ダム展望台にて
聡子が荒々しくハンドルを切る。誰も口を開くことはなく、ただただ走行音だけがしていた。
『なんでいつもこの人はこうなんだろう』
後部座席の薫はぐっと拳を握る。清良は昔からどんなに大事なことも勝手に決めてしまう。家族に相談することもなく、自分の都合と判断だけに従う。それによって家族がどんな想いをしても、だ。母のそういうところが一番嫌いだった。だからこそ、自分の都合だけで子どもを置いて行った岩部という女性も許せない。
薫が不機嫌な理由はそれだけではなかった。大岡山のどこからか重い音がずん、ずんと響いて気持ち悪い。
ふいに聡子が大きな声を上げた。
「清良ちゃん、この先の道、右と左、どっち?」
もう少しで分かれ道だ。右に行くとダム展望台、左に行くとダムを見下ろせるサービスエリアがあり、その先は隣県に通じている。
清良はじっと目を閉じ、口を一文字に結んでいたが、小さな声で「……左」と言った。
「え? なんだって?」
「左」
薫が前のめりになってサイドミラーに映る清良の顔を見た。
「聡子さん、右行って!」
「ちょ、左って言ってるでしょ!」
「だってお母さん、鼻の穴膨らんでるもん」
「はあ? だからなに?」
「嘘ついてるよね。左じゃなくて右から臭うんでしょ?」
「余計なこと言わないで!」
悲鳴を上げる清良に薫が「お母さん!」と叱咤した。
「人助けなんだから、こんなときくらい自分のこと二の次にしなさいよ! 本当に自分勝手なんだから!」
「人助けなんてね、自分に余裕がある人がすればいいのよ。もう本当やだ、この山」
聡子が分かれ道で右にハンドルを切る。もう少しで展望台だ。あたりに響く音はうねり、幾重にも重なってきた。悲痛で、胸を締めつける不協和音だ。
『この音、聞き覚えがある』
おにぎりを女性に渡した日を思い出し、薫は唇を嚙んだ。彼女はずっと、こんな音のする想いを抱えていたんだ。そう思うと、哀れみを覚えた。
展望台に入ると、一台の車が停まっていた。
「あの車です!」
大輝の声を聞き、聡子は車をそばに停める。
「中にいないわよ!」
「あそこです!」
展望台の奥に自動販売機とベンチがあり、女性がそこでうずくまっていた。清良が顔をしかめる。
「ねえ、急いで帰るわよ。鳥肌がやばい」
大輝が女性に声をかけた。
「すみません、岩部さんですよね? 大丈夫ですか?」
しかし、女性は顔を真っ青にし、うずくまったままだ。
「とりあえず、車に。薫さん、手伝ってください。……薫さん?」
薫は口をぽかんと開け、突っ立っている。
「……嘘でしょ」
「薫さん、どうしました?」
「あの、大輝さんには何が視えてます?」
大輝が苦々しい顔になる。
「ダムから黒いもやが波みたいに押し寄せてますよ。ここにいたら危ないです」
「ちょっともうやばいかも。……視えちゃった」
「ええ?」
「それに声がする」
不協和音の中、「オイデ、オイデ」と女の声がした。薫の体が凍りつく。ダムのほうから大きな黒い塊がゆらゆらと伸びてきて、こちらへ向かってきていた。足が動かない。
黒いもやがどんどん人の形を成し、やがてそれは巨大な女の姿になった。着物を着て、目が異様なほど大きく、やつれている。骨ばった手が、うずくまる岩部のほうに差し出された。
「うっ」
岩部が声を漏らし、その場に嘔吐する。
「大丈夫かい!」と、聡子が背中をさするも、その顔はゆがんでいた。
清良が「どうすんのよ」と薫をねめつけた。
「これ、なんかやばいわよ」
「わ、わかってる」
「助けるって決めたんでしょ? ぼうっと突っ立ってないで!」
「わかってる、わかってるけど」
怖い。足がすくんで動けない。霊の女が薫を見て、にたりと笑う。全身に悪寒が駆け巡った。
大輝が「黒い影が近づいてきます」と苦々しく言った。
「薫さん、手を貸して! 車に乗せますよ!」
そのとき、霊の腕が大輝と岩部めがけて伸びた。
動け。動け。必死で念じる。あの親が子を置いて行ったことは許せない。でも、それでもあの子は母親が帰ってくるのを待っているんだ。
咄嗟に薫は、岩部たちをかばうように霊の前に躍り出た。
「さがれ!」
霊の手が止まり、赤い口が動いた。
『なぜ。その女も滝つぼに沈めばいい。我と同じ臭いがする。同じ闇を持つ』
「黙れ。お前はお前、この人はこの人だ。巻き込むな!」
『消えたいと願ったのはそいつだ』
「この人には帰りを待つ子どもがいる。行かせるわけにはいかない。お前は水の底に帰れ!」
『子ども……子ども……おおう』
霊の顔がぐにゃりと歪み、後ずさりする。
「帰れ!」
薫が必死に叫ぶと、霊がよろめき、のたうちまわった。低く唸りながらダムに向かって戻っていく。
大輝たちは一人叫ぶ薫をあっけにとられて見ていた。しかし、大輝の目にはもやがが薄くなっていくのが視える。清良の鳥肌はすっと消えていた。
大輝が「今のうちに」と岩部を抱きかかえる。
「僕はこの人の車で戻ります。聡子さんたちはついてきて。清良さん、薫さんも急いで」
清良が「薫、早く!」と手を引っ張った。車に乗せられた薫は脂汗をかき、歯の根が合わない。
大輝は岩部の手に握られたままの鍵を車に差し込み、急発進する。岩部は助手席で小さく「すみません、すみません」と繰り返していた。
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