修羅と凶獣

将成しょうせいが今の学校に転校してきて一ヶ月が経ったある日。彼は学校が終わり部屋にランドセルを置いた後、いつものようにアパートの周囲を歩いていた。どこに何があり、どれが誰の家かということもけっこう分かってきた。当然、大体いつも見掛ける顔というものもできてくる。


だがその日に将成が見掛けたのは、この辺りでは見たことのない顔だった。艶のないぼさぼさの髪、ジャージの上下を着た男で、年齢は二十代から三十代半ばといったあたりだろうか。


『こいつ……』


彼はその男を見た瞬間、ピンとくるものがあった。視線の送り方がまず普通じゃなかった。落ち着きなく周囲を窺い、将成のことも明らかに不愉快そうに見た。邪魔者を見る目だった。


そこで将成は曲がる予定ではなかった角を曲がり、男の視界から外れ、その瞬間に走り出し、ぐるっと回り道をして男の前に出た。しかし完全に姿を現すのではなく、物陰から様子を窺う。


『狙ってやがる……』


彼には予感があった。いや、それはむしろ確信と言った方がいいかも知れない。あとは決定的な瞬間を押さえるだけだ。その男の前には、小学校高学年くらいの少女の姿があった。六年生ではなかった気がするが、顔は学校やこの近所でも何度も見たことがあり、家も知っている。恐らく五年生だろう。男の視線は、確かにその少女を捉えていた。


男はスマホらしきもののカメラが少女の姿を捉えるように構えていた。盗撮だ。シャッター音がしないことから、音を消しているか動画を撮っているものと思われる。


『ちっ! その程度かよ…』


当てが外れて将成は声を出さずに悪態を吐いていた。この程度では弱い。大した騒ぎにならない。せいぜい警察に注意されて画像を消すことを促されるくらいで済んでしまう。それでは駄目なのだ。もっと、世間から罵詈雑言の集中砲火を浴び、情報を晒され、社会的に抹殺されるくらいでないと面白くない。それにはまだまだこれでは足りなかった。


『でも…まだチャンスはあるか……?』


彼がそう感じた根拠は、その少女の家が近く、しかもその少女の家はいつも留守らしく、自分で鍵を開けて声を掛けることなく入っていくのも何度か見たという事実だった。


『……』


将成は男からも少女からも気付かれないように身を潜め、息を殺し、その時を待つ。


やがて少女が自分の家に着き、鍵を取り出し玄関を開けようとした瞬間、男が動いた。ドアを開けて家に入ろうとしていた少女の背後から足音を立てずに近付き、彼女を家の中に突き飛ばして自らもその中に入った。


『よっしゃ! やりやがった!!』


将成は歓喜した。久々の大きな獲物に心が躍り、それに突き動かされるように走った。


だが、その時、少女の家に向かって走っていたのは彼だけではなかった。


「何やっとんじゃ、おるぅあぁああっっ!!」


静かな住宅街中に響き渡るような怒声が空気を震わせたかと思うと、将成よりも先に少女の家の玄関を開け放ち、制服に身を包んだ短髪の<彼女>はそこに仁王立ちになった。だが、制服と言ってもスカートではなかった。男子が着ているそれと同じスラックスを穿いていた。しかし前がすべて開け放たれたブレザーのボタンの位置は男子のそれと反対であり、声も腹から絞り出され音量も音圧も半端ではないが紛れもなく女性のそれだった。だから間違いなく<彼女>であった。


「おんどりゃ何さらしてけつかる!!」


突然ドアが開けられてどすの聞いた罵声を叩き付けられ、中にいた男と少女は完全に度肝を抜かれて硬直していた。男が少女の口を押えた格好のままで。


『な、なんだこいつ!?』


完璧に出遅れた形になった将成も彼女の背後で固まり、呆然としていた。


「貴様か! 貴様がやったのかこのクソがあっ!!」


彼女は男の体を掴んで少女から引きはがし、玄関から力尽くで引きずり出した。彼女と、決して大柄ではない男の体格はほぼ互角だった。こうなると機先を制した彼女の方が圧倒的に有利だっただろう。


「うわっ! うわっっ!」


それでも男はようやく我に返ったのか彼女の手を振りほどき、逃げようと走り出した。その前には出鼻をくじかれて立ち尽くしていた将成がいた。男は将成を突き飛ばしてさらに逃げようとしたのだろう。が、その為に伸ばした手を空を切り、しかも踏み出そうとした足に何かがぶつかって前に出ず、男はそのまま派手につんのめって転倒した。


必死に逃げようとしたことで勢いがつき、咄嗟に両手をついたもののそれでも支えきれずにガツンと音がするくらいにアスファルトの道路に顔を打ち付けた。


「がっ!」


と悲鳴とも絶叫ともつかない声を上げて倒れた男だったが、なおも逃げようと体を起こす為に手をつく。顔を上げると頬も唇もアスファルトにこすりつけたか皮膚がずるりとめくれ、血が滲み始めていた。


しかし男は起き上がることはできなかった。


「逃がすかクソがあ!!」


男を少女の家から引きずり出した彼女が男の体に馬乗りになり、頭を掴んで再び顔を道路へと押し付けた。


「や、やめて、やめてえ…っ!」


完膚なきまでに制圧されて、男はまるで子供のように泣きそうな声でそう呻いた。


ここまでの騒ぎになるとさすがに近所の人間も何事かと家から出て来たり窓から様子を窺っていた。男が押し入った家の少女も恐る恐る様子を窺っていた。その少女に向かって彼女は訊いた。


「こいつ、知ってる人!?」


そう聞かれて少女は思い切り頭を横に振った。やはり乱暴目的の変質者であった。


「じゃあもう遠慮はいらないね!? このままアスファルトに頭こすりつけて摩り下ろしてやろうか!? ああっ!?」


彼女がすごむと、男は「ごめんなさいごめんなさい」と本当に泣きだしてしまった。


「ああもう、ウザイ! 誰か警察! 警察呼んで!! でないとあたし、こいつぶっ殺しちゃうかもしれないから!!」


そのあまりの迫力に、逃げようとした男の脚を蹴って転ばせた将成ですら、呆気に取られるしかできないのだった。


『ホントに何だよこいつ…』




しばらくして警察が掛けつけると、少女から事情を聴いた近所の住人の説明を受けて、彼女が馬乗りになって押さえつけていた男の身柄を確保、住居侵入、婦女暴行の容疑で緊急逮捕となった。


少女を変質者から守り逮捕に協力した彼女ではあったが、さすがに蛮勇が過ぎるということで警察官からしっかりと諭されていた。将成はその一部始終を見ていたが、そんな結人に気付くと彼女はぐっと親指を立てて『ありがと』と口を動かした。逃げようとした男を彼が転ばせたことを言っているのだろう。


その時、


「ルカ! なにあんた、何したの!?」


と声がして、彼女がその声の方に振り向いた。


「あ、ごめんごめん、ちょっとね」


ルカと呼ばれた彼女は、自分に向かって声を掛けてきたセミロングで制服姿の女性に向かって困ったように笑った顔を見せた。


「もう、なに? また痴漢でも捕まえたの?」


新しく現れた女性の方は、ブレザーはルカと同じだったが下はスカートを穿いており、見たまま女性だと分かった。


ルカと呼ばれた彼女の名前は、岸咲流華きしざきるか。高校三年生のれっきとした女子高生だった。ルカに声を掛けたのは桝谷阿由美ますたにあゆみ。ルカと同じ学校に通うこちらも女子高生である。待ち合わせの時間になっても現れないルカを探しに来てこの場に出くわしたのだった。


「あのね、痴漢とか変質者とか許せないのは分かるけど、危ないことはやめてよ。心配する方の身にもなってよ」


桝谷阿由美がそう言うと、ルカを諭していた警官も、


「そうですよ。今回は上手くいきましたけど、こういう時はすぐに警察を呼んでください。お願いします」


と、いささか呆れ顔で言っていた。それには取り合わず、


「ごめん、分かってるんだけどさ。目の前にすると抑えが効かなくなっちゃって…」


ルカは泣きそうな顔で自分を見詰める桝谷阿由美に頭を掻きながらそう詫びた。


そう、彼女のそれは正義感などではなかった。どちらかと言えばむしろ憎悪、変質者に対する憎しみが彼女を動かしていたのである。この時、ようやく落ち着いてきた将成も、ルカの中にあるものを感じ取っていたようだった。


『こいつも、キレる奴かよ。さては変質者に何かされたな?』


結人の推測はその通りだった。ルカは、岸咲流華は、変質者と言うか性犯罪者に家庭を滅茶苦茶にされた被害者だった。しかもその性犯罪者というのが、彼女の実の兄の一人だったのである。幸か不幸か、彼女の時は未遂に終わったものの、その後、ルカの兄は無関係な女性の部屋に侵入して強姦するという事件を起こし、家裁で『成人と同じように裁判を受けさせるべき』との判断を受けて行われた裁判員裁判で有罪判決を受けて少年刑務所に収監されてもなお本人は無罪を主張し現在も裁判が続いている。


ルカは、その兄の犯行の被害者の一人であると同時に加害者の親族でもあり、兄が事件を起こしたことで家庭が崩壊、両親は離婚し、一応の親権を得た父親とも一緒には暮らせず、現在は知人の家に居候させてもらっている状態だった。その為、元々行動的と言うか若干無鉄砲なところもある、典型的な<頭で考えるよりも先に体が動く>タイプだったこともあり、痴漢や変質者を見ると頭に血が上ってしまって後先考えない行動に出てしまうことがあるのだった。


特に今回は、家に押し入るなど悪質性が高く、兄に乱暴されそうになった時の記憶が蘇り、一気に逆上してしまった感じだろう。将成が<凶獣>だとするなら、ルカはさしずめ<修羅>と言ったところか。


「今後また警察で事情を聞かせてもらうこともあるかも知れません」


と警察官に告げられて苦笑いしつつ、去っていくパトカーに頭を下げたルカに、桝谷阿由美が声を掛けた。


「もう…あの時のこと忘れたの? やり過ぎたら罪に問われるんだよ。今のルカがそんなことになったらサキやケイにもすごい迷惑掛けるんだから、自重してよね」


その瞬間、将成がハッとなる。


『そうかこいつ、八上んとこに出入りしてる女だ…!』


そう、慧一けいいちの家に高校生くらいの女子が出入りしているのを何度か見かけたが、その中の二人がこの岸咲流華と桝谷阿由美だった。はっきりと顔は見ていなかったが、『ケイ』という名を聞いてピンときた。


『まさかこんな形でまたあいつらの仲間と関わり合いになるとか、呪われてんのか?』


とさえ思ってしまった。まあもっとも、いつもこの近所にいるのだからこうやって出くわすことも特別珍しいことでもないだろうが。


すると、自分を見ていた結人の方に、ルカが振り返っていた。


「君もあの子を助けようとしてたみたいだね。あたし、男は嫌いだけど、君はなかなか見所あると思うよ。怪我とかしてない? 大丈夫?」


そう言ってまた親指を立てて見せた。


「…問題ない…」


将成は吐き捨てるようにして言い残し、その場を立ち去った。




その事件は結構なニュースになり、連日テレビで報道された。ただし、事件を未然に防ぎ容疑者逮捕に協力した女子高生がいたことは、騒がれたくないというルカの意向を受けて警察が発表しなかった為、殆ど知られることはなかった。ましてやそこに将成も協力していたことも。


いつもならそういうニュースを見て犯人がどういう目に遭うかを想像して笑い転げていた彼だったが、今回はさすがにそうはいかなかった。なにしろ自分は殆ど何もしていないのだ。横取りされたと言ってはおかしいかも知れないが、まあ結果としてはそういうことになるのだろう。憮然とした表情でテレビを視ている将成の姿があった。


その後、どうしてもこの近所をうろつくことが多い将成は何度も岸咲流華に遭遇し、その度に『よっ!』っと気安く声を掛けられすっかり顔馴染みになってしまっていたりもした。そしてとうとう、八上家の近くを通りがかった時に見付かってしまい、慧一や美朱里みしゅりと同じ六年生で、しかも宏香とは同じクラスだということが知られてしまったのだった。


彼は親し気に声を掛けてくるルカを無視し、足早にその場を立ち去る。


「あちゃあ、しつこくしすぎたかな? 嫌われちゃったみたい」


将成の反応にルカがそう言うと、


「ああ、あいついつもあんな感じだよ。クールぶってるんじゃないかな」


と、一緒にいた美朱里が笑った。だがそれはバカにした感じの笑い方ではなかった。ただ朗らかなだけだ。


そんな美朱里達の横で、宏香が、将成の立ち去った方を静かに見詰めていた。


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