何度も、何度でも、掴めなかった手が戻ってくるならば、血を吐いてでも叫ぶ。それが安倍晴安という男である。それを、野菊もゲンも知っていた。故に、彼が叫ぶ名を聞くと、人間らしく、聖人らしく、心臓が何かに掴まれたような苦しさに悶える。


「野菊はん!」


 必死に、縋るような彼の目が、いつもは細く見えぬその目が、明らかに見開かれている目が、野菊の網膜に張り付いて離れない。目を反らすことが出来ず、野菊は晴安を見た。


「悪いが銃夜も扇羽もここにはいない。まだ中にいる」


 先、聞きたいことは理解していた。それに望みも薄いのも、大方、察する事は出来る。彼等はミシャクジサマの分身に、捕らえられている。おそらく、少なくともどちらか一方は食われているだろう。


「それに、多分、どちらかは死んでる。あのミシャクジサマが、記憶をきちんと思い起こせているなら、扇羽が食われてる」


 ゲンは事実を吐き出した。ミシャクジサマの記憶の断片を、多少なりともゲンは知っている。その中から、黒髪赤目の少年を『欲しい』と思う感覚を掴んでいる。ならば、ミシャクジサマは、銃夜を残すはずだと。そう、ゲンも、その場にいた野菊も考えていた。


ミシャクジサマってなんや。説明してくれへんか。何で断言するんや。何で二人が無事やないってわかるんや」


 晴安のその言葉に、違うと言えと、半分の期待を読む。だが、縋る目を止め、次の一手を見極める棋士の如く、こちらを見据える彼は、冷静に、ただ説明を求めるだけのようにも見えた。


「……長くなる。どちらか一方でも、助けたいなら早く動いた方がいい。手短に、動きながら話そう」


 野菊が言った。先程の狂気性は既に捨て置かれていた。そこにいたのは、樒野菊。樒家の人間として、晴安に手を貸す術者。

 呆然とする晴安を他所に、彼の真にある願いを叶えるために、彼女は服の腕裾を捲る。


「ゲン、教えな。私のクソみたいな姉妹をぶち殺す手立て。母子プレイに興じるメンヘラ蛇の頭をもぎ取りに行くよ」


 そう言われたゲンが、少々呆れたような表情になって、一度、晴安を見やる。


「酔うなよ」


 その一言で伸びるは、ゲンの影。血肉の床に這い、唸り声を上げて、その場にいる全員を睨む。


「影は扉。自分と同じ存在になら、何処までも繋がる道」


 そう、と、彼は一呼吸置いた。


「影を踏め。広げろ。ここにいる全員が入れるくらいだ。俺達の力の根源は、人も人以外も全部、想像だ。想像しろ。影はいくらでも動かせる。俺達にとって、影に物理法則なんて意味がない」


 ゲンの金糸が揺れる。共に影も揺れた。ずるりと広がる影は野菊の足元まで寄りて、促す。ふと、また、晴安の隣まで伸びていた、野菊の影が、生物のように揺れる。


「蛇は俺達と似てる。だからこれで異界を広げることは出来るはずだ」


 野菊の影の反応を見て、ゲンはそう言った。晴安をちらりと見ると、ゲンは軽やかに地を踏んで、その傍に駆け寄る。


「異界に堕ちて、まずすることは一つだけ。銃夜を探せ。人間のふりしてる奴の死を嘆いている暇があったら、とっとと帰ってくることが先だ」


 葬式なんて、死体が無くても出来ると、ゲンは呟いた。ゲンの影が物理法則の中に納まって、次々に広がり空間を飲み込むのは、野菊の影だった。今更、晴安は理解する。野菊はミシャクジサマと繋がる何かだと。


「異界から帰る方法は二つ」


 信頼と無意味さの揺らぎの中で、ゲンが晴安の目を見た。


「女神一人を殺すか、アンタ一人の生を使って、異界をぶち壊して帰るか」


 対価を持ち出す彼は、晴安の心臓を肋骨と皮、布の上からなぞる。


「アンタは破壊を持ってるからな。死を恐れなければ出来るんじゃないか?」


 破壊。晴安やその周りにいる、能力者と呼ばれる者達が持つ、能力の一つ。彼らの能力は七つ程に分類されるが、破壊はその中でも、全てを無に帰す能力であった。そして、その始祖的な立場にあるのが、大宮家だ。晴安はその大宮家の血に連なっている。


「自分を犠牲にすることを、恐れるようなアンタじゃないもんな」


 子馬鹿にするように、ゲンが鼻で笑う。近く、後ろから、晴朝の声が聞こえたが、それはすぐに黒く塗り潰された。影の完成。異界への扉。道の、最終幕。

 戻ることを許さない。許されない。そこにいたのは、決心を迎えた晴安と、心苦しい感情を落とす野菊。そして、それを知らないと歩き出す少年、ゲンであった。誰も邪魔は出来ない。動きだせるのは三人だけ。手を加えることが出来るのは、彼等だけである。


「銃夜! 扇羽!」


 野菊を置いて、晴安も歩き出した。野菊はそれに着いて歩く。ゲンは知らない顔をして、周囲に気を配っていた。空間は、光源無くも薄っすらと明るい。冷静になってみれば、自分の手の先は見える程度には、見通しがある。ただ、その見えるところに、何かの血液が腐った固形、とろりとした粘液、大きな鱗があるのは、ただ、精神を擦り減らすだけだった。


「晴安。声抑えて。近くにいる」


 野菊の耳に、何処かで、何かが這う音が聞こえる。その何かの大きさからして、彼女の姉妹、ミシャクジサマである。だが、それの音は弱り果てていて、ゆっくりとしていた。


「……逃げてる?」


 息遣い、動きの方向、それからして、ミシャクジサマの動きが、どうも、何かから逃げるような動きのようだと、野菊は頭を傾けた。ゲンはそれを聞いても、黙ったままであったが、明らかに不思議そうな表情にはなっている。


「野菊はん、ミシャクジサマやのうて、銃夜達が何処にいるかはわからへんか」


 晴安にそう言われて、野菊はまた別の方向に、耳を研ぎ澄ます。冷たく大きな心音、ミシャクジサマの心音が、自分と似通ったそれが、妙に邪魔立てするが、奥に、確かな温かい人間の音を聞く。それは一つだけであったが、こちらに、ゆっくりと歩みを構えていた。


「いる。多分、銃夜だ」


 野菊はハッとして、その聞き覚えるのある心音、ととと、と、少し早いそれを聞き分ける。幸いにも、一直線上に、ミシャクジサマはいない。彼女は何処かに逃げ隠れようと必死で、横道に反れている。

 ふと、彼がこちらに近づいてくるにつれ、不思議な現象に気が付いた。


「扇羽もいる」


 銃夜と本当に変わらない場所から、扇羽の心音も、同じく聞こえていたのだ。それは羽虫の翅の触れる音のような、そんなしゃらしゃらとした音であったが、確かに、それは扇羽に違いはない。

 僅かな希望に、晴安の表情が薄っすらと明るくなる。だが、ゲンと野菊の二人には、不思議で不思議で仕方がない。ともかく、こちらに寄る彼等に注意して、三人は、彼等との直線を歩く。


 次第に、ぴちゃん、ぴちゃんと、誰かが裸足で歩く音が、誰にもハッキリと聞こえた。そして、その方向から、同じく、大音量の羽虫の音が向かう。硝子同士が砕ける音にも似たそれは、騒音に近く、全てを拒絶するようだった。

 音と共に、暗闇が迫ってくる。それは二人の方からであった。ほんのりと明るいこの空間で、彼等は闇を背負ってこちらに歩み寄っているのだ。

 

 もう、既に彼らは人間ではないのではないか。そう、晴安達に思わせるには十分であった。ふと、晴安が闇の端を見る。それは、少年時代に誰もが追いかける、それなりに大きな部類の、蜻蛉であった。それらは幾千にもなり、こちらにゆっくりと広がっていたのだ。騒音の大きさも、その量に比例しているように思えた。


「これが銃夜と扇羽?」


 ゲンが呟く。ぴちゃぴちゃと足音が早くなる。音が隣合わせになった時、空間は、鈍くてらめく漆黒の蜻蛉せいれいに覆われて、三人は迎えられた。隣も見えないその場所で、晴安は、自分の胸の辺りに、ほのかな温度と、重さがかかったのを理解する。


「晴安。ランドセル、やっぱり要らない。早く帰って、皆で夕飯が食いたいんだ」


 それは確かに銃夜の声だった。それは確かに、慣れ切った人間に対する、扇羽の言葉だった。

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