事実と齟齬

将成しょうせいは思っていた。


『あいつら、なんか変だ。なんかおかしい』


それは、工藤宏香くどうひろか達のことだった。幸福な家庭に生まれ育ち平和ボケで頭の中にお花畑を作ってるような連中とは何かが違っていると感じていた。その直感は正しいのだが、宏香達がいちいちそれを語ってこないのでどうしても掴み切れないのだ。かと言ってこちらから聞くというのも癪に障る。だから学校ではとにかく無視した。しかしそういう風にしているとますます『クールでカッコいい』と言い出す女子がいて、どうすればいいのか彼は戸惑うしかできなかった。


そんなある日、将成は授業中になぜかふと横に視線を向けていた。宏香のいる方だ。すると彼女が、ポリポリと自分の首の後ろを掻いていた。無意識の仕草だったのだろうが、将成はそれを見てハッとなった。彼女の首筋に、何かを見付けてしまったからだ。


その瞬間、彼はいろんなことが納得いった気がした。


『なんだよ、こいつもかよ』


そう思った。そしてそれを確認する為に、給食が終わった時、宏香の横に立ち、声を掛けた。


「ちょっとついてこいよ」


そのただならぬ様子に、他の生徒達は遠巻きに様子を窺うだけだった。しかし当の宏香は黙ったまま静かに頷き、歩き出した将成の後に大人しくついていった。二人が出て行った後、女子生徒が何人か教室を出て二組の教室へと入っていく。


宏香を伴って、将成は音楽室の前に来ていた。そこは、普段あまり生徒が来ない場所だった。アパートの周囲を調べるように歩き回ったのと同じく、学校の中も昼休憩中などに歩き回ってだいたいどんな感じか把握していたのだった。


二人きりになり、彼は突然、右足の靴と靴下を脱ぎ、宏香に向けて足の指を広げて見せて言った。


「お前の首の後ろに、これと同じのがあるだろ」


<これ>。そう言われた瞬間、宏香は自分の首の後ろを手で押さえた。彼女が見た将成の足の指の間には丸く茶色い痣のような変色がいくつもあった。そう、確かに宏香の首の後ろには、それと同じような痣があったのだ。彼はそれを見付けてしまったのである。


「……」


黙って頷く宏香を見て、将成は靴下と靴を履き直し、苦笑いを浮かべながら言った。


「…お前、俺と同じだったんだな」


その言葉に、宏香は再び頷いた。


<同じ>。そうだ。工藤宏香も将成と同じだったのだ。実の両親を始めとした大人達から虐待を受けてなお生き延びたサバイバーであることに、将成はようやく気付いたのであった。




工藤宏香は、元の名前を肆城宏香しじょうひろかといい、生まれた時から実の両親にその存在を望まれなかった子供だった。彼女を生んだ実の母親は、自宅で彼女を産んですぐに行方をくらまし、現在も消息が分かっていない。


彼女の実父は、その時、宏香を生んだ女性とは別の女性とも同居していて、その女性を母親として、しかも大学時代の後輩だった人物の実家が産婦人科だったことを思い出し、強引に頼み込んでそこで分娩したことにして出生届を作成させたのである。


その後、宏香が何故、工藤浩一くどうこういちの下に預けられるようになったかと言えば、彼が、宏香の実父の遠縁の親戚だったというだけの理由でしかなかった。宏香の実の父親が突然、浩一が当時、後に妻となる女性と共に住んでいたアパートに現れ、一方的に宏香を押し付けて行方をくらましてしまったというのが経緯だった。それが三年前の話だ。


それまでにも、宏香の実の父親は、彼女を連れて女性の下を転々とし、<ヒモ>として暮らしていた。その間に、宏香は複数の大人達から、<躾>と称し、殴る蹴るはもちろん、火の点いた煙草を押し付けられたり、水を張った浴槽に沈められるなどの苛烈な虐待を受けた。特にその際に感じた<死の恐怖>が、決定的に彼女の情動を破壊したものと思われる。


食生活も酷いもので、栄養失調まではいかなかったものの体の発育は遅れ気味となり、虫歯になっても歯医者にすら連れて行ってもらえず、痛みを訴えれば折檻され、いつしか彼女は心を閉ざし、ただ苦痛に耐えるだけの人形と化していった。殆ど他人と会話もできない、表情を作ることもできない、人形のような子供へと育っていったのだ。将成は他人への攻撃性を先鋭化させたが、宏香は内に閉じこもることを選択したのだろう。


そして、九歳の誕生日を迎える直前にほぼ赤の他人のような遠い親戚の工藤浩一のところに置き去りにされ、それ以降、現在まで実の父親の消息も確認が取れていない。ちなみにタネを明かせばそれは、借金から逃れる為にホームレスから戸籍を買い、他人に成り済ましていたからなのだが、娘の宏香がその事実を知ることは生涯なく、実父と再開することもなかった。なのでこの話はここで完結する。


いずれにせよ、工藤宏香も、将成に負けず劣らず、どこかで命を落としていても不思議ではなかった児童虐待のサバイバーであることには間違いない。そのことを、将成は知ったのだった。


だからと言って慣れ合うつもりは毛頭ない。傷を舐め合うつもりもない。ただ工藤宏香が自分を恐れない理由が分かった気がしただけだ。


と、その時、将成は廊下が折れて死角になっている辺りに人の気配があることに気付いた。一瞬見えた姿に見覚えがあった。藤舞美朱里ふじまいみしゅり八上慧一やがみけいいちだ。だがそれ自体は想定の内だったし、邪魔されずに目的は果たせたからもうどうでもよかった。靴下を履き靴を履き、


「でも、俺はお前らと友達ごっことかするつもりねーからな」


と彼女に釘を刺して、その場を去っていった。


一人、音楽室の前に残された宏香は彼の去った方を見詰めていた。その表情はいつもと変わらないもののように見えた為に何を考え感じていたのかは分からなかったが、そんな彼女を迎えに来た美朱里と慧一の二人は何かが分かっているのか、温かい笑顔を宏香に向けていただけだった。


この後、将成は、藤舞美朱里が母親と姉二人に虐待を受けていたこと、八上慧一が幼い頃に母親を亡くしていることも知ることとなった。それでも彼は大きく態度は変えなかった。ただ、無闇に邪険にはしなくなっただけである。しかし宏香にはそれで十分だったのだろう。彼を見る彼女の表情が、ほんの少しだが柔らかくなったようにも見えたのだった。




だが、七月に入り、プール授業が始まったばかりの頃にそれは起こった。


将成のことを『カッコいい』と言ってファンクラブのようなものを勝手に立ち上げていた女子達の間で、ちょっとした諍いが起こったのである。


「ちょっと、サヤカ。あなたこの前の日曜日、将成君のアパートに手紙を入れに行ったんだって?。それって抜けがけだよね」


放課後、そう言ってある女子に詰め寄っていたのは、神守将成こうもりしょうせいファンクラブ会員番号001にして代表を自認している、六年一組の佐久桐穂邑さくぎりほむらであった。そして詰め寄られているのは、同じく会員番号004で六年二組の倉鹿野清香くらしのさやかだった。


こういういわゆるファンクラブなどではよくそういう取り決めをしているのだろうが、この集団でも、それぞれ勝手な行動をしたり抜け駆けをしたりしないようにと暗黙のルールがあったのだった。それを倉鹿野清香が破ったと、佐久桐穂邑は言っているのである。


するといきなり頭ごなしに詰め寄られたのが癇に障ったのか、倉鹿野清香の方も、


「は? 手紙を送るのもダメとかそんなこと言われた覚えありませんけど?」


と、少々ケンカ腰の態度で応じた。


こうなるともう、売り言葉に買い言葉で感情的になってしまうのは人の業というものだろうか。この日を境に、<神守将成ファンクラブ>は、佐久桐穂邑派と倉鹿野清香派に分かれ、表立ってぶつかり合うことはないものの、静かに反目しあうという状態に突入したのである。


当の将成本人の全く与り知らないところで。


この学校は、イジメなどについては非常に気を配って対応してはいるが、しかし生徒同士が理性的に話し合う分にはいきなり介入したりはせず様子を窺うということをしているので、彼女らもそれは承知しており、露骨なぶつかり合いは避けているようだった。が、お互いに相手側のことを無視するようになり、それでいてどちらも将成の姿が見える場所にいようとするので、何とも言えない微妙な空気が漂ったりしていた。


だが、工藤宏香はそういうことには一切関知しない。女子の間でも彼女はやや特殊な立場にいて、他の生徒達からは藤舞美朱里と八上慧一とのセットと見られていたので、それ以外に対しては完全に中立という存在だった。彼女の、誰に対しても態度を変えないそのキャラクターが、ある意味では一目置かれる感じになっていたとでも言うべきだろうか。だから彼女が将成に対して世話を焼くような振る舞いをしても、ただ隣の席でしかも同じアパートに住んでるからというだけのことであって、特別な感情もなくそうしているのだと思われていたのだ。実際、この時には宏香の方には将成に対する特別な感情は確かになかった。皆が思うように、ただ近くにいるからというだけだった。


が、変な形で対立して少々感情を拗らせていた神守将成ファンクラブの女子達にとっては、全くそういうことにはお構いなしでいつも通りに将成に接する宏香の振る舞いが、特別な意味を持ってしまったようだった。いや、特別な意味があるように勝手に解釈を加えてしまったとでも言うべきか。牽制しあってお互いにアプローチができずにいた自分達のことなど眼中になくこれまで通りに振る舞える彼女に対して、ヤキモチを妬いてしまっていたのだ。


『私達はこんなに我慢してるのに、どうして工藤さんだけ…!』


まあ、それは完全にお門違いの八つ当たりである。宏香にしてみれば本当にとんだとばっちりなのだが、人間の感情というものは時にそういう理不尽な方向に偏ってしまうのもまた残念ながら事実なのだろう。そしてとうとう、ある日の昼休みに、佐久桐穂邑と倉鹿野清香の両方から呼び出しを受けてしまうことになった。


「工藤さん。ちょっと付き合って」


そのただならぬ雰囲気を、将成もさすがに感じ取っていたのだった。




佐久桐穂邑さくぎりほむら倉鹿野清香くらしのさやかの二人に呼び出された宏香は、特に抵抗するでもなく躊躇うでもなく、大人しくそれに従って教室を出て行った。その様子を見ていた女子数人が二組の教室へと走る。


それとは別に、将成もいつもそうしているように教室を出て行った。まるで縄張りを見回るように学校内をぶらつくのはいつものことであった。


ただその方向は、宏香が連れて行かれた方だったが。


そして将成が校舎の裏が見えるところまで行くと、そこには宏香と、十人ほどの女子生徒の姿があった。神守将成ファンクラブのメンバーだ。佐久桐穂邑派と倉鹿野清香派に分かれて反目しあってたはずが、その両方のメンバー全員の姿があった。工藤宏香を問題とすることで、一時的に休戦したというところなのだろう。


将成は、校舎の陰からその様子を窺っていた。声が小さくて聞き取れないが、少なくとも楽しげな雰囲気でないことだけは分かった。


彼には聞き取れなかった内容としては、以下のようなものである。


「工藤さん。工藤さんは将成くんには興味ないはずだよね? なのに最近、ちょっとなれなれしくないかな?」


「私達が将成くんの迷惑にならないようにって自重してるのに、おかしくない?」


「だから将成くんにあんまりなれなれしくしないでほしいの」


「あなたは慧一くんと仲がいいんだからそれで十分でしょ?」


とまあ、こんな感じだ。実に身勝手と言うかお門違いと言うか、いささか冗談のような話ではある。そんなわけで、宏香の方も相手にもしていなかった。


「…私が好きなのは、お父さんだから…他の男の人には興味ない……」


それは、宏香のことを知ってる六年生の生徒なら大体誰でも知ってることだった。<工藤宏香はファザコンである>と。まあそういう意味もあって基本的に安全パイと見られていたというのもあったのだ。彼女はそれを改めて明言しただけである。


しかしこの時は、女子生徒達は少々普通の心理状態ではなかった。ちょっと感情を拗らせて物事を曲解してしまう状態にあったのだ。そのせいで、宏香の言い方が単なる言い逃れのようにも聞こえてしまったのだった。


「そんなこと聞いてんじゃないの! 将成くんになれなれしくしないでって言ってるの、私たちは!」 


ついそんな風に声を荒げてしまったのを見て、将成の体が反応しそうになった。だがその瞬間、


「ちょっと、あんたたち! 宏香に何やってんの!?」


断固とした意志を感じさせる、力のある声がその場の空気を叩いた。それに将成も思わず体の動きを止めて、再び姿を隠した。その場にいた全員の視線が声の主に集中する。藤舞美朱里であった。藤舞美朱里と八上慧一が校舎から出て来たのである。


美朱里の剣幕に、宏香に詰め寄っていた女子生徒達の昂っていた感情は、一気に萎えてしまった。六年生の女子の中では一~二を争うほどに体が大きくて、押しが強く、目力のある美朱里にそういう態度に出られると反抗できる者は殆どいなかったのだ。実際、彼女は運動が得意で力もある。腕相撲では男子ですら敵う者は少ない。また、姉二人や母親からの暴力に曝されていたことで暴力的なことに対する耐性もあり、派手なケンカをしたことはなかったがやれば間違いなく強いというのは誰の目にも明らかだった。それでいて、普段はそういうことをひけらかす訳でもなかったが。


それを、将成も改めて感じた。


『こいつ…やるな……』


すっかり意気消沈してしまった女子生徒達に、美朱里は言った。


「あんたたちもさあ、宏香が男の子に興味ないの知ってるでしょ? 神守くんとも別に何でもないよ? いっつもそばにいる私とケイが保証する。だから心配要らないって。あんたたちはあんたたちで好きにやったらいいんだよ。それを神守君がどう思ってるかは知らないけどさ」


そう言われて、佐久桐穂邑と倉鹿野清香達もようやく冷静になれたようだった。確かに宏香が将成に色目を使ってる訳じゃないのは分かっていた。ただ自分達がままならない状態だったのを、彼女のせいにすり替えてしまっていたのだ。それに気付けば後は早かった。


「ごめん…、美朱里の言う通りだよね」


「ごめんね工藤さん」


その謝罪で、この問題については片が付いた。元よりただの思い違いのようなものだったのだ。彼女らがお互いに牽制し合っていたストレスの捌け口を工藤宏香に求めてしまっていただけだったのだから。


こうして、教師が指導するまでもなくそれは終わった。そして皆がその場から教室に戻ろうとした時、黙ってそれらの様子を見ていた慧一が何かに気付いたように美朱里に耳打ちをした。すると今度は美朱里が宏香に耳打ちをして、指を差した。それに応じて宏香が視線をそちらに向けた。将成がいた方向に。


『見付かった…!?』


咄嗟に身を潜めた将成だったが、彼自身も分かってしまっていた。確かに、工藤宏香と目が合ってしまったのだ。しかもその目は、微笑んでいたように見えた。嬉しそうに。


それに気付いた将成の胸が、ドクンと大きく脈を打っていた。




とは言え、その後何かが変わったかと言えば、何も変わってはいない。工藤宏香は相変わらず無表情で淡々としてるし、ファンクラブの女子達も遠巻きに将成のことを見詰めているだけだ。だが、それでよかったのだろう。何もないというのは平穏だということなのだから。


将成も宏香のことは相変わらず無視するような態度を取っていた。ただ若干、刺々しさが減ったようには思えるかもしれないが。


思えばこれがきっかけではあったのだろう。『好きなのは父親である工藤浩一であって、他の男子には興味が無かった』宏香が少しずつ変わり始めたのは。ただしそれが他人から見てもそうだと分かるようになるまでは、ここからさらに数年の歳月が必要だった。二人がいわゆる『付き合ってる』状態になったのは、高校三年も終り頃だったのだから。


まあそういう訳で、この時点では美朱里の言っていたことも間違いではなかった。宏香は別に将成のことを特別に想ってなどいなかったのも事実ではある。その意味では、ファンクラブの女子の誰にでもチャンスはあったのだった。ただし、将成にとっては迷惑以外の何ものでもなかったのも悲しいかな事実だった。結論から言えば、宏香の淡々とした振る舞いが一番適切だったのだろう。必要なことを必要なだけするのみで、他に余計なことをしないというのが肝だったということか。


しかしそれが影響として現れるようになるのはずっと後になってからのことである。今はまだ関係ない。


こうして毎日は流れるように過ぎて、夏休みに突入していったのだった。


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