夏が来る
「ドイツに行くって、どういうことよ?」
怒鳴りつけた瞬間、不意に腕を引っ張られた。雅が耳に手をあてるジェスチャーをしている。自分も話を聞きたいのだろう。咄嗟に携帯電話のスピーカーをオンにすると、清良が「実はね」と話を続けた。
「友人の紹介もあってね、ドイツのオーケストラのオーディションに受かったの。産休に入る人がいるんですって。その人の代わりに入団することになったのよ。期限付きだけど」
「ちょっと待ってよ、お弟子さんに新しい先生を見つけたらこっちに来るって言ってたじゃない!」
「だってあんたが行ってるもの、私は別にいいかなって」
「なに勝手なこと言ってんの! あと一年はそっちにいたいって言うから、てっきり準備が終わったら来るものかと思ったら!」
「うん、でも群馬に住むとは言ってないし」
そうだ、母はこういう人だった。軽い目眩を感じ、ため息をつく。いつも自分中心で、誰にも相談することなく物事を決めてしまう。それがたとえ家族を巻き込むことだとしてもだ。雅は肩をすくめ、ゆっくり車を動かし始めた。髪を苛立たしげにかきあげ、薫が言う。
「秋になる頃っていつよ?」
「予定では九月くらいかな。八月にこっちで最後の演奏会をするの。ドイツに行く前に寄るつもり。じゃあ、そのときまた連絡するから」
「えっ、あ!」
ぷつりと通話が切れる。背もたれに身を預け、薫はもう一度深いため息を漏らした。
ぽつりと「相変わらずね」と漏らす雅の横顔に、胸が痛む。彼女の周りに微かな音が渦巻いていたからだ。ぽろん、ぽろんとゆっくり鳴り、ひどく寂しそうな響きだった。
薫は手の中にある電話に視線を落とした。安堵している自分がいることに気づき、唇を噛む。母が群馬に住むことはない。そう知ったとき、淋しさよりもホッとした。母に愛されたいけれど、向き合うのは怖い。まるで子どものような自分が小さく見えた。
聡子の家に着いたのは、それから十五分ほどした頃だった。聡子はリビングのソファで横になり、「いてて」と何度も顔をしかめていた。
「ごめんね、こんな格好で」
雅が「いいのよ、聡子さん。ゆっくりしてて。それより、どうしたの」と話をしている間に野菜を積む。
リビングに戻ると、三十代くらいの女性がお茶を出してくれた。聡子が呻きながら言う。
「薫ちゃんは初めて会うよね。うちの嫁の千晶よ」
千晶は「はじめまして」と微笑み、小さく会釈をした。色白で大人しそうな印象を受ける。彼女はお盆を持つと、これから出勤だと去っていった。
「うちの嫁さんは薬剤師なんだよ。今の仕事が好きみたいだからさ、収穫が忙しいときは手伝ってもらうけど、いつもは外で働いてくるんさ」
聡子が笑い、それから薫と世間話を始めた。手元のお茶が冷める前に帰れるだろうかと心配していると、雅の携帯電話が鳴った。
「あらやだ、仕入れ先の人だわ。ちょっと失礼」
雅がいそいそと玄関を出て電話に出る。それを見送ると、聡子が急に声をひそめて話しかけてきた。
「ねぇ、薫ちゃん。あんた見たんだって?」
「え、何をです?」
「大輝君のガラスペンの儀式だよ」
「あ、ああ」
「いいなぁ、見てみたいわ」
「あの、聡子さんもよつばポストに手紙を出したことがあるって本当ですか?」
「あぁ、うん。詳しく聞きたいん?」
「はい。手紙を送る手助けをしているんですけど、返事ってくるものなのかなって気になるんです。聡子さんには返事はあったんですか?」
「あったよ」
「本当に? どんな風に来るんですか?」
すると、聡子はふふっと笑みを漏らす。
「もうね、大騒ぎだったよ」
きょとんとしていると、ドタバタという足音と共に「ばあば、ばいばい」という可愛らしい声がした。二歳ほどの女の子が千晶に連れられて玄関に向かっていくところだった。
「はいよ、いってらっしゃい」
そう声を張り上げ、聡子は締まりのない顔つきになった。
「あの子ね、孫の恵っていうの。千晶ちゃんが出勤前にこども園に連れていくんだけどさ、毎日あんな風に元気いっぱいでさ」
そう言うと、彼女は腰をさすりながら伏し目になった。
「薫ちゃん、お願いがあるんだけどね」
「はい?」
「これからできるだけたくさん、よつばポストの手紙を届けてあげてね。想いが届くってね、本当に救われるんだ」
薫は黙って頷くしかなかった。顔つきと声は穏やかだったが、その声には有無を言わさぬ響きがあったからだった。
その日以来、薫は鬱々とした気分を抱えたまま過ごした。キンモクセイの香りを嗅いでも、おおぶりのあじさいや蓮の花を見ても心は晴れず、ため息をつくことが増えた。
清良のことを思うと、腹立たしさが募るばかりだった。母の性格は知り抜いたつもりだったが、今度という今度は呆れかえってしまった。雅から寂しそうな音色が聞こえてしまったことで、ますます母が許せなくなっていた。そして夜になると、どうしても大輝の亡き妻のことを考えてしまう。
あの大輝が心を許す相手とはどんな女性なのか。顔も声も知らないというのに、薫の中でどんどん大きな存在となり、いやでも心を占めていく。大輝はどんなところに惹かれたのだろう。どんな眼差しで妻を見て、どんな言葉をかけていたのか。自分の知らない大輝を知る妻が妬ましく、胸の底がちりちりと焦げ付くように痛い。
そして最後に行き着くのは、いつも決まって同じ疑問だった。
「あの人は、どんな想いを届けたんだろう」
妻を亡くした大輝がよつばポストに託した言葉はなんだったのか。彼はその返事を今も待っている。
「でも、もし返事が来たら?」
薫は独りごちて、唇を噛む。聡子に返事が来たように、彼に妻からの返事が届いたら何かが変わるだろうか。
そのときを想像すると、たまらなく怖く、同時に浅ましい気分になる。心のどこかで彼の心に入り込む余地を探す自分に気づくからだ。
「私、自分のことばっかりだ」
自己嫌悪の渦の中、彼女は雨音に耳をふさぐ。窓を叩きつける雨粒が、自分を責めているような気がしてならなかった。
悶々とした気分を忘れようと、薫は仕事に打ち込んだ。雅と共におにぎりを作り、野菜を並べ、接客をし、疲弊しきったまま何も考えないように仕向けた。ガラス工房からおにぎりの差し入れを頼まれても、大輝が受け取るときは祖母に届けてもらい、ガラス工房に目をやるのも必死に堪えた。
でもどんなに頭の中から大輝や妻のことを追い出そうとしても、薫の中に居座ったわだかまりは消えようとしない。
よつばポストの儀式もなく、大輝と会わない日々が過ぎていく。あじさいは枯れ、栗は青い毬をつけ、ツバメの雛が育っていく。いつしか梅雨が明けていた。
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