抱擁

 雅のもとへ戻ると、女性は子どもをかき抱き泣き崩れた。

 雅は薫の顔を覗き込み、「大丈夫?」と声をかける。


「顔が青いわ」


「大丈夫。いつもより強いのを視ちゃって」


 清良が小さくため息をついた。


「あんた、あの親子のこと、かわいそうだとかほっとけないとか思ったんでしょう? 情が移ったから、あんたも引きずり込まれたのよ」


「誰のせいだと思ってんのよ」


「へ?」


「なんでもない」


 岩部がしっかりと子どもを抱えたまま、「申し訳ありませんでした!」と、深々と頭を下げた。


「私、消えたくて、消えたくて、どこでもいいから逃げたくて。気が付いたら展望台にいたんです。そうしたら足が動かなくなって、息も苦しくて動けなくて」


 そう呟き、目から大粒の涙がこぼれ出る。大輝は静かに言った。


「岩部さん、あなたが謝る相手は僕たちじゃありません。お子さんにですよ。置き去りにされた者の哀しみがわかりますか?」


「それは……」


「突然去られても、それでも愛している者は、どうして、なぜと自分を責め続けるんです。そこから進めなくなるんです。どうか、もうそんな想いをさせないでください」


 その言葉に薫はうつむいた。愛する妻を失った大輝の本音を聞いた気がしたのだ。

 岩部の目からまた涙があふれ出た。


「すみません。私、身寄りもなくて、夫は仕事ばかりのワンオペで、誰にも頼れなくて」


 震える声で詫びる。


「上の子が発達障害のグレーゾーンなんです。言葉も遅くて、みんなと同じことができない、普通からはみ出した子なんです。どうしてうちの子は普通に過ごせないんだろうって、他の子が妬ましくて、やりきれなくて、そんな風に産んで申し訳なくて」


 この母親が生み出す音の源は、嫉妬と閉塞感だったのだ。薫は唇を嚙む。


「子どもたちは愛しているけど、自分の時間や気力すべて搾取されているような気がするんです。息ができなくなることが増えてしまって、気が狂いそうでした。自分で望んで産んだのに、母親なのに、苦しいって言っちゃいけない気がして、つらかったんです」


 聡子がそっと彼女の背を撫でた。


「わかるよ。うちも同じ。どんなにかけがえのない子どもでも、育児はつらくて当たり前なんだよ。あんたは肩の力の抜き方を覚えなきゃいけないよ」


 雅がうんうんとうなずく。


「そうよ。身寄りはなくても味方はいるわ。いつでもここにいらっしゃい。仁君を見ててあげるから、息抜きするといいわよ。こうして知り合ったのもご縁だし」


 薫は岩部に向き直る。


「私、母親になったことないし、子どもとしてしか言えないから、あなたが子どもを置いて行ったことは腹立たしい。子どものせいにするなって思う。けど、子どものためにって気持ちは本当だとは思うの。そのマザーズバッグの重さは、責任の重さなのかなって。だから、その重さに疲れちゃったら、ベビーシッターのバイトしてもいいわ」


「ありがとうございます」


 嗚咽を漏らす岩部に、大輝がほほ笑む。


「岩部さん、今度は違う気持ちでガラスペンを握れますか? あなたのお手紙、書きかけのままだから」


「はい」と、岩部がうなずく。不協和音はなりをひそめ、その顔つきには穏やかなものが浮かんでいた。

 雅がにっこり微笑み、手をぽんと打った。


「さあ、とにかくお茶にしましょう。お腹すいてない? 焼きおにぎり作っておいたわ」


 清良が「悪いけど」と首を振る。


「焼きおにぎり、包んでくれる? ホテルで食べるわ」


 ソファに座っていた詠人が立ち上がる。


「どうしても今日はホテルに泊まるの?」


「ごめんなさい。やっぱり、この山は私には怖いの」


「そうか。それでもまた来てくれるだろ? オケの任期が終わったら、寄ってくれよ」


「そうね。お土産持ってくるわ」


「君は相変わらず、一人で先に行ってしまうんだね。それに、嘘が下手だ」


「鼻の穴、膨らんだ?」


 詠人と笑みを交わし、清良が「荷物を取ってくるわ」と、客間へ向かった。

 詠人が薫の背を押した。


「お母さんに言いたいことがたくさんあるだろう? 話しておいで」


「えっ、そんな別にいいわよ。話したって無駄よ」


「うん、でも顔を見て伝えたいことはない? 多分、清良ちゃんはもう帰ってこないよ」


「えっ」


「もしかしたらずっとドイツで活動するつもりなんじゃないかな」


「どうしてそう思うの?」


「なんとなく。ただ、山が怖くても君や雅さんの顔を見に来たと思うとね。たとえまた帰ってくるとしても、それくらいの覚悟をもって行動する人だろ。それに、任期が切れたあとの活動の場を切り開くくらいの意思と実力はあるから」


 詠人は「それに、鼻の穴が膨らんでいたし」と付け加える。


「あの人は本当にどこまでも飛んで行ってしまうんだよ」


「……私を置いて?」


「そうだね。言いたいことはわかるよ。いい母親ではないのかもしれない。でも、あの人は生き方そのもので、君にメッセージを送るしかできない不器用なところがあるから」


 そのとき、大輝が薫の肩を優しく叩いた。


「行ってきてください。ガラスペンの儀式よりは答えがもらえる確率は高いと思うし、やっぱり顔を合わせて話せることは儀式以上の奇跡なんだと思います」


「……どうせ、聞いてもらえない」


「それでも、伝えるだけでも伝えてきてください。薫さんが次に進むためにね」


 そのとき、雅がアルミホイルに包まれた焼きおにぎりを薫に手渡す。


「さあ、これを渡してきて」


 薫はうなずき、客間に向かう。中に入ると、キャリーケースを整頓している後姿があった。


「……お母さん」


「うん?」


「これ、焼きおにぎり」


「ありがとう」


 振り返った清良は焼きおにぎりをボストンバッグに詰めて笑う。


「しょっぱいのよね」


「へ? なにが?」


「お母さんの焼きおにぎり」


 雅の焼きおにぎりは一風変わっていて、醤油とだしをまぶして焼いた中に梅干しが入っている。仕上げは海苔で包むのだ。


「梅干し、いらないと思うんだけどね。ないと寂しいのよね。これが食べられてよかったわ」


 しんみりと呟く姿に、やはり母は帰らない覚悟で行くのだと悟る。


「ねえ、訊きたいことがあるの」


「なに?」


「私がもうバイオリンなんて弾かないって言ったとき、お母さんは笑ったよね?」


「ええ? 笑ってた?」


「うん。バイオリンを投げつけたのに怒りもしないで、『そう』としか言わなかった。そのとき、すごく冷たく笑ってた」


「ああ、そうだったかな」


「ずっと気になってた。どうして怒らなかったの? どうして笑ったの?」


「傷つくかもしれないけど、それでも聞きたい?」


「……うん」


 清良はため息をつき、まっすぐ薫に向き合った。その目は強く、気圧されそうだ。


「私はね、あなたがバイオリンを弾かないと決めて、ほっとしたの」


「どういうこと?」


「嫉妬していたのよ、あなたに」


「え……」


「あなたは音に想いをこめる才能があった。このまま研鑽を積めばとんでもない演奏家になるだろうと思っていたわ。あなたの才能が妬ましかった。だからほっとしたのよ」


 唖然とする薫に、清良は小さく肩をすくめる。


「それにあなたがバイオリンを弾くたびにもどかしい想いをするのが嫌だった。あんなに才能があるのに、いつも嫌々つまならなさそうに弾いてた。想いを伝える力はあるのに、伝えようともしないで諦めてばかりいる。もうそんな姿を見なくていいと思った。もっとも、あなたは楽器を手放してもそういうところは変わらずあったけれど」


 清良はキャリーケースにボストンバッグを乗せ、ほほ笑んだ。


「でも、ここに来て少し変わったんじゃない? さっき展望台で一人叫んでたけど、あんなに何かに必死になるあんたなんて見たことなかった。いつもやる前から諦めて、いじけていたあんたが」


 そして、薫の頬をそっと撫でる。


「私はね、この世界は素晴らしいことで溢れている、情熱をもって生きることは素晴らしいって、私自身の姿をもってあんたに伝わってくれたらと思って生きてる。でも、ごめんね。母親としてはそれじゃ失格なんだと思うの。でも、そういう生き方でないと、私の息が詰まる。それこそ、あの岩部さんみたいに、子どものためって想いで自分の首を絞めてしまうの」


「……もう、諦めてる。お母さんのそういうところは簡単には理解できない」


 薫はふっと笑う。肩の力が抜けていく。


「けど私、ここに来てたくさんの人たちと会ったの。想いを伝えられることってすごく大事なことで、返事をもらえることはもっと素敵なことだって。だから、伝えてくれただけで胸のつかえがとれた気がする」


「そう」


「昔の私は伝えたいと思っても、伝えようとしなかった。だけど、もうあの頃の自分じゃないから。伝えていく。少しずつ変わっていく。お母さんに言いたいことがあったら、ドイツにだってどこにだって行くから。だから……」


 ぼろっと涙がこぼれ、堰を切ったように流れ出す。


「だから、たまには私を思い出して」


 清良はそっと薫を抱きしめた。


「いつも想ってるよ、これでも。私の音楽を生み出すものの一つは間違いなくあんただから。私の音を聴いていて」


 おそるおそる清良の背中にしがみつく。柔らかい匂いに包まれ、薫は目を閉じた。

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