努力と報い
『あれ…? そう言えば最近、
夏休みも半ばが過ぎた頃、ほの姫はふとそんなことに気が付いた。今日は会社の方で会議があるのでこの後で出掛けないといけないのだが、将成と一緒に朝食を摂っていた時に彼の顔を見てそう感じたのである。
と言っても、愛想よく笑ったりしている訳ではない。他人から見れば明らかに不機嫌そうな仏頂面なのは変わらないのだが、毎日すぐ近くで彼を見てきたほの姫には違いが分かってしまうのだった。これまでとは明らかに不機嫌さのレベルが違っていることが。
それが、<宏香ちゃん>達と関わっているからなのかどうかは分からない。ただ、間違いなくこっちに引っ越してきてからというのは確かだった。
『良かった。何だかんだ言ったって仲良くやってるんだな』
ほの姫はそう解釈した。彼女の解釈もそんなに的外れではなかっただろう。工藤宏香達と一緒にいることで将成の精神が安定しつつあるのは事実なのだから。ただ、彼自身はまだそれを認めようとはしていない。ここで迂闊にそのことを指摘すれば、逆に意固地になってしまう可能性もあっただろう。今はそっとしておくのが一番なのだ。本人が自分でそれに気付くまで。
ほの姫も、特に口には出さなかった。意図的に黙っていたというよりは、忙しくてそれどころじゃなかったというのもある。会社からの仕事で依頼された商品デザインが決まらず、何度もリテイクを受けていたからであった。彼女としては真面目にやっているのだが、実はクライアント側でコンセプトが煮詰まっておらず、方向性が二転三転して、決定寸前までいったものが没になるということもあったのだ。
普通ならキレてしまったり腐ってしまったりすることがあるかも知れないそんな状況だったが、鷲崎織姫の凄さはまさにそこにあったのだった。彼女はこの状況にあってもOKが出るまで何度でもやり直すということが当たり前のようにできてしまう人間だった。
底なしのお人好しと言うべきなのかどうなのか、しかしそれが彼女なのだから仕方がない。家事は苦手だが仕事については誠実で、根気強く、そして熱心なのだった。だから会社としても彼女のことは大切にしており、将成のことで学校に呼び出されるなど仕事にも影響の出るような事態があってもそれを理由に嫌味を言われたりすることはなかった。
彼女の方もそんな会社に感謝しており、故にいっそう仕事に誠実であろうとしているというのもあった。
そしてほの姫が会社に出向くべく部屋を出た時、隣の部屋の前にいた人物と目が合ってしまった。
ほの姫の部屋は六号室であり、隣の部屋は当然、七号室なのだが、現在は空き部屋であった。ちなみにこのアパートの部屋は全部で八室でありながら部屋番号は十号室まである。と言うのも、大家が割と昔の迷信とか縁起とかを気にする人物だった為に、四号室と九号室がなく、一階には一号室から五号室、二階には六号室から十号室があったのだった。
まあそれは余談なので置いておくとして、ほの姫が顔を合わしたのは、実は十号室の住人だった。十号室の住人が八号室を訪ねてきて、そこにたまたま出くわしたのである。
「おはようございます!」
ほの姫は何のためらいもなくそう声を上げて笑顔で挨拶をした。朗らかで明るく、見る者を和ませる温かい笑顔だった。
「あ、あ、お…おはようござ、います…!」
突然の元気な挨拶に、十号室の住人、
「課長、どうされました?」
会社では、上司が浮かない顔をしていた。それに気付いてつい声を掛けてしまう。
「いや、実は……」
と事情を口にする。ほの姫が抱えている案件とは別のことで頭を悩ませているとのことだった。
ほの姫が所属する部署では商品デザインを行っているのだが、そちら方面のCADの扱いに慣れていた社員が八月いっぱいで退職することになり、求人は出しているのだが、応募が全くないことで困っていたという話だった。
『……!』
その時、ほの姫の頭に閃くものがあった。
「あ、そうだ、CADの経験者なら、心当たりがあります。一度聞いてみますね」
この日の会議を終えてアパートに帰ったほの姫は、最近ではほぼ毎日のように夕食をごちそうになっている工藤家で、その話題を切り出した。
「実は、私の会社で工業デザイン系のCADの経験者を募集してるんですけど、もしよかったら先輩、どうですか?」
ほの姫が浩一にそう声を掛けたのには、訳がある。と言うのも、浩一は現在、彼が務める会社の方で飼い殺しに近い扱いを受けており、残業もさせてもらえない状態で一年半以上勤めていたのだった。
と言うのも、工藤の妻が長らく入院しており、宏香を家に一人にしておけないという理由もあって残業を減らしてもらえるように交渉したところ、『だったら一切残業はするな』とばかりに時間外労働分の給与をすべてカットしてきたのだ。
もちろんその分、残業をする理由も無くなったので浩一の方も敢えてそれを呑み、残業を一切しなくなった。しかしそれが故に同僚からも不興を買い職場で孤立。浩一自身があまりそういうことに拘らない性分だったこともあり孤立自体はさほど深刻な問題ではないものの、収入が大幅に減ってしまったことで工藤家の生活は苦しくなったのだった。
そんな状態が一年半以上続いているのだから、同等以上の条件でスムーズに転職できるならそちらに移ってもいいと考えているということを浩一自身から聞いていたことを、ほの姫は思い出したのだ。
これは、浩一にとっても渡りに船であった。
「条件を聞いてもいいかな」
とほの姫に尋ねると、基本的な給与はそれほど変わらないものの、在宅での勤務も可で、しかも会社の方に出勤する場合は月四十時間を上限に残業もあるという。さらに詳しい話を聞くと、仕事の内容もすぐに対応できるものだった。
こうなるともう話は早い。ほの姫も務めていることでどういう会社かはよく分かっており、また、会社としても浩一のように真面目に仕事をしてくれる人材なら大歓迎。さらに、浩一が現在勤めている会社の方も、『辞めてくれるならいつでもかまわない』ということで、とんとん拍子に話が進むこととなった。
もちろん、転職に当たっては妻とも話をした。しかし妻自身、無理に今の会社に勤めていてほしくないと内心願っていたことで「いいと思います」と二つ返事で承諾。八月の下旬から引き継ぎも兼ねて出勤すると正式に決まった。
これもまた、出会いがもたらした結果と言えるかも知れない。
「良かった…本当に良かった…」
話が決まったことで一番喜んだのは、浩一の妻だった。家庭の事情を理由に時間外労働の賃金を全カットし飼い殺しにしようとするような会社とは早く縁を切ってほしいと願っていたのである。だからほの姫に対しても、
「本当にありがとうございます」
と、浩一を通して深い謝意を示してきたのだった。
こうして
工藤浩一の転職が決まった頃、宏香の夏休みの宿題も終わっていた。二日分の日記は、一つは家族で人形が展示されたギャラリーに行ったこと、もう一つは当然、海に行った時のことを書いた。そして彼女は自由課題として、人形用の服を三点、用意していた。それらは小さいが非常に手の込んだつくりのドレスだった。
工藤宏香は料理の外に洋裁も得意で、小学六年生ながらその腕前は既に大人顔負けであった。時間があれば服作りをしており、今回の自由課題として提出するものも実際には夏休みに入る以前から作り始めていたものでもあった。最初はあくまで子供らしい興味から始めたことではあったが、宏香自身にその才能があったらしく、工藤の妻の手ほどきもありそれが開花。今では学校主催のフリーマーケットの人気商品の一つとして喜ばれてもいた。
「うわ~、うわ~、すごい! これ全部、宏香ちゃんが作ったんですか!?」
いつもの如く工藤家で夕食をいただいていたほの姫が、自由課題として机の上に用意されていた人形用の服を見付けてもしやと思って浩一に尋ねたところ、宏香が夏休みの自由課題として作ったものだと説明したことで感心して声を上げたのだった。以前から話には聞いていたし引っ越し当日に夕食に誘われた時にも人形に着せられたそれを見ていたのだが、さらに進歩した出来栄えをこうして直に見て圧倒されたというのもあった。
「ショック~、料理だけでなく裁縫でまで足元にも及ばない…」
ほの姫も、ボタン付けくらいならできるのだが、明らかにそれとは次元の違う宏香の<作品>に、またしても打ちのめされるのを感じていた。
「でも、嶌村さんのイラストもすごいじゃないですか。以前に見せてもらったイラスト、宏香も驚いてましたよ」
ほの姫は元々、趣味でイラストを描いていた。その流れで今の会社の商品デザインの仕事をするようになったのだ。
浩一のその言葉に少し励まされ、ほの姫は宏香を見た。すると宏香もはっきりと頷いた。正直、子供に気遣われたような気がして情けなさもないではなかったものの、彼女の真摯な視線に救われたのもあった。
懸案だった仕事も無事にこなせた安堵感も手伝って、ほの姫は感極まって泣いてしまっていた。
「ありがとう、宏香ちゃん、嬉しいよ~」
するとその時、宏香が膝立ちになり、そっとほの姫の体を包み込むようにして抱き締める。
「…え?」
突然のそれにほの姫も驚いた様子だったが、自分の体に回された少女の腕の優しさとぬくもりに、自分が魅了されていくのさえ感じてしまった。こんな小さな体の女の子なのに、それはとても大きくて深みを感じさせる抱擁だった。母親に抱かれている時に感じたもの以来の感覚だったかもしれない。
『うそ…どうしてこんなに……』
ほの姫は戸惑った。<宏香ちゃん>がどんな境遇だったのかは聞かされていた。世間を恨み他人を恨み大人を恨み、荒み切った心持ちで他人を傷付けようとしても何もおかしくない、そう、将成と同じようになってしまっていても何もおかしくない筈の少女の器の大きさに、甘えて胸に顔をうずめたくなる気持ちにさえさせられてしまう。
『これって、先輩がこの子を育ててたから…? 先輩がこの子の保護者だったから…?』
そんな風に思った瞬間、ほの姫の目からさらに涙が溢れた。それはさっきまでのものとは全く意味の違う涙だった。
『先輩は宏香ちゃんをこんなに優しい子に育てられてるのに、私は、私は将成のことを全然……!』
そう。工藤浩一が育てている宏香に比べて、自分が面倒を見ている将成の荒んだ様子との差に、打ちのめされてしまったのである。どうしてこんなに違ってしまったのか。いったい何が自分に足りなかったのか。様々な想いが一気に溢れ出してくる。
宏香と将成の元々の性格の違いと言ってしまったらそれで終わってしまうのかも知れない。だが、ほの姫にはそれだけではないように感じられた。何かが決定的に違っているのだ。自分の接し方には根本的に何かが足りないと感じてしまい、それが悲しかったのだ。そして、将成に対して申し訳なかったのである。
『ごめん…、ごめんね将成…私、ダメな保護者だったよね……』
自分の腕の中で泣きじゃくる、自分の倍ほどもありそうな体の大人の女性を、宏香はただ黙って抱き締め、小さな子をあやすようにその背中を優しくとんとんと触れていた。その姿は紛れもなく母性を感じさせるものだった。
ほの姫はこの時、自分のことを責めてしまっていたが、彼女は十分に頑張っていた。並の人間ならできないようなことをこれまでやってきたのだ。生活費をもらってる訳でもない、養育費を出してもらってる訳でもない、血の繋がりなど全くない、中学の時に何となく親しかっただけの、友達というにも浅い関係でしかなかった女性の子供を引き取ってここまで育ててきたのだ。これだけのことができる人間などそうはいない筈だ。
確かに、彼女にはできないこともあっただろう。だが人間は完璧ではない。何でもかんでも一人でできる人間など存在しない。誰しも向き不向きがあって、できることとできないことがあるのだ。そして彼女は、彼女にできることはしっかりとやってきた。頑張ってきたのだ。それを恥じる必要も卑下する必要もまるでない。ほの姫は十分に努力してきたのである。
だからこそのこの出逢いなのだ。彼女のこれまでの努力に報い、その上で彼女に足りなかった部分を補ってくれる存在として、彼女は工藤浩一と再会し、彼を通じてたくさんの人と出会えたのだ。工藤宏香も、その一人なのだ。
今はただ、そのぬくもりに甘えればいい。これまで頑張ってきたことを正当に評価してくれているのだから。相手が小学六年生の女の子だとか、そんなことは関係ない。工藤宏香には、嶌村ほの姫を受け止められるだけの器があるのだから。
自分でも何でこうなったのか分からないままに泣いて、ひとしきり泣いて、ほの姫はようやく我に返った。小学六年生の女の子に縋って子供みたいに泣いたことに気付いてしまって、慌てて涙を拭った。だがその顔は涙どころか鼻水まで溢れてて、ひどい有様であった。
「はい、顔を拭いて」
浩一が差し出したフェイスタオルで顔を拭いたほの姫は、しかしタオルから顔を上げることができなかった。
『は…恥ずかしすぎる……』
冷静になってしまってあまりにみっともない姿を見せてしまったことが恥ずかしくて恥ずかしくて、死にそうな気分だった。同じような泣き顔ならこれまで相談した時にも見せたことがある。だが今回は相手が小学六年生の女の子だというのが大きく違っていた。
「なんで…、私、なんでこんな…」
言葉すらうまく出てこない。しかし浩一と宏香は、そんなほの姫を温かく見守っていた。
「いっぱい頑張って気を張ってきたんだね…
それがふと緩んでしまったんだと思う。でも、それでいいと思うよ。人間、時には気を緩めることも必要だって、僕は宏香を始めとした多くの人達から教わった。張り詰めてるだけじゃダメなんだって、それじゃもたないって、教わったんだ。
だから嶌村さんも僕達に甘えてくれたらいい。嶌村さんは十分に頑張ってるからね」
そう言われて、ほの姫はまた、フェイスタオルに顔をうずめたまま泣き出してしまった。
そんな様子を、将成はただ呆然と見詰めていたのだった。
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