嫉妬の色
清良は荷物をまとめ、白い歯を見せる。
「それじゃ、なんかあったら連絡ちょうだい」
「そう言うなら返事くらいしてよね」
「わかってるって」
どうだか。そう言おうとしたとき、雅が車の鍵を持って「送っていくわ」と静かに言った。
「そう? 助かるわ」
清良は「じゃあ」とあっさりした挨拶をし、出て行った。
それを見送り、詠人が苦笑する。
「実に彼女らしい、さっぱりした暇乞いだな」
大輝がうなずき、ふっと笑う。
「車の中で親子の会話ができているといいですね」
雅は実の娘が帰ってきたことで取り乱すことはなかった。何年も連絡をたっていた娘を責めることはなく、清良もまた雅に何を言うでもなかった。二人きりになったとき、どんな会話をするのかは、薫にも想像がつかなかった。
「でも」と、薫は祈るように言った。
「きっと、大丈夫。だって、親子だもん」
「そうですね」
大輝がほほ笑み、「さて」と岩部のほうに向き合った。
「岩部さん、お帰りになる前に、工房に戻ってガラスペンの手紙を書きませんか? 今なら違う気持ちで書けると思いますよ」
「ええ、ぜひ」
岩部は大輝と薫に連れられ、ガラス工房にやってきた。自分が投げだした手紙を畳み、ポケットにしまう。薫が抱っこしている我が子を見て、かすかにほほ笑んだ。
「書き直します」
彼女の横顔を見つめ、薫はほっと安堵していた。不協和音が微かに残っているものの、それに重なるように美しいアルペジオが聞こえる。心が前向きに、視点が内から外に出てきたように思える。
日が傾きかけ、ガラスペンが光を紙に落とす。岩部は何度も手を止め、言葉を選びながらゆっくりと筆を進めた。
やがて、彼女は便せんを綺麗に畳み、よつばポストの中に入れた。
「いつか届いてくれるといいけれど」
くしゃっと笑う岩部を見て、大輝は力強くうなずいた。
「大丈夫ですよ。今のあなたは、とても綺麗な色をしている」
「色?」
「ああ、いえ。顔色が」
くすりと笑みを漏らし、岩部は何度も頭を下げて帰っていった。
すると、音もなくウメとタイコがテーブルの上に飛び乗ってきた。まるで「やっと帰ったわね」と言わんばかりの目を向けてくる。
「早速、始めようかということかな」
大輝が言うと、ウメは「ううな」と小さく鳴いた。そして先ほど岩部が使ったインクをちょいとつつく。琥珀色だった。
「インクはこれでいいってこと?」
「岩部さんは知らないうちに自分にぴったりの色を手にしていたようですね。じゃあ、このまま飛ばせるかな」
大輝がよつばポストから便せんを取り出し、綺麗に広げてタイコの前に置く。尻尾を揺らし、タイコは小さく鳴く。
「よし、飛んだ」
ふわりと便せんから琥珀色の文字が浮かび上がり、その場に漂う。薫はそっと声をかけた。
「お願い、届いてね。岩部さんのために、それになによりお子さんのためにね」
まるで応えるように文字が震え、消えていく。それを見送りながら、薫が呟いた。
「ねえ」
「なんでしょう?」
「大輝さんは奥さんから返事はまだこないんでしょう?」
「ええ、残念ながら」
「もう一度、送ったら? もし私の言葉が本当になる力があるっていうなら、返事がくるんじゃない?」
「まぁ、そうかもしれませんが。でも、妻はしつこいのが嫌いでしたからね。もう一度手紙を送ったら、返事を催促されたと怒るかもしれませんね」
「どんな手紙だったのか、きいてもいい?」
「それは……」
大輝はウメが選んだインクを片付けながら、自嘲する。
「未練たらしい内容ですよ。僕と結婚してよかったのか。僕だけ君がいないのに、新しい幸せを積み重ねていいのか」
そう言ってから、彼は小さなため息を漏らした。
「本当は生きているうちに直接きけばよかった。彼女がいなくなってから、自信がなくなって、後悔しか残らなかった。そういう時期があったんです」
「今は? 返事がこなくて辛くない?」
「返事があること自体、奇跡なんですよ。みんなこうして返事のない問いや呼びかけを繰り返して、乗り越えていくんです。そう思うようになりました」
「そう」
薫はガラス工房の出口に向かったが、ふと振り返る。
「何も知らない私が言うのもなんだけど、大輝さんの手紙って愚問だと思うわ」
目を丸くする大輝に、薫がいつになく真剣な顔をして言った。
「だって、大輝さんたちは幸せだったんでしょう? 奥さんは『そんなこときかなくてもわかるでしょ』って言うと思うな。だから、返事がないのはきっと、そういうことよ」
「そう、でしょうか?」
「そうよ。だって私なら、自分がいない間も幸せに過ごしてもらってから、あの世で再会したいもの。自分がいない間に好きな人を幸せにしてくれた人や物に感謝すると思うから」
大輝は言葉を失う。薫は逃げるように去っていった。
「私は自分勝手だ」
じわりと、薫の目に涙が浮かぶ。大輝を思ってかけた言葉ではない。自分が大輝に幸せでいてほしいから。自分と過ごす中で幸せを積み重ねてほしいから。死んだ奥さんがそれを受け入れてくれたらと願うから。だからあんなことを言ったのだ。
「お願い、よつばさん。あの人に返事をあげて。置き去りにされた人は、前に進むのが大変なんだよ」
涙をぬぐい、空を見上げる。澄んだ青が眩しくて痛かった。
一方、大輝はぽかんと口を開けて立ち尽くしていた。やがて「参ったな」と頭をかく。
「薫さんの背負う色、あれは……」
視界が滲み、慌てて深呼吸をする。窓の外を見つめ、呟いた。
「もしかしたら、もう僕は……」
そのとき、ウメとタイコがにゃあと鳴く。大輝は静かに猫たちの背中を撫でてやった。
「お前たち、お疲れさん。猫缶をあげるよ。岩部さんの想いも届くといいね」
猫たちはじっと大輝を見つめる。彼の目は潤んでいた。
その日の夕方、家に戻った岩部の携帯電話が鳴った。療育センターの担当者からだった。やや気まずい顔になる。前回のリハビリのとき、あまりに息子がリハビリに集中しないのがつらすぎて、泣いてしまったのを思い出したのだ。
「もしもし、岩部さん。今よろしいですか?」
「お世話になっております。あの、前回はすみませんでした。取り乱してしまって」
「いいえ、いいんですよ。焦らずにいきましょう。次回のリハビリの日程を決めたいんですが、よろしいですか?」
ほっと胸を撫でおろし、予定を決める。
「次のリハビリのとき、色々とご質問させていただいてよろしいでしょうか?」
岩部がおずおずと申し出る。
「どうしてこんな行動をとるんだろう、こういうときどうしたらいいんだろうってことがたくさんあるんです。私、もっと知りたいんです」
この子と生きていくために。そう、できるなら、もっと楽に、無理しないように。
「もちろん、いいですよ。仁君との過ごし方を探っていきましょう」
そんな言葉をもらい、岩部は携帯電話を切った。積み木を延々と並べて遊んでいる姿を見て、唇をかみしめた。
あのガラス工房で手紙を書いたとき、最初は『普通に産んであげられなくてごめん』『他の子にはない壁のある人生でごめん』という謝罪の言葉だけだった。
普通なんて人それぞれだと自分に言い聞かせても、嘆く気持ちがぬぐえずにいた。
手を繋いで隣を歩くこと。じっと座って話を聞くこと。そしてお喋りをすること。言葉が遅く多動傾向のある我が子にはそれすら難しい。よその子がなんなくこなしていることが、できないのだ。どうしてこんなに育てにくいんだろうと気が狂いそうになる。
それを誤魔化したくて、SNSに子どもの長所やうまくできたことをアップするようになった。けれど、頭のどこかでわかっていた。自慢するのは不安だからだ。理想を語るのは不満だからだ。
窒息しそうだった。ひとりの時間が欲しかった。ガラス工房に行ったとき、そういうものが爆発してしまった。けれど、親子の形はそれぞれだと目の当たりにして、少し気持ちが楽になっていた。
こうしなきゃいけないって何? 普通って何? それがどうした。そう思えるのが不思議だった。
自分は無駄に嫉妬していたのだ。普通の枠組みの中で当たり前のように暮らしていける親子たちに。他の親や子どもが羨ましい。けれど、そんな彼らにだって、自分にはない悩みや葛藤があるものなのだ。比べたって仕方ないことなのだ。薫たちのように。
「私はひとりじゃない。だから、先にいけるわ。きっと」
だから、二度目の手紙にはこう書いた。
『一緒に生きやすい在り方を探していこう。ママはあなたがたくさんの道を探すお手伝いをします。その中から、あなたが希望に満ちた選択をできるよう、背中を押して見守っていきます。あなたが生まれてきてよかったと思える日が来ますように』
あの奇妙なポストに入れた想いは、いつか届くのだろうか。
岩部はふっと目を細める。琥珀色の日差しが部屋に入り込み、我が子を照らしていた。
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