口笑
「銃夜……?」
晴安の巡る思考が止まらない。自分に抱きつき甘える彼は、姿を銃夜と見て間違いはない。しかし、はきはきと吐き出される言葉と、その力の強さで、彼が銃夜であるとは思えなかった。昨日まで痩せこけていた少年の腕では、ありえない力で、晴安を離すまいとしている。銃夜は、ずっと彼の顔を見ていた。
「そうだ俺は銃夜だ。大宮銃夜」
彼は言い聞かすように言って、一度、晴安の懐に顔を埋める。唖然とする野菊と、ゲンのことは気にもせずに、彼は、少年は、謳う。
「帰ろう。俺達の家に。安部家に帰ろう。それとも帰っちゃ駄目なのか? アンタは俺を銃夜と呼んで、慈愛を向けていたじゃないか」
まずい、と、誰かが言った。それは野菊の言葉か、それともゲンの言葉か。どちらでもなく、ミシャクジサマの声か。誰かもわからないが、誰かが、確かに、そう言った。
瞳は赤くも濁りて、宝石のような輝きは失せている。少年らしい、目新しいものに興味を示していた頃の、それは殆ど欠落しているように思えた。
晴安は実に反射的に、銃夜を抱きしめていた。
「……せやなあ」
彼の目が、ズキりと痛む。抱きしめられた銃夜は、嬉しそうに、晴安の一時顰められた眉を気にすることもなく、体を彼に預けた。
「なあ、銃夜。扇羽は何処におるか知っとる?」
晴安のその言葉を聞いても、銃夜は態度を変えない。嫌な予感と、つい先程、その目に見えていたものが、晴安の脳髄を抉った。
「扇羽は一緒にいるよ。俺とずっと一緒だ」
暗闇のそれは溶けていた物を具現して、銃夜の影からは、数匹の黒い蜻蛉が浮き出る。それに目線を取られた晴安と、その近く、野菊とゲンは、釣られて、銃夜の影を見た。
そこではギラリと光る、金の二つ瞳の目が、こちらを覗いていた。
覚悟と期待が晴安の中で反して、一種の吐き気の様なものを覚えた。
「……話を聞くんは後にしよか」
全ては後手であった。全ては、既に終わっていた。軽い銃夜の体を、晴安は持ち上げて、その背を摩る。地から離れた銃夜の足に縋るように、彼の影の中、二つ瞳の目は、晴安と銃夜を見上げる。目は口よりもモノを言うとは、本当らしい。彼等は晴安と目が合うと、とても申し訳なさそうに、酷く、悲しそうな、寂しそうな目をしていた。
「大丈夫やで。怒らへんよ。一緒におるんやもんな。大丈夫。さっき、言いたいことは見えとったから、皆で一緒に帰ろな」
グッと、銃夜を寄せる手の力が、強くなる。銃夜はいつの間にか、晴安の腕の中で眠っていた。影は膠着から流動へ。鈴の様な音を絶え間なく鳴らしながら、周囲を飛び回る。
「……たい……痛い……」
野菊とゲン、そして晴安の三人の耳に、そんな女の、弱々しい声が聞こえた。それは野菊の声にも何処か似ていて、彼女の姉妹を思わせる。その方に、ゲンが、ズボンに入っていた隠しナイフを手に持って、近づく。恐る恐るそうしていると、そんなのも構わずに、晴安が、誰よりも前に出る。それに着いて、影の目も進んだ。
晴安にとって、それは最早、恐怖の対象ではなかった。
「――――
この人と唱えた先、そこにいたのは、全身を白く染めたような、上半身が全裸の、醜い痘痕だらけの女。その下半身は、ボロボロに鱗を失った、巨大な蛇。瞳は赤く血に染まるようで、狂気を孕んでいるが、そこには、戦狂乱のそれではなく、何かに対する恐怖が詰まっていた。
「お初にお目にかかります。僕は、大宮家の支族、安倍家の当主やっとります、晴安言います。そちらはミシャクジサマの……分身の、誰か一人やとお見受けします」
神々の分身に、固有名詞がつくことなど、そうそうない。それはよく知っている。晴安は、彼女を憐れむような、そんな表情を、彼女に向けていた。
「貴女方がしたかったことは、ようわかっとるつもりです。僕には『千里眼』がある。本当に、嫌なことばっかり見てしまう、ちょっと嫌なもんやけど、それで、僕は貴女が何をしたのか、よう見ました」
体の傷を痛がって、血液を噴き出す、鱗の隙間を、女は触った。恨むような、それでいて逃げ出したそうな、そんな顔だった。
「ハッキリ言います。僕は貴女が許せへん」
強く、語尾は一種の怒りを持って、吐き出される。晴安は、女の目を見た。彼女は、あっ とか、ひっ とか、本心から、恐れる様な言葉を垂らした。
「貴女が暴れたから、扇羽は人間として生きていく道を絶たれて、銃夜の守護者になるいう夢を奪われたんや。貴女が一度殺したから、銃夜は、自分を制御しきれへんくなってるんや」
先程の銃夜の、狂気と乱の気を孕んだあの目は、晴安には心当たりがあった。力ある者が、時折、ああなるのを見ていた。人であって、人ではないような、神に近くなって、何処かに行ってしまいそうなあの顔と、言動を、一つ、憎しみを持って、覚えている。
「この先、二人は貴女のせいで、決められた道を進まなあかんかもしれへん。そないなんおかしいやろ。何で貴女の一時のわがままで、この子等が、自由に生きられへんのや」
怒りを落として、晴安は息を整えた。その感情に助長されたか、影の中の瞳――扇羽――は、唸るように揺れた。
「償えとは言わん。それが貴女の生きる価値だったから。本当は貴女を恨むのも、貴女にこの言葉をぶつけるのも、間違いであると知っとるから」
影から、一匹の、黒く斑模様の、巨大な狐が現れる。それに続いて、空間を覆っていた幾千匹の闇深い蜻蛉も、動き出す。硝子と鈴の音を振りまいて、三人と、抱きかかえられる銃夜、ミシャクジサマの娘を囲む。
「償えとは言わん」
もう一度、晴安は言った。
「ここから出る鍵になる以上、貴女に罪を償う時間なんて、あらへんのやから」
黒い生物が、次々と女を襲う。その様子は、見ていた野菊の中で、記憶の破片を誘発させた。
――――もがき、苦しみ、神に捧げられる自分を見る。彼女を押さえつけ、袋叩きにしていたのは、黒髪に黒装束の男達だった。
酷く、今の状況は、それに似ていた。野菊は、皆から離れて、目を反らす。耳に、自分の声で、断末魔が聞こえた。
「何を気にしてんの? 面倒な奴だな」
ゲンが、隣でそう言った。黙って続きを待っていると、ガシャンと、陶器の割れる様な音が、世界の端から聞こえた。
「自分と似た存在が、誰かに殺されるなんて、普通じゃないか。自分が人間だって思い込んでた頃を思い出せよ。自分の目の前で
彼の、年齢にそぐわない言葉が、野菊の頭を刺しては抉る。
世界は壊れていく。黙って、ついには静かに涙を流す野菊を他所に、彼女の姉妹が作っていた世界は、終わっていく。理由は、自業自得だった。彼女が彼女であるためだった。
いつか、自分が、あの醜い姿になった時、きっと同じ風景が見えるんだろう。
野菊はそんな考えを、帰路の、床も天井もない、堕ちる世界に、共に堕とした。硝子の破片の様な、世界の欠片が、燃え尽きるのを、黙って見ていた。
赤く燃える夕暮れは、誰もが飲まれるような、暗い夜に変わりかけていた。銃夜を抱いて床に横たわる晴安。その隣には、同じように床に伏す野菊と、ゲンがいた。周りは、異界に行くよりも前に見た光景。阿鼻叫喚の血の池地獄が、懐かしくも思えて、安堵の息を漏らす。
胸の中の銃夜は、すぅと寝息を立てていた。
「晴安!」
走ってこちらに向かってくる、義兄の声が聞こえる。体を起こして、それに答えた。焦りながら、それでも、自分達の姿を視認して、安心もしているように、彼はこちらに向かっていた。
その後ろ、赤髪を長く垂らす、少女の姿が見えた。それに金の目を嵌めて、顔の骨格は、扇羽を思わせる。彼女の片方の目は二つに分かれていて、所謂、重瞳であった。ふと、銃夜の影の中の彼を思い出す。少女はこちらを見て、酷く、悲しそうな、絶望に殴り殺されそうな、そんな顔をしていた。
「ごめんな」
晴安は、静かに呟いた。
騒ぎ大きくも、事件を終わらせようと必死の人々が、自分達の周りに集まることで、あぁ、終わったのだなと、晴安は目を閉じる。
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