飴色の嫉妬
鉛の空気をまとう女
「暑い……暑すぎる。サウナじゃないんだからさ」
群馬の夏は、道産子の薫にとって辟易するものだった。気温が高いだけでなく湿度も高い。アスファルトの向こうに陽炎が見えるとどっと疲れが押し寄せる。
そんな中、詠人が薫を連れ出したのは大岡山の中腹にある親水公園だった。浅瀬が続く川のそばにあり、公園内には遊具や水車がある。公園内にも幼児が遊べる小川がひいてあり、多くの家族連れが水遊びに興じていた。
今日は直売所の定休日で時間を気にすることもない。大岡山の夏の木々は眩しいほど緑が濃く、美しい。水の流れる様子は清々しいし、公園の木々が日陰を作ってくれる。しかし、どんなにいいところを挙げてみたところで、この暑さでは気分は台無しだ。詠人は隣を歩きながら苦笑している。
「せっかく親水公園に来たんだから、川に足を入れてみたら?」
「それよりかき氷が食べたい」
公園の入り口にある売店には『氷』の旗がぶらさがっていた。
「じゃあ、雅さんの作ってくれたお弁当を食べてからね」
「今食べたいんですけど?」
「デザートはご飯のあとで」
「もう、子ども扱いして!」
口を尖らせながらも、詠人が相手だと笑えてきてしまう。最初は軽口ばかりの彼に苦手意識があったものの、嫌味や裏表がないと知ると一緒にいるだけで和むようになっていた。
売店前のテーブル席に腰を落ち着け、「さあ、食べよう」と詠人が弁当箱を広げる。
「雅さんのご飯、美味しいよね。毎日食べられるなんて羨ましいよ」
きゅうりのぬか漬けに手を伸ばしながら、詠人がしみじみ言う。
「うちは大輝が食事担当なんだ。美味しいんだけど俺を年寄り扱いするもんで塩分に厳しくてさ、薄味なんだよね。漬物なんて滅多に食べさせてくれないんだから」
大輝の名前に、思わずぎくりとする。平静を装って「へえ」と頷いて見せた。だが、詠人はにやりと口の端を吊り上げた。
「薫ちゃん、大輝のこと避けてるでしょ? 全然ガラス工房に顔を出さなくなったし、一緒に食事しようって誘っても大輝がいると何かしら理由をつけて来ないしさ。何かあった?」
「そんなことないですよ。何もないです」
「声がうわずってる」
「気のせいですよ」
「そうかなあ」
「そうですよ」
白々しいのは自分でもわかっていた。けれど詠人の娘に嫉妬しているなんて、言えるわけがない。無言になって丸いおにぎりを頬張る。米の甘みと海苔の香りが口いっぱいに広がる。顔を出したのは雅が漬けた梅干しだ。隣の三角おにぎりの中身は明太子だった。
「そういえば詠人さんって梅干しと明太子が好きですね。差し入れのおにぎり、いつもそればっかり」
「うん、そういえばそうだね」
「よっぽど好きなんですね。猫の名前にするくらいですもんね」
詠人がだし巻き卵に伸ばした手を止めた。
「ああ、いや、元はといえば娘の好物なんだ。うちの猫は娘が拾ってきた。大輝と二人で『好きなものの名前をつけよう』って相談した結果がね、『ウメ』と『タイコ』だったってわけ」
さっと顔がこわばり、「ごめんなさい」と呟いてしまった。
「なんで謝るの。ああ、娘のことを気にしてくれたの?」
俯いたままの薫に、彼は優しく微笑みかけた。
「全然いいんだよ。大輝が娘のことを話したんでしょう?」
「うん。でも奥さんが亡くなったってことだけで、詳しくは聞いてないです」
「ああ、彼はまだ口にするのが辛いのかもしれないね。でも俺は逆に娘の話をしないほうが辛いんだ」
「どういう意味ですか?」
「だってさ、娘のことに一切触れないように過ごしていると、まるで完全に忘れられてしまったようでそれこそ哀しくなるでしょう。あの子が生きていた痕跡までなくしたような気持ちになる」
詠人はいつもの軽妙な口調で続ける。
「だから、思い出話を聞いてくれるなら、俺も嬉しいんだ。聞いてくれる?」
戸惑いながらも小さく頷く。
「俺の娘はよつばって名前でねぇ。陶芸家だったの。大輝とは美大で出会ったんだよ。学生結婚したんだ」
そういえば大輝はかつてイラストレーターだったと思い出し、妙に納得する。
「うちにあるよつばポストも、娘が作ったんだよ」
「えっ、じゃあ娘さんもガラスペンの儀式をしていたんですか?」
「さあ、それはどうかな。あの儀式のことを教えてもらったのは、娘が死んでからだから、詳しいことはわからないな。でも、大輝が文字を飛ばすところを見ていたかもしれないね」
薫は咄嗟にガラスペンの儀式を思い浮かべる。しっぽをくねらせる猫たち、インク壺から引き上げたペン先の美しさ、そしてゆらゆらと飛んでいく言葉たち。その向こうにいるのは大輝だ。彼はいつも、どこか祈るような顔つきで文字を見送る。その切ない眼差しは返事を待つ者の気持ちがわかるからなのだと、今更になって気づき、胸の奥が痛む。
「薫ちゃんは、飛ばしてみたい想いってないの?」
詠人の問いでハッと我にかえる。
「えっ、私が?」
「うん、見送るだけじゃなくてさ」
「……ない、と言えば嘘になるかな」
苦々しく笑い、水筒のお茶を一口飲んだ。薫の胸の中には、行き場のない想いが幾つも漂っている。父、母、そして大輝の顔がよぎった。だけど、どれも返事なんて見込めないと、彼女は心の中で自嘲した。
「詠人さんはあるんですか? 行き場のない想い」
「そうだね。これだけ生きてりゃいっぱいあるよ。たとえば清良ちゃんが俺を振った理由とかね」
「詠人さんって本当に母が初恋の相手なんですか? 趣味悪いですね」
「ひどい言いぐさだな」
くくっと笑い、詠人はおにぎりの包みをほどく。
「清良ちゃんにとって俺は『近所のお兄さん』みたいな感じだったんだろうけどさ、俺から見た彼女は凛々しくて強くて、綺麗だった。バイオリンを手にするとそれはもう神々しくて。今だって美人バイオリニストって評判じゃない」
「性格わがままで自分勝手で、人のこと振り回しても何も気にしないし、料理も洗濯もろくにできないし、親として最悪なんですけど?」
「でも、正直だ」
詠人がニッと笑う。
「君のお母さんはね、感性のまま生きているんだよ。自分でも説明がつかないのかもしれないね。でも、彼女の言動に嘘はない。そこがいい」
「はあ」
「清良ちゃんは『あなたはさびしがりの無い物ねだりだから、私と一緒に飛べない。そのうちきっと、真っ逆さまに落ちてしまうと思う』って言ったんだ。あの人は自分のことをよくわかってる。同時に、俺のこともよくわかってくれているんだと思ったよ。でも、俺は落ちてもいいから、あのとき一緒に飛びたかったんだよな」
「そんなもんですか」
「薫ちゃんも恋をしたらわかると思うな。ああ、いや、きっとすぐにわかるかな」
「な、なんのことかさっぱり」
「はっはっは、嘘をつくと鼻の穴が膨らむ癖、親子三代みんな同じなんだな」
「もう!」
「ごめん、ごめん。かき氷買ってくるから機嫌直して」
ケラケラ笑って売店に向かう詠人を見ながら、薫は頬杖をついた。
大岡山に初めて来た日に見た夢を思い出したのだ。バイオリンをやめた自分に、母は冷たく笑った。はっきりとは思い出せないものの、夢ではないような気がしてきた。もし、清良の言動に嘘がないのなら、冷たい顔で笑ったのは何故だろう。バイオリンを弾かないと言ったとき、「そう」と答えた母は胸の内で何を思っていたのだろう。
ぬるい風が吹き、濃緑の枝を揺さぶった。ざざっと鳴る葉の音に、彼女はそっと深いため息を漏らした。
そして薫たちがかき氷を手にしていた頃、一台の車がガラス工房の前に停まった。運転席から一人の女性が降り、店の前に歩み寄る。そばで寝そべっていたウメとタイコに優しい視線を送ると、静かに扉を開いた。
「いらっしゃいませ」
声をかけた大輝の眉がぴくりと動く。女性はまるでヘドロのような鉛色を全身にかぶっているように見えたからだった。その周囲の空気だけずしりと重く感じる。
『今日はガラスペンが売れるかもしれませんね』
大輝は静かに歩み寄り、「何かお探しですか」と優しく声をかけたのだった。
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