そして苗は色濃く
その日、住宅街の一角にあるアパートで、陽平は手元の新聞から窓へ視線を移した。西の空が茜色に染まっている。それから時計を確認し、口をへの字に曲げた。
読みかけの新聞を綺麗に閉じて置き、鏡台に向かって座る妻に話しかける。
「ねえ、誠君、遅くない?」
「そう? まだ五時過ぎよ」
「だって、もうすぐ暗くなっちゃうよ。どこに行ったって?」
「遊びに行ってくるとしか聞いてないけど。友達のところにでも行ってるんじゃない?」
「友達って? 誰?」
「さあ。何も言ってなかったわ」
美冴はフェイスパウダーをはたく手を止めることなく答える。その様子を鏡越しに見つめ、陽平は小さなため息を漏らした。
彼女は派手好みで、化粧には並々ならぬこだわりがあった。自分の美貌を知っていて、それを誇りにしている。そういうところが、消極的な彼には眩しく魅力的に映ったものだ。しかし、結婚してみると少し違って見えるときがある。今、このときも彼は少し眉を下げ、遠慮がちに口を開いた。
「ねえ、美冴さん」
「うん?」
「いや、あのさ、そんなに念入りに化粧しなくても、君は綺麗だと思うよ」
「あら、あなたったら」
まんざらでもない顔で、美冴はアイブロウに手を伸ばした。
「でも、これからお仕事だからね。とびっきりの美人にならなきゃ」
「友達のスナックの手伝いって、いつまでだっけ?」
「新しい人が入るまでって話だったけどねぇ、まだ見つからないみたい」
ちりっと胸が焦げる気がして、陽平は俯いた。本当に言いたいことはそれじゃない。彼女はもっと息子のことを気にかけるべきだ。パソコンに残っていた奇妙な検索履歴が気になる前から、彼女は息子よりも自分のことを優先しているように見えた。シングルマザーだった頃は懸命に働いて子どもを養う必要があったからだと思っていた。けれど、今は自分の稼ぎがある。スナックを手伝うよりも、誠と一緒に過ごすべきなのではとモヤモヤしていた。
今までは思うところがあっても黙ってきた。誠は前夫との子だ。自分が踏み込んでいいのか自信が持てなかった。けれど、このままではいけないと、ぐっと拳を握り締める。誠は伏し目がちな子だ。それは寂しさのせいだと、すぐにわかった。自分を見てくれない不安と孤独は、美冴に何年も片思いしていた陽平にも身に覚えがあった。
「美冴さん」
「なあに?」
深呼吸をして、陽平は切り出した。
「誠君のことなんだ」
「うん?」
「この前ね、一緒に出かけたんだけど」
「うん」
生返事のまま、アイラインをひく手を止めない妻に、陽平は苛立ちを募らせる。
「美冴さん。誠君の話をしているんだよ」
「ええ?」
口をうっすら開けて念入りにメイクをチェックする妻を睨みそうになったときだった。彼らには見えなかったが、窓からするするとインクの文字が滑り込み、陽平の周りを泳ぎ始めた。そして勢いよく彼の胸に飛び込み、消えていく。
その途端、陽平が目を見開く。脳裏に、誠の姿がくっきりと浮かんだ。不思議だった。まるで映画でも観ているように、一人で寝ている誠の姿が映る。彼はむくりと起き、明かりがついているリビングをそっとのぞいた。そこにはビールを手に談笑する自分と美冴の姿。それを見た誠の顔に、笑みが浮かぶ。にんまりと口角を上げ、彼は布団に潜り込み、安心しきった顔で眠りにつく。
『ありがとう。大好き』
誠の声が胸に木霊する。
『でももうちょっと堂々としてね』
それを聞いた途端、陽平の胸に熱いものがこみあげる。気がついたときには「手を止めて! こっちを見てよ!」と、大声を出していた。
「どうしたの、あなた」
ぎょっとして目を丸くする妻に、彼はゆっくりと言った。
「スナックのバイト、もう辞められないかな?」
「ええ? どうして?」
「誠君ともっと一緒にいてほしいんだ。あの子が寂しいの、わかるでしょう?」
「そんなことないでしょ。あの子はしっかりしているし、一人で大丈夫よ」
「誠君はね、君がスナックに働きに行っている間、何度も玄関を見るんだ。帰ってくる時間じゃないってわかっていても、何度も。それでも大丈夫だなんて言えるの? だってまだ小学生だよ」
次第に陽平の声が大きくなった。
「せっかく僕と結婚して生活費に苦労することもなくなったじゃないか。パートなんてしなくてもいいんじゃないの? どうして今まで一緒にいられなかった分もあの子と過ごそうと思わないんだい? そんなにスナックで飲むのが楽しいの?」
美冴の顔つきがみるみるうちに歪む。
「ねぇ、さっきから何を言ってるの?」
手にしていたアイラインを手荒く置き、キッと強い目で夫を見据える。
「スナックで飲むのが楽しいかですって? 水商売を馬鹿にしているの? 生活費に苦労することもなくなったですって? こんなこと言いたくないけどね、あなた生活費がいくらかかっているかわかってる? これから学費だってかかるし、専業主婦でいられるほど余裕ないのよ」
「それはつまり、僕の給料じゃ足りないってことかい?」
「そうよ。でもそんなこと言いたくないから、私だって働いていたんじゃないの。働かなくていいんだったら、私だって家で寝ているわよ。スナックでお客さんに気を遣って、狭い店内で腰を痛めて、グラスを洗って手があかぎれだらけになったって、頑張っているんじゃないの」
美冴は勢いよくまくし立てる。頭に血が昇って顔が真っ赤だ。
「働かなきゃ食べていけないことは誠だって嫌ってほど知ってるんだから。そうするしかないし、うちではずっとそうだった」
「でも、それなら昼間のパートでもいいじゃないか。そんなに化粧して着飾ってお金をかけてまで夜働かなくてもいいじゃないか。もう少し出勤日を減らすとか」
「私はね、仕事のために着飾っているんじゃないの。あなたのためでもない。自分のためよ。私はいつだって綺麗でいたい。惨めな気持ちになりたくない。それをキープするために働いている。誠にもお金がないことで生活レベルを下げて惨めな思いをさせたくない。たまたま友達がスナックの仕事を紹介してくれたし、給料もいい。それだけよ」
狭いアパートの中、二人の大声が響き渡る。陽平と美冴がこうして言い争うのは初めてのことだった。穏やかで遠慮がちな陽平は言いたいことをぐっと堪えていたし、現実的で勘がいい美冴はそのことを見透かしていた。陽平の面子も守りたかった。彼女なりに夫のことも誠のことも考えていたのだ。しかし、その考えは陽平を惨めにさせた。
「見栄えのいい世間体を気にした暮らしより、目の前の人間を大切にしようと思わないのかい? 君にとって僕は給料を運ぶだけの存在かい?」
「はあ? なんでそうなるのよ?」
「僕はね、生活レベルが落ちることよりも、君がいつも子どもより自分を優先していることのほうが誠君を惨めにさせると思うよ。僕だってそうだ。僕じゃ身の丈に合わないんじゃないのかい? 君は贅沢好きだから。その暮らしに僕じゃ力不足じゃないのかい?」
パシンっという音が部屋の空気を引き裂いた。陽平の左頬に痛みが走り、じんじんと熱を持つ。目の前にはわなわなと震える美冴の姿。平手打ちを食らったと気づき、陽平は目に涙をためた。
「情けないけどね、確かに君に専業主婦でいて欲しいなんて言えるほどの稼ぎはない。けれど、せめて誠君から君をとりあげるものから守りたいと思っているんだ。僕は誠君と一緒に笑う君が好きなんだ。なにも家に閉じ込めたいんじゃないんだよ、誠君と過ごして欲しいんだ」
美冴がきつく唇を噛む。陽平はじっとそれを見据えていた。
「僕は君も誠君も大好きなんだ。隣で穏やかに過ごしていて欲しい。一緒にいられる時間を少しでも多く過ごして欲しい。もしそれができるなら、僕は殺されたって構わない」
「えっ、ころ……え?」
ぎょっとした美冴に、陽平がぎこちなく笑う。
「農薬とか殺虫剤で死ねるかわかんないけどね。僕が邪魔だと思うなら、いなくなっても構わないよ」
「あんた、何を言って……」
戸惑う美冴が手を伸ばしたときだった。
「お母さん、やめて!」
誠がリビングの扉を開けて飛び込んできた。
「誠君!」
「誠、あんたいつからそこに?」
「お母さん、お父さんを殺さないで!」
大粒の涙を流しながら叫ぶ誠が陽平をかばうように立ちふさがった。
「はあ? 何言ってんの?」
驚き呆れる美冴に、誠が必死に頼み込む。
「僕、お金なくても構わない。今のお父さんがいいんだ。このお父さんがいい! だからお願い! 前のお父さんとは違うんだから!」
それを聞いた陽平も目を丸くし、呆然としている。美冴は夫と息子の顔を見て、綺麗に整えたまとめ髪をくしゃくしゃっとほどいた。
「よくわかんないけど、あんたたち、なんか変な勘違いしてるでしょう? 殺すとかなんとか、ドラマの観すぎじゃないの? 二人して思い込みが激しいというか、変なところが似ているのよね。まぁ、でもちゃんと話そうとしなかった私も悪いのか」
そう言うと、しかめっ面のまま、携帯電話を取り出す。
「もしもし、あ、ママ? ごめんね。今日行けなくなっちゃった。うん、本当ごめん」
母親の言葉に、今度は誠がぽかんとした顔になる。美冴はそんな息子を見て唇に笑みを浮かべた。
「そう、ちょっと家庭の事情で。うん、埋め合わせするから。それじゃ」
携帯電話を切り、美冴が「まったく、もう」と二人に向き合った。
「もう、二人してそれぞれ考えが突っ走っちゃってる気がするのよね。ということで、本日は仕事を休んで、第一回家族会議を開催します!」
陽平が「家族会議?」と鸚鵡返しに呟く。
「そうよ、腹割って話すことも大事よ。だって、家族だもの。本当に訳がわからないから、一人ずつ話してちょうだい!」
そのときだ。誠は陽平の背中から『大好き』という若苗色の文字が浮かび上がるのを見た。驚いて見とれていると、その文字は徐々に色濃い緑になった。そして三人の真上で弾け、光となって消えたのだ。幻かと思うような神秘的で美しい光。そして気がつけば、その光に包まれ、父と母が一緒になって自分の肩を抱いていたのだった。
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