最後の儀式へ

 清良と岩部が帰ると、また穏やかな日々がやってきた。彼岸を過ぎると夏の厳しさもかげり、いつしか虫の声が秋のものになっていく。風はひやりとする。

 ある日、聡子が野菜直売所に栗を出荷してきた。雅がほっこりした顔で言う。


「もう栗が出てきたわ。すっかり秋ね」


「もう、じゃなくて、やっと、だよ」


 夏の暑さに辟易していた薫が笑う。


「北海道の夏ってお盆を過ぎるとパッと終わっちゃってあっという間に冬だけど、群馬はゆっくりだよね」


 聡子が栗を一袋、薫に手渡す。


「これはあんたんちにおすそ分け。美味しく召し上がれ」


「いいの? ありがとう。どうやって食べるのがおすすめ?」


「そりゃあ、栗ご飯とか、渋皮煮とか、色々あるけれど、食べたいものを好きに料理してくれるのが一番よ」


 がははと白い歯を見せ、聡子は薫を見る。


「薫ちゃん、すっかりここに馴染んだね」


「えっ、そう?」


「うん。なんだかのびのびしているよ。それに、素直になったよね。前はいつも難しい顔をしていたけど」


「そうかな」


 少しはにかみ、うつむく。もしそう見えるとしたら、きっと自分がここを好きになったからだ。四季の移ろいを野菜と日々の食卓から感じ、客とのやりとりに充実感を覚えてきた。そして雅や聡子のように、包み込むような優しさを惜しまない人々がいる。それはとても居心地のいいものだと知ったのだ。そしてなにより、大輝とガラスペンとの出会いがあった。

 聡子が小首を傾げ、遠いものを見る目になる。


「薫ちゃんが来たのは春だっけね。もうそこらじゅうに死人花が咲いてさ。あっという間に秋だもんね。早いよね」


「死人花?」


 ぎょっとして問い返す。聡子が「ああ」とこともなげに言った。


「彼岸花のことよ。ほら、ここの駐車場の隅にもたくさん咲いてるでしょう。田んぼのあぜ道なんかにも」


「ああ、あの赤い花ね。死人花って言うの?」


「ここらへんの年寄りはね。昔は墓地なんかにたくさん咲いてたからかな」


 ふと、雅がぽつりと言う。


「そうか、もう彼岸花の季節なのね」


 しみじみとした響きに、目をやると、祖母はじっとガラス工房のほうを見つめていた。


 薫は、彼岸花の華奢な姿を思い描いていた。死人花という名前を知ると、単に綺麗だと思っていたものが空恐ろしくなる。地面の下から黄泉の国の想いが噴出しているようだ。

 いっそ、本当に死人の声が咲いているならいいのに。そうしたら、大輝に何かを届けることができるのに。

 そう考え、ガラス工房を見やる。あれから、大輝と顔を合わせる機会はなかった。詠人によると、ガラスペンの新作にとりかかっていて、閉店後も二人で製作を続けているのだという。


 会いたい。けれど、怖かった。

 大輝を思いやるような顔をして、エゴまみれの言葉を口にしたことが、時間がたつほど恥ずかしくなっていた。

 本当の私の想いを、伝えるべきなのに。たくさんのガラスペンの儀式で届けてきた想いが、その大切さを教えてくれていたはずなのに。


「臆病だなぁ」


 声にならない声で呟くしかなかった。


 夜になり、雅はさっそく栗ご飯を炊いた。

 秋の味覚に舌鼓をうっていると、雅がこう切り出した。


「今度の木曜なんだけど、ガラス工房は臨時休業になるからね」


「えっ、どうして?」


「九月十七日はね、よつばさんの命日なの」


「ああ、そうなんだ……」


 箸をおき、思わずうつむいた。


「ねえ、おばあちゃん」


「うん?」


「大切な人がいなくなったら、簡単に忘れられるものじゃないよね? また新しい大切な人ができるって苦しいのかな?」


「……大輝君のこと?」


「……うん」


「好きなのね?」


 顔を上げると、雅が穏やかな目でじっと見つめていた。小さく「うん」と答える。


「最初は嫌な奴だと思ったけど、でも初めて視える人と出会ってほっとしていたの。ガラスペンの儀式を共有してくれることが嬉しくて。でも、だからって私が特別ってことじゃないとは思うんだけど……でも」


「でも?」


「一緒にいると、ありのままでいられるの」


「そうか」


 雅がにっこり笑い、こう続けた。


「あのね、忘れなくてもいいのよ」


「そうなの?」


「別れってね、それっきりじゃなくて、そのあとも抱えて生きていくものなの。だから思い出すことはどうしてもある。だからって、目の前にある新しい幸せに全力で向き合っていないってことじゃない。それはそれ。これはこれ。愛は増えるものだから」


「増える?」


「そう。百あるものを分配するんじゃなく、よつばさんにも百。新しい何かにも百。だけどそれにはね、よつばさんに遠慮しないであなたも百の愛情をもってぶつかっていかなくちゃね」


 薫は黙って箸を持ち直し、栗を嚙む。ほろっと崩れた実から優しい甘さが滲んだ。


 九月十七日、早朝から詠人と大輝は車で出かけたようだった。昼には車が戻ってきたが、店が開くことはなかった。

 夜、窓からガラス工房を見てハッとする。店の窓から薄暗い光が漏れていた。


「私、伝えなきゃいけない」


 薫は携帯電話を手にした。呼び出し音が鳴り、心臓が跳ねる。


「もしもし」


 大輝の声を聞くだけで、涙が出そうだった。


「今、お店にいます?」


「ええ。どうしました?」


「今から行ってもいいですか?」


「えっ、ああ、いいですよ」


「じゃあ」


 薫はジーンズのポケットに携帯電話をねじ込むと、部屋を飛び出した。

 ガラス工房まで駆けていく。扉を開けるのが怖い。両手でそっとドアノブに手をかけ、静かに開けた。


「いらっしゃい」


 大輝はカウンターの奥でガラスペンを磨いていた。にっこり微笑んでくれたが、どこか疲れているようにも見えた。


「何か用でも?」


「うん。ちょっと」


「ちょうどよかった。僕も用があったんです」


「えっ」


「僕の最後のガラスペンの儀式を手伝ってもらおうと思って」


「へっ? 最後って? もう儀式やめちゃうの?」


「そうじゃなくて、僕が妻に手紙をあてるのは最後になるってことです」


 そう言うと、彼は手にしていたガラスペンを照明にかざした。


「ここ数日、このガラスペンを作っていたんです。今の僕のありったけの技術と思いをこめました。これで、彼女に最後の言葉を伝えたくて。だから、そのお手伝いを薫さんにお願いしたいんです」


 薫は何を言っていいかもわからず、ただただ光り輝くガラスペンを見つめていた。

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