帰還
親水公園から戻ったとき、詠人と薫は思わず顔を見合わせた。玄関の向こうから威勢のいい泣き声がするのだ。リビングに行くと、顔を真っ赤にして泣く子どもを必死にあやす雅と大輝、そして聡子の姿があった。
詠人が「えっと」と困惑の表情を浮かべる。
「大輝、俺ってば、いつの間にかおじいちゃんだったん?」
「そんなわけないでしょう!」
大輝が大きなため息を漏らした。
「訳を話しますから、この子をあやすのを手伝ってくださいよ。起きてからずっと泣きっぱなしなんですよ……」
雅が「よしよし」と抱っこをしても、赤ちゃんは泣き止まない。
「参っちゃった」と、聡子が苦笑いをする。
「連絡もらって慌てて孫の昼寝布団を持ってきたんだけど、寝る気配ないわ」
「急いでミルクとオムツを買ってきてもらったの。だって、いつ帰るかわからないんだもの。薫、ちょっと抱っこしてみてよ」
「え! 私、赤ちゃんなんて触ったこともないよ」
「大丈夫よ、こうやって支えて抱っこしてみて」
「ひいい」
恐る恐る雅の手から男の子を抱き移すと、意外なほど重い。
薫は顔を真っ赤にしている男の子を感心するように見つめる。もっちりとした肌は温かい。この小さな体のどこから出るのだろうと思わせる大きな声が耳をつんざく。
「エネルギーの塊だね」
そうしてゆっくり左右に体を揺らしてみた。
「あんた、お母さんはどうしたの? 一人って心細いよね。わかるよ。でも私が一緒にいてあげるからさ、ちょっと泣き止んでもらえるかな?」
口の中でぼそぼそと囁く。ほとんど声にならない声で、男の子の泣き声にかき消されていく。けれど、まるで思いが通じたかのように泣き声が静まった。
雅がほっと胸を撫で下ろした。
「よかったぁ。ああ、ずっと抱っこしていたから腕が痛い」
「それよりどういうことか説明して」
大輝と雅が事の次第を話すうち、薫の顔つきがどんどん険しくなっていった。
「なによ、それ。じゃあ、この子のお母さんは子どもを置き去りにしてどっか行っちゃったっていうの?」
大輝が「しっ!」と制する。男の子は詠人の腕の中でうつらうつらしていた。
「もう一時間ほどになりますし、警察に連絡しようかと話していたんですけどね」
「連絡先は何もわからないの?」
「マザーズバッグの中にあった母子手帳の表紙にお名前が書いてありました。けれど、電話番号までは。あんまり中を見るのは気が引けますし……って、薫さん!」
薫がカウンターに置かれたままのマザーズバッグにつかつかと歩み寄り、引き寄せた。オムツ、おしり拭き、ウェットティッシュ、哺乳瓶、小分けされた粉ミルク、水筒が二本、子どもの着替えなどびっしりと詰め込まれている。
「私、探してくる」
大輝が「探すってどこを?」と言いかけ、薫を見つめた。
「もしかして、薫さん、怒ってます?」
「当たり前でしょう」
自分でも驚くほど、声が震えていた。親に置き去りにされた子どもを見ていると、昔の自分を思い出し、胸が痛かった。
「ねえ、待って。住所わかったかも」
聡子がバッグの内ポケットからピンクの紙を取り出した。透明のケースに入った福祉医療費の受給者証だった。受給者番号の下に住所と子どもの名前と生年月日が記載されていた。聡子がパッと顔を明るくさせる。
「子供の名前と住所はわかったわね。岩部仁くんっていうのか」
薫が住所を見て小さく唸る。
「山を下りたところにある住宅街ね」
薫が「家に帰ってるかもしれないよね」と呟くと、即座に聡子が「行ってみよう」と声を上げた。
「こうしてじっとしていたってなんにもならないわ。薫ちゃん、行くよ!」
「えっ、ちょ、待って!」
手を引かれ、聡子は自分の車に薫を乗せ、住宅街へ続く道を走り出した。
「聡子さん、どうして私なん?」
「だって、薫ちゃん、あの子を見ているとつらいって顔してるもの。お母さんのこと、思い出すんでしょ?」
ぐっと言葉に詰まる薫に、聡子は優しく言った。
「清良ちゃんがバイオリン一筋で薫ちゃんが望むような母親じゃなかったって、雅ちゃんから聞いてる。だから、置いていかれたあの子を見て怒ったんだろう?」
「う、うん」
「あの子のためにできることをするほうが、すっきりするかなと思って」
「ありがとう」
「でも本当は清良ちゃんに直接ぶつかっていけたらいいんだろうけど。思うところはたくさんあるんだろうからさ。秋くらいに来るんだろう? そのときはわだかまりがなくなるといいね」
薫は小さく「でも、自信ない」とうつむいた。
「今までお母さんには何も言えなかった。ただでさえほったらかしなのに、文句を言ったら二度と帰ってこないんじゃないかって怖くて。それに、何を言っても無駄だってわかるもの」
「それでもね、伝えられるかもしれないうちに、伝えておくだけでもしてほしいな」
聡子がきっぱりと言う。
「前にさ、私がガラスペンの儀式でお返事をもらった話をしたでしょう?」
「うん」
「うちの嫁さんはね、一度流産しているんだよ。嫁さんも私も二年たっても思い出しては泣いていてね。私はその子にお手紙を書いたの。会えなかったけど、私はずっとあなたの『ばぁば』からねって」
「どうやって返事がきたんですか?」
「私が寝ていたら、どこからか子どもの足音が近づいてきたの。でね、白い影が枕元に立って私を覗き込んで『もう少しで帰るからね。また会えるよ』って。それからすぐ、妊娠していることがわかって。そうして生まれてきたのが恵なんよ」
「そうだったんですか」
それで聡子は返事がきたときのことを『大騒ぎだった』と言ったのかと納得する。
「私の場合はお返事をもらえたからいいけどね。本当は儀式に頼らなくても伝えられるなら、それにこしたことはないもの」
ガラスペンで飛ばしてみたい想いはたくさんある。けれど、やり場がないとは言い切れない。ただ正面からぶつかっていくことが怖くて逃げ続けているのだ。そう気づき、薫は黙りこくった。
「薫ちゃん、この家だよ」
カーナビの音声を聞き、聡子が一軒家の前で車を停める。
「でも、車がないわね」
薫は運転席から降りるとインターホンを押してみたが、誰も出てくる様子はなかった。ふと、庭に干してあるビニールプールを見つけ、首を傾げる。
子どもたちと遊ぶためのプールだろう。育児放棄している親だったら、そんなものは用意しないはずだし、家も小ぎれいに見える。
「一体、何があのお母さんを追い詰めたんだろう?」
薫は小さく呟き、車に乗り込んだ。二人が雅のところに戻ると、玄関に見慣れない靴があった。
「もしかして、戻ってきたんかね?」
パッと顔を輝かせてリビングに急いだ薫は言葉を失った。そこにいたのは雅と詠人、大輝に囲まれ、子どもを抱っこする清良の姿だったのだ。
「お、お母さん? なんでここに?」
「ドイツ行きが予定より早くなってね。明日には発つから顔を見せに来たわ」
呑気な声でそう言うと、清良は白い歯を見せる。
「びっくりした?」
「びっくりしたもなにも、他に言うことないの?」
腹の底からねっとりした怒りが沸き起こった。
「久しぶりくらい言いなさいよ! 娘のことほったらかしで、自分のことばっかり最優先で、そんなあんたが赤ちゃんを抱く資格なんてない!」
「あいかわらずね」
苦笑して、清良は子どもを雅に預けた。
「お母さん、やっぱり私今日はホテルに泊まるわ。薫にますます嫌われちゃったみたいだし」
「ちょっと、待ちなさい」と慌てる雅に、清良は肩をすくめた。
「いいの。それに、私もここに泊まるのは気が進まないのよ。この山は居心地悪いから。今日は特にひどいわね」
「ひどいって?」
「お母さんにはわからないだろうけど、ダムのほうから湿った臭いが流れてきてる」
そのとき、大輝が目を丸くした。
「もしかして清良さんって視える人なんですか?」
「視えないよ。でも臭いと気配を感じるだけ。だからなおのこと怖いの」
「もしかしたら、あの女の人、ダムにいるのかも」
大輝が呟く。
「よくない色をしていたし、ダムに引き寄せられたかもしれないですね。薫さん、あの人は家にいましたか?」
「ううん、いなかった」
「じゃあ、ダムに行ってみましょう」
聡子が慌ててポケットから車の鍵を取り出す。
「じゃあ、みんな乗って。私のハイエースで行くよ。雅ちゃんは子ども見てて。ほら、清良ちゃんは助手席乗って」
「はあ? なんで私が!」
「あんたの鼻が頼りなんだから!」
「無理よ! 怖いって言ってるのに!」
「ぐだぐだ言わない!」
「もう、昔から聡子さんは強引なんだから」
どたばたと薫、大輝、聡子、清良が車に乗り込む。清良がシートベルトを締めながらぶつぶつ文句を言っていた。
「だからこの山は嫌なのよ。普通に暮らしてるお母さんが信じられないわ」
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