第9話 火を与えられし者達 前
炎は闇を、より濃く映す。
「伏せろ!」
その号令に、塹壕へと身を投げる。
誰が発した言葉か、何故発された言葉かも関係ない。
下っ端としては、ただ命令に従うだけだ。
そうでなければ、ここでは生き残れない。
爆音が近くで聞こえた。
心臓に響くほど大きく響く音。
衛生兵を呼ぶ声が聞こえた。
悲鳴が上がる。
何人か逃げ遅れたらしい。
生身の人間は弱い。
脆くて、すぐに死んでしまう。
この前線に立って、まざまざと見せつけられる現実に、精神は疲弊しきっていた。
生身の人間である俺が、果たして明日生きて立っているなどと、誰が保証してくれるだろう。
自分ですら、そんなこと、夢にだって思わない。
ずっと、死神の鎌を、喉元に突き付けられている。
ここではきっと、皆がそうだ。
塹壕から出ると、そこには地獄絵図が広がっていた。
足のもげた仲間。
半身の無い死体。
柔らかい何かを踏む。
足元を見れば、誰かの腕が転がっていた。
「……」
そっと足を退ける。
気持ちが悪い、とただそれだけを思った。
つい数か月前までは、こうした光景にいちいち取り乱していたものだが。
慣れて、しまったのだろう。
「無事なものは進め!列を乱すな!」
上官の声に、銃を構えて足を動かした。
帝国陸軍第四連隊十五小隊第一班。それが俺の所属だ。
同じ農民上がりという、エピメテウスとは大きく違い、大した戦果も挙げず、ただ、生き延びてきた。
生身の陸軍歩兵。
前線に駆り出され、一瞬でも敵の進行を遅くするために前進する。
駒、などと立派なものにすらなれない、雑魚。
ただ、消費されるために足を動かす。
無能を絵に描いたような上官の元、そんな感情を抱かざるを得なかった。
先日まで同じ前線にいたプロメテウスは、急な帰還命令で不在となった。
代わりの二機の機械化兵は最善を尽くしているが、今一歩プロメテウスには及ばない。
それは、自分のような一般兵にもわかる。
プロメテウス離脱後、戦況は坂を転がるように悪化していた。
ここは、捨てられた戦線だ。
一時的にでも、「捨てていい」と判断された戦線。
なら、撤退させてくれ。
そう、口に出して言えたなら、この胸のわだかまりも、まだましだっただろうか。
けれど、誰の口からもそんな言葉は出てこなかった。
口にした瞬間、命令違反とか反逆罪とか、そういう名目で殺されるのがわかっている。
だから、誰も口には出さない。
もちろん、俺も。
命は惜しい。
いずれ、死ぬことはわかっていた。
死すらも達観している。
仲の良かった仲間は、とうにいなくなった。
班は幾度となく解体と編成を繰り返し、正直今の班員の顔など覚えていない。
記号として、名前を呼べればそれで事足りる。
けれど。
そうであれ、命は惜しかった。
だから、明確な死を避ける。
いつか訪れる死を、一日でも、一瞬でも長く先に、と願う。
それは、今日を何とか生き延びた、束の間の安息の時だった。
「一班」
上官の声に、顔をあげる。
嫌な予感がした。
上官の喉元にも、死神の鎌は突き付けられている。
「俺、妹がいるんだけどさ」
同じ班の男が声をかけてきた。
一班が編成されて日も浅い。
この男と、たいして親しくもない。
だが、心情はわかる。
黙って話を聞こうと思った。
「笑って、くれるだろうか」
唐突な質問に、少し考える。
「……さぁ」
考えたところで、どんな妹なのかも知らない。答えようがなかった。
「だよな」
男が笑う。
力ない笑いだった。
「中等部の一年なんだ。出征するとき、死んだら笑ってやるって言われたよ」
「そうか」
「せめて笑ってくれると、良いんだが」
死んだら笑ってやる。だから――
「死んでくれるな、とは、言われなかったな」
「そりゃあな」
そんなこと、口走ろうものなら、その妹も、家族も牢屋行だろう。
だから、憎まれ口で誤魔化すのだ。
「……死にたく、ねーな」
ぽつりと呟かれた言葉はテントの中に響いた。
大して大きくもないテントの中に、静寂が訪れる。
ここは一班のテントだ。
夜も更け、後は寝るばかりだ。
この次に眠るときには、目覚めることはない。
無能な上官は言った。
彼も哀れな人だった。
――明朝、接敵することになるだろう。
上官はそう言った。
このままでは、本体に甚大な被害が及ぶ可能性が高い。
そこで、一班から数班は先んじて敵と交戦し、敵の注意を引きつけてもらう。
別動隊と空軍とで、一班が交戦している敵を背後から奇襲し打撃を与える作戦を行う事となった、と。
つまり、一班の役目は陽動だ。囮として、敵の前に出ろという。
そして。
死ねというのだ。
もちろん口には出さないが。
生存の可能性なんてゼロに決まっている。
そんな事馬鹿でもわかる。そんな作戦だ。
名誉なことだ、と何度も言われた。
馬鹿馬鹿しい、と思った。
けれど一番馬鹿馬鹿しいのは、そんな馬鹿げた命令に従い、死んでいく自分たちだろう。
「プロメテウスがさ、もうじき戻ってくるらしいんだ」
通信兵の同期に聞いた、と別の誰かが話し始める。
「俺らの隊の、隊長が!功を焦ったんだ!プロメテウスが来る前に、戦果をあげたいんだ」
隊長とは、面識がない。
一班の班長を務める上官に嫌な役目を押し付けて、隊長は終ぞ俺たちの前には現れなかった。
そんな奴だ。
そんな奴の欲のために、たくさんの兵が死ぬのか。
「あー、一度でいいから話してみたかったな」
「プロメテウス?」
同じ戦線にいても、プロメテウスを見かける機会さえほとんどなかった。
話したことがあるやつ等、本当にわずかだろう。
「そう。もしかしたら、明日、さ」
駆けつけてくれるかもしれない。
「なんてな」
言った男はおどけて繕う。
けれど、誰もがその可能性を夢想した。
プロメテウスという人物は、たくさんの危機を救ってきた。
優しい人なのだと、伝え聞いていた。
だから、もしかしたら。
「じゃあ、骨を拾う奴はいないが」
「あの世で会おう」
朝。
俺たちは死地へと向かう。
「……プロメテウス、本当に来るかもしれない」
「まだそんなこと言ってんのかよ」
「いやなんか……プロメテウスが隊を離れて、速度を上げてきてるって」
その言葉に、一瞬だけ皆の心が揺らいだのがわかった。
「……やめろ」
思わず、口に出た。
いたずらに、期待を抱かせないでくれ。
覚悟が、鈍る。
「そう……そうだな」
それからは、皆黙って歩く。
俺たちは、徐々に死に向かっていく。
炎は闇を、より濃く映す。
希望は時に、絶望をより深く足らしめる。
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