたのだった。
「…ガキが…」
もはや小学生と何も変わらないほの姫の様子に、将成は呆れた様子で吐き捨てた。相変わらずの可愛げのなさだが、それでもこうやって付き合って海までついてきてるのだから、本当はまんざらでもない筈である。
宏香は浩一の傍で貝殻を拾ってはそれを眺めて何かを空想しているようだった。浩一は宏香の姿とシュリ達の姿を同時に視界にとらえ、引率者としての務めを果たそうとしている。なお、リカは、ビーチパラソルの下でやはり頬を染めてケイのことを見詰めているだけである。彼女も海そのものにはさほど興味がないようだった。
とは言え、その様子を見ていれば何をしたいのかは明らかなので、
「荷物は僕が見てるから、鷹取さんも楽しんできたらいいよ」
と浩一が声を掛けると、
「すいません、お願いできますか?」
と嬉しそうに笑顔でケイの傍へと駆け寄っていったのだった。
リカが去ると、そこに将成が腰を下した。すると浩一が声を掛けてきた。
「将成くんはあまり海は好きじゃないのかな?」
その問い掛けに、将成は黙って頷いた。その上で、やはり憮然とした態度のまま答えた。
「泳ぐのは嫌いじゃねーけど、海はあいつらみたいにはしゃぐばっかりのが多くてあんまり泳ぐって感じじゃねーから」
他人から見れば明らかに大人に対する口のきき方ではなかったが、彼の背景を知る浩一にとっては、それは大して問題ではなかった。こうして問い掛けに答えてくれたことが大事だったのだ。
「そうか。僕は泳ぐのも苦手だから、羨ましいよ」
精一杯、生意気な感じで答えたはずがさらりと受け流されてしまい、将成は二の句が継げなかった。ここで苛立った様子を見せたらさらに噛み付いてやろうと思っていたのに、まるで意に介されていなかった。その反応は、怯えているとか遠慮しているとかいうのとも違う、ただありのままを受け入れた上で流されてしまったことを、将成もはっきりと認識した訳ではなかったが悟っていた。彼がこれまで出会ってきたどの大人とも違うそれに、戸惑うしかできなかった。
「ヒロ~、ちょっとくらいは海に入ろうよ~!」
ヒロと呼ばれた宏香がシュリに連れて行かれると、浩一と完全に二人きりになり、将成は居心地の悪さに耐え切れなくなって逃げるように海へと入った。浩一は、皆の様子をただ嬉しそうに見守っていた。
しばらくすると息切れしたようにほの姫が戻って来て、
「ちょっと、トイレ行ってきます」
とだけ告げて海の家の方へと小走りでかけて行った。それから十分ほど後で将成も戻ってきたのだが、その様子は先程までとはまた何か違っていた。
「……」
黙ったままどこかに真っ直ぐに向けている視線に明らかな暗い感情が見えた。彼の視線の先を追うと、浩一もハッとなった。ピンクのビキニを身に着けた大きな胸の女性が、何やら困った様子で男二人とやり取りしてる風であった。ほの姫だ。ほの姫がナンパ男に絡まれていたのだ。
それを見る将成の目に覗く暗い感情。それは、怒りと言うより紛れもない憎悪だった。ぎりっと固いものがその体の中に込められるのが見えるようであった。しかしその前に、浩一が動いていた。
「ほの~、こっちこっち~!!」
わざとらしいほどに明るく軽い感じで声を上げ、大袈裟な動きで大きく手を振ると、それに気付いたほの姫が、
「浩一さ~ん!」
と、猫撫で声で応え、やはり大きく手を振った。そして走り出し、男達を振り切った。
浩一のところまで戻ったほの姫が、頬を染めながら腕に抱き付く。いかにもなカップルを装いながらも、それは浩一の意図を察したほの姫の演技だった。
「ありがとうございます、先輩。ナンパがしつこくって」
そう言うほの姫を見た浩一は、既にいつもの彼の顔に戻っていた。あの手のナンパにはこうやってツレアピールをするのが一定の効果を発揮することを、経験から知っていたのである。もし通用しなかった時にはまた別の方法を考えねばならなかったが、今回は取り敢えず上手くいったようだ。
将成はそんな二人の様子を見て、呆気に取られていた。彼はこんな時、とにかくぶっ飛ばすという発想しかなかった。勝てるかどうかは関係ない。いざとなれば思い切り噛み付いて肉の一つも食いちぎってやればいいとしか考えていなかったのだった。
将成は、自分の過去が、自分が大人達からされてきたことが、自分の行為を正当化してくれると思っているようだが、それは大きな間違いである。いかなる事情があっても許されない部分というのはあるのだ。
もしこの時、彼がほの姫を守る為にということでナンパ男に食らいつきその肉を噛み千切ったりすればそれは事件となり、彼は世間から容赦のない非難を浴びるだろう。保護者代わりの女性を守ろうとした美談などと思ってくれるのはごく一部に過ぎない。<キレる子供による事件>として晒され、『少年法を廃止しろ』、『子供でも死刑にするべきだ』等の罵詈雑言が浴びせられるのは火を見るより明らかだった。
世間というものがそういうものであることを、将成は知っている筈である。なにしろそうやって以前にも誘拐未遂事件を起こした人間を世間の前に引きずり出してなぶりものにさせたことがあるのだから。そうなるのが分かってて騒ぎになるように自動車にぶつかってみせたのだから。
なのに、自分が事件を起こせば同じ目に遭うということを、彼はよく理解していなかった。罪を問われたとしても自分はそんなもの気にしないと、誰に批判されようと平気だと思っていたようだが、実際にはそんな甘いものではないのだ。将成が事件を起こせば、ほの姫も同じ目に遭うのだということを彼は十分に理解できていない。ナンパ男に絡まれるよりも遥かに辛く苦しい毎日を彼女が送ることになるのだということを、彼は知らなければならなかった。
彼がナンパ男にムカついたのは、無意識のうちにほの姫のことを守ろうとしたからだろう。いくら悪態を吐いて鬱陶しい煩い奴だと思っていても、既に彼にとっては大切な存在になっているのは間違いないのだ。彼自身がそれに気付いていないだけである。それに気付き、自分の行いが彼女を苦しめることになるのだと知れば、彼は迂闊にキレたりできなくなる。彼女を守りたいと思えばこそ、安易に暴力に頼ることが適切ではないということが分かる筈だ。彼にはそれを理解出来る程度の知性は備わっているのだから。
工藤浩一が暴力に頼らないのは、本人が臆病な性格だからという以上に、それが何をもたらすかを痛いほど知っているからだった。彼自身の経験によって。
彼の伯父は、いわゆる<ヤクザ>だった。それも、厄介事は何でも暴力で解決しようとする、要は<チンピラ>である。それが何を招いたかと言えば、そんな叔父の暴力の被害を受けた人間からの報復である。もっともその<被害者>の場合は、暴力に加えて伯父から薬物を投与されてそれから抜けられなくなった被害者でもあったが。
それによって浩一の伯父は重傷を負い、それ自体は<身から出た錆>と甥である浩一すら思ったのだが、事態はそれだけでは終わらず、浩一の伯父に報復を果たした側まで、薬物をやっていた(正しくは薬物中毒にさせられた)事実が明るみに出ると、そちらまで世間からの容赦ない非難を浴びたのである。
『クズはクズ同士殺し合ってどっちも死ね』
などと。
暴力によって支配され薬物中毒に貶められるという地獄のような経験をした人間ですらそうなのである。いくら将成が何人もの大人から虐待を受け、実の母親に首を絞められて命を落としかけるという境遇を生きてきたと言っても、見ず知らずの他人はそんなことを斟酌してはくれない。事件を起こした人間の背景など想像もしてくれない。目先の事件だけを見て<更生の余地もない凶悪なクソガキ>と称して徹底的に叩き潰そうとするだろう。そういう事例は数限りなくある。それが現実なのだ。彼がいかに強がろうと、世間が相手では非力な子供でしかない。そしてそんな将成の保護者であったほの姫も同様に叩かれる。
だが、彼の力だけでは、ほの姫を守ることさえできないのだ。ほの姫をそういう目に遭わせないようにする為には、彼は事件を起こしてはいけないのである。誘拐未遂事件の時は彼はあくまで犯人の自動車に撥ねられただけだったから、そこまでのことにはならなかっただけでしかない。それだけの話なのだから。
だから、工藤浩一は、ほの姫だけでなく将成のことも守ったのだと言えるだろう。暴力に頼ることなく。
それがいつも上手くいくとは限らないが、浩一はそれが通用しないと思えばほの姫や子供達を連れて一目散に逃げる。どれほど馬鹿にされようと不様に見られようと、浩一はほの姫や将成が結果として守られる手段を取るし、その為ならば恥を恥とも思わない。そしてそもそも危険なところには近付かないし、家族や仲間を危険に曝すようなところに連れて行かない。そういう人間だった。
なお、実はこの時、
また、午前中に来たのもその為だ。人が少なく、故にナンパ目当ての人間も当然少なく、監視の目も行き届きやすい。事実、ほの姫をナンパしようとしてた男達の行動は、既に複数のライフセーバーや監視員の目に留まり、行き過ぎた行為と判断されれば駆け付ける準備も整っていたのだった。将成が暴力でどうにかしなくてもなんとかなる状態だったというわけだ。
弱い者には弱い者なりの身の守り方がある。人間には知恵を働かすことができる頭があるのだからそれを活かさない方が本来はおかしいのだ。『君子危うきに近寄らず』とは、まさにこういうことを言うのだろう。予測可能なリスクは事前に回避する。当たり前と言えば当たり前のことなのだった。
そんなことが起こっている一方で、宏香やシュリやケイやリカは、海を満喫していた。騒ぎなど起こせばせっかくの時間も台無しになっていたに違いない。大人であればそういうことも考えなければいけない。もっともこれは、半分以上、『ケイとの大切な時間を煩わしいトラブルで邪魔されたくない』というリカの考えであったのだが。しかしそんな風に知恵の働く人間を味方につけていた浩一の人望も大きいと言っていいと思われる。
とまあ、些細なトラブルはあったものの全体としては大きな問題もなく、楽しい海での一時は楽しいままで過ぎていったのだった。
正午を回り人が増え始めると、全力で遊んだシュリもさすがにバテてきて、昼食を食べて帰ることを承諾してくれた。遊ぼうと思えばまだ遊べなくはなかったが、人が増えればそれだけトラブルが生じる可能性も高くなる。十分に楽しんだのだから、楽しいままで帰った方が得策なのであった。これもまた、弱者故の知恵だ。
「いや~、楽しかった!」
シュリが満足気にそう声を上げると、将成を除く皆が笑顔になった。殆ど表情を変えることのない宏香でさえ、笑ってるような穏やかな目をしていた。事実これは、彼女の笑顔だったのである。いかにも分かりやすい表情ではなかったが、彼女は確かに笑っていた。
『笑ってんのか…?』
この時、将成にも何故かそれが分かった。何故分かったのか彼自身にも理解できなかったが、そう思えてしまったのだ。
こうして、夏休みの宿題である日記を書くのに絶好のネタとなる思い出ができたのであった。
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