嵐の予感

 日曜日の朝、リビングに現れた薫は小首を傾げる。いつもだったら食卓に並んでいるはずの朝食がない。そこに雅が「おはよう」と顔を出した。


「薫、悪いんだけど、聡子さんの家に野菜を受け取りに行くの、付き合ってもらえる?」


「いいけど、あさはん食べる前に行ったほうがいいの?」


 あさはんとは、このあたりの方言で朝ご飯のことだ。雅は群馬に馴染んできた孫に微笑んだ。


「うちに出す野菜を運ぼうとしたら、ぎっくり腰になったんだって」


「ええ? 大丈夫なの?」


「うん。それで取りに来てくれって連絡が来たんだけどね、是非薫ちゃんも一緒にすぐおいでって言うのよ」


「へ? 力仕事だから?」


「それもあるけど、あさはんはうちでご馳走するからって言うのよね。悪いからって断ったんだけど、なにせ聡子さんは言い出したらきかないから」


 かつて根三つ葉を知らないことで馬鹿にされたように感じたこともあったが、意地の悪い人ではないとすぐに知った。ただ、聡子は思ったことをそのまま口にしてしまう。言いたいことがあってもぐっと我慢する薫にとって、それはときに傲慢に見え、今でも無防備に近寄るのは怖かった。


「私はご馳走にならなくていい。でも、野菜を運ぶのは手伝うよ」


「じゃあ、もう一度、あさはんは遠慮するって電話しておくわね」


 雅は車をとりに、駐車場の奥にあるガレージに向かう。直売所の前で車を待ちながら、薫はガラス工房に目を向けた。店はまだ閉まっていて、母屋の窓にもカーテンがかかっている。

 亡き妻の話をした日以来、大輝とは顔を合わせていなかった。もともとよつばポストの儀式がない限り、ガラス工房へ出向くこともない。時折、櫻井親子のどちらかが留守のときは晩ご飯を差し入れることはあったが、この頃はそういう機会もなかった。


 大輝に妻がいたと知ってからというもの、今までの彼の言葉や顔つきがまた違う印象を滲ませる。もし妻が生きていたら、彼はもっと人好きのする印象だったかもしれない。気を許したときの笑みは、どきりとするほど眩しいからだ。

 よつばポストの儀式を始めた理由を、彼は『想いがどこにあるか、確かめたいから』と答えた。あのときの静かな声を思い出すと、胸が締めつけられる。きっと大輝は妻のために何度もガラスペンをインクに浸したのだろう。ぎりっと胸の奥が痛む。


 雅が車を目の前に停めた。助手席に乗り込み、ラジオの音に耳を澄ませる。雅の世間話が一段落ついたところで、思い切って切り出した。


「ねえ、おばあちゃん。前にさ、大輝さんがよつばポストの儀式でどこにあるか確かめたい想いがあるって話をしたじゃない? あのときおばあちゃんが言ってた心当たりって、大輝さんの亡くなった奥さんのことだったんだよね?」


「あら、教えてもらったの?」


「いや、うん、けれど奥さんがいて、亡くなったってことだけ」


「そう」


 雅は信号待ちをしながら、とんとん、とハンドルを指で突いた。


「とっても仲の良い夫婦だったわ。大ちゃんって本当は穏やかで優しいのに、愛想がないように見えるじゃない? でもあの子がいるとその場が和んでね」


 信号が青になり、車が再び動き出した。


「奥さん、どうして亡くなったの?」


「病気でね。病院で診断がついたときにはもう手遅れで、あっという間だったわ。神様ってときに意地悪ね。あんなに良い子だったのに」


「そうなんだ。でもさ、大輝さんは奥さんがいなくなっても、ここにずっと残っているんだね」


「大ちゃんはね、元は滝沢さんって苗字だったの。でも、櫻井ガラス工房を継ぎたいって言って、婿に入ったのよ」


「えっ、そうなの?」


「うん。詠人さんは娘一人だったし、他に身寄りもないしね。自分が店をたたんだら廃業だって言っていたんだけど、大ちゃんがこの店のガラスを絶やしたくないって。ここに残るのはそういう理由もあるのよ」


「そうかぁ」


 そこまで話していると、大岡山の杉林が開け、広々とした田んぼが見えてきた。ちょぼちょぼと頼りなげで細い苗が整然と並び、風に揺れている。その苗の色は淡い黄緑色だ。


『ああ、あのインクの色だ』


 誠のためにウメが選んだインクを思い出し、薫は目を細めた。細く短い苗はひょろっとしていて、すぐに抜けてしまいそうだ。まだ根付く前の、土に馴染んでいない様子が、ぎこちない加山親子を思い出させた。彼らにインクに乗せた想いは届いただろうか。


「ねえ、おばあちゃん」


「うん?」


「大輝さんが言ってたんだけどね、親子のつながりって、血のつながりだけを頼みにしていたら狂っちゃうんだって。いつか、私もお父さんやお母さんを違う目で見られると思うって」


「へぇ、そんなことを言ってたの」


「うん。でもさ、私、ずっと女癖の悪いお父さんを軽蔑していたし、お母さんも全然私に構ってくれなくて、普通の親じゃないと思ってたのよね。今更、違う目で見るって、どういうことだろ」


「父親と母親って枠から外れた二人を正視できるようになるってことじゃないかな」


「どういうこと?」


「たとえばあなたのお父さん。昔から女性関係は派手よね。でも、そんな彼がどうして清良と結婚したかわかる?」


「気の迷い?」


 雅は破顔する。


「そうかもしれないけど。でも、お父さんが一人の男として何を思って清良を選んだのか。そしてお母さんは一人の女としてどう生きているのか。そういうところが見えてきたら、きっとわかるわ」


「でも、私、そんなの知らなくていい」と、薫が俯く。


「普通の家みたいに、お父さんとお母さんがそばにいてくれたら、それで良かったの」


「普通の家、ねぇ」


 雅はハンドルを操りながら、苦笑いを浮かべる。


「あなた、前に『普通って何だ』ってきいてきたことがあったわね。薫にとっての『普通』って?」


 薫は自分の手の中にある携帯電話を見つめ、ぼそぼそと答えた。


「お母さんから『あんたは普通じゃない』って言われたことあるの」


「そうなの?」


「大学受験したいって言ったとき、あんたは普通じゃないから大学なんて向いてないと思うけど、行きたいと思うなら受験してみなさいって」


「やる気を削いでいるのか応援しているのかわからないわね」


「そうだよね。受験させてくれただけありがたいけど、気になってたの。私って普通じゃない?」


 自分ではいたって普通だと思っていた。同時にそれがコンプレックスだった。華々しい風貌と才能を持つ奔放な母の影に隠れ、パッとしない自分に苛立つことも多々あった。

 父親に似たと言い訳できればいいが、それもできない。なぜなら父は父で人を惹きつけてやまない魅力的な人間であり、料理人としても確かな腕を持っていたのだ。


 そんな二人の間に生まれたというのに、自分は見た目も成績も平均でこれといった特技もない。普通で良かったと安堵する一方、垢抜けない自分が惨めでもあった。両親より常識があって普通だと思うことで自分を慰めていたのだ。それなのに、コンプレックスを刺激する存在の母から『普通じゃない』というレッテルを貼られて困惑したのだった。


「そうねぇ。清良がどういうつもりで言ったのかはわからないけど、私は『普通』ってその人の『生きやすさ』だと思うわ」


 雅が田んぼに反射する朝日に目を細めながら言った。


「平均とか、当たり障りがないイメージだけど、それだけじゃないわよね。社会や家庭の中で、比較的生きやすい選択をしていくと生まれるゾーンというかね。生きやすい領域のことよ。だから人によって違うわよね。よく『普通なんてない』とか言うけど、あるのよ。ただ一人一人違うの。違っていて当たり前なの」


 その言葉は、すうっと薫の胸に染みこんでいった。薄暗い雲間から一筋の光がさしこむ気分だ。

 鼻の奥がつんとし、慌てて薫は窓のほうに顔を背けた。


「おばあちゃん」


「うん?」


「私、もっと構って欲しかっただけなの」


「うん」


「八歳のとき、もうバイオリンを弾かないって楽器を投げつけたわ。あのときお母さん、すごく冷たく笑ったの。どうして笑ったのかいまだに怖くてきけない。バイオリンを弾き続けていれば何かが違っていたかもしれない。私は自分でお母さんとの繋がりを壊したのかもしれない。それなのに寂しがるって図々しいのかなって、もう気にしなくていいの?」


 ぐっと車が減速し、路肩に停められた。驚いていると、薫の濡れた頬を雅がそっと包み込む。


「いいの。そのままのあなたでいいの。全力で我が儘言って甘えなさい。だって、私はあなたが可愛くて仕方ないわ。きっと清良も同じはずよ」


 たまらず声を上げて泣き出した薫の頭を、雅の細い指が何度も撫でる。


「好きな人にはね、どんどん好きって伝えてね。それはときに、どんなことよりも美しい奇跡だから」


 よつばポストの儀式で飛んでいったインクの文字を思い出し、薫が何度も頷いた。そして思い浮かぶのは大輝の顔だ。また涙が溢れる。届かない妻への想いを抱える大輝に、好きと伝える勇気が持てるなら、それはきっと奇跡だ。

 そのとき、薫の携帯電話が鳴った。画面に表示されたのは母の名前だった。


「もしもし」


 鼻をすすりながら出ると、久しぶりに聞く清良の声がした。


「もしもし! 元気?」


 一気に脱力し、ため息を漏らす。


「あのねぇ、お母さん、一体どこで何をやってるの? こっちから電話をかけても出ないし、折り返し連絡くれないし、メールは無視だし!」


 彼女の自分勝手な振る舞いにはもう慣れているはずだった。弟子たちに新しい先生を見つけないと教室をたためないのも理解はできる。それにしても、時間がかかりすぎる。

 清良は電話の向こうで豪快に笑った。


「うん、それなんだけどね。秋になる頃、いったんそっちに寄るわ」


「いったん? 寄る? は?」


「うん。私、ドイツで暮らすことになったの」


「はああ?」


 薫の素っ頓狂な声が響き渡ったのだった。

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