銃夜達が異界に取り残される中、外の世界、窓から見えるのは、淡い雲を携えて、青から鮮やかな橙になろうとしている空。同じ、青い空を瞳に嵌め込む少年は、一つ、息を吸った。ビルの中の、ある一つの階で、一人で、彼は歩く。踏みつけていくのは、異界、神々の食事へと巻き込まれた、名前も分からぬ乙女達。既に生き残っている者は、何処にもおらず、生きていたとしても、おそらくは、この建物の外に出て、世間様に喚き散らしている頃だろう。


 コノエは、ゲンは、動かぬ心と指示されたという現実に突き飛ばされて、歩いて行った。

 外、外に出なければならない。世界が赤く染まって、夕暮れが来る前に、帰って来いと、命令されている。命令に背いてはいけない。何故いけないのかは教えて貰えていない。そうやって作ってあるとしか言われていない。


「ゲン! ゲン!」


 歩み、覚束ない体の末端に力を込めていたら、そんな、自分を呼ぶ声が聞こえた。その声の主は、女。樒の名を冠する、野菊という女。


「……どうかしたのか。野菊」


 つまらなそうに、単純に、淡々と。ゲンは野菊にそう尋ねる。何を言っているのだこいつはと、そんな目で野菊はゲンを見た。


「異界がここで発生したはずでしょう! アンタは大丈夫だったの!?」


 眉間に皺を寄せ、いつもの白衣は着ずに、普段着だけの野菊は、ゲンの肩を持つ。


「何で俺が大丈夫かなんて聞くの?」


 冷静にゲンがそう口にすると、苛立ちを隠さないで、彼女は言う。


「生贄になるかもしれないでしょう! アンタ! 未成年の男なんだから!」


 心底の心配か、それとも反射か。

 過去、ゲンは暫く、樒家に世話になった期間があり、その頃から彼女とは面識もある。しかし、そんな心配をされても、と、ゲンは何もわからないふりをする。


「……ミシャクジサマがここを荒らしてるんだと思った?」


 静かに、そう尋ねる。野菊が、ゲンの静かな様子に、疑いの目を向けるようになったのは、必然である。


「ミシャクジサマってさ、未成年の男を狙うんだよね。その理由の根本を、願望を、俺は知らないけど」


 眉間に寄った皺が、野菊の男に近しい、中性的な顔を歪ませた。ゲンが言葉を落としていく。その先、どうやら野菊は反論をすることもないとわかると、ゲンは続けた。


「神にはそれぞれ、願いがある。生まれた理由がある。絶対に達成できない願望を、神々は持っている」


 理解。知識。二つの要素を練り合わせて、ゲンは野菊に語る。


「それでもそれを叶えるために、神々は生贄を求めてる。生贄それが願いの本質で、欲しいモノとして得ようとすることもあれば、生贄メシ食って膨らんで、全知全能になりたいなんてのもいる」


 そんなの無理って知ってるのにね、と、ゲンは少しだけ微笑んだ。ゲンは空を見る。固まった血で、窓硝子が汚いが、それでも、空の赤は刻々と広がっているのがわかった。


「達成出来ない願いを何千年、何万年、持ち続けて、待って、待って、待って、頭はどんどんおかしくなる。耐えきれなくなる。願いが悲しみから生まれたなら猶更、一人じゃどうにもならないんだよ」


 謳うように、全て、知っているように、ゲンは言った。野菊は気づく。彼に、先程までは無かったものが宿りつつあることを。


「だから生んで捨てるんだ。自分の分身を。自分の記憶の破片を」


 ゲンの瞳は、青く、深海を埋め込んだようで、その中に一種の狂気を孕んでいた。彼が空中に上げた腕は、鋭く硬い爪を五つの指から伸ばし、見える肌には鱗を散りばめる。


「分身は本体の一部分の記憶を持って、色んな形で生まれてくる。時には本体そのものの姿、時には山や海の中の畜生、時には人間の赤ん坊」


 開いた口は、刃。犬歯は肉を切り裂くそれと同様。


「生まれてきた俺達は、その姿に準じて生きる。でも中身は外とは違う。本当の親の、願望の欠片。人間として生まれて、化身となって、人間の大部分を持っていても、俺達はそれを理性だけで押さえつけることは不可能だ」


 それでも、と、ゲンは伸ばした手を戻す。その手はまた、幼い少年の、柔らかな肌に戻って、彼の表情は元の人間の、無機質なものになっていた。


「時々、食らえばどうにかなることもある。本体が求めている生贄を、十数年に一回程度、食っていれば良い」


 そう言って、ゲンは足元にあった、女の腕を蹴り飛ばす。ごろりとそれはどこかに行って、動きを止めた。


「でも無理な時もある。俺達は近くに本体が来た時、どうしても衝動に駆られる。生贄が欲しいという衝動と、本体に生贄を渡さなくちゃならないという衝動に」


 ゲンは言った。そして、洋服の裾から、ギラリと金属の反射光を覗かせる。それは夕日の赤い光と同じで、暖かい色彩であった。


「野菊。樒野菊。案外、は近くにいるんだよ。ミシャクジサマは眠りから覚めた。この辺りの土地には彼女の分身が多い。その中でもお前は唯一理性が強い分身であり、化身だ」


「違う! 私は!」


 ゲンの言葉に、野菊はやっとのことで声を上げる。焦りと一種の恐怖心を称える彼女は、ゲンの肩に掴みかかって、何度も揺らす。


「私は神の化身なんかじゃない! 私は人間だ! 私は子供を守った! 銃夜少年を守った! 彼の命を守った! 人間の! 医術で! 命を繋いだ! これが証拠だ! 美味そうだと思っても! 私は耐えた!」


 支離滅裂。既に彼女は自分の放った言葉の意味は、理解の範囲を狭めている。野菊の下地は、もう、どんなに見繕っても、露出して、誰にでもわかるようになってしまった。


「アイツらとは違う! 私はまだ一回も! あんな醜い姿になってなどいない! 子供を求めたりなんかしていない!」


 野菊の脳裏にあるのは、記憶。子を求める記憶。我が子を目の前で引き裂かれ、巨木の肥やしにされた映像達。それは断片的で、それがなんなのかは、もし誰かが同じものを見たとしても、彼女以外に理解できるものではない。


 声に出して、二度と戻らないものを求める屈辱が、精神を蝕んでいく。そして、自分ではなくて良かったと、安心するような顔の、美しいあの女が気に入らない。痘痕で顔を失った自分達を、暗に不必要だと罵って、見たこともない神々に捧げた男達を殺してやりたい。あの女の、顔立ちの美しさと、あの女の生んだ、美しい珠の様なあの少年が、欲しい。


 脳内で野菊の断片的なそれが、処理を逸脱する。ここにあるのは自分の記憶ではないと、それは理解している。それでも、破片は自身の記憶と理性を破壊しようと、刺さっては抉っていた。


 動いてもいないのに上がる息は、ゲンにかかり、彼は野菊を睨んだ。


「本当に女神の化身は一々うるせえな。黙ってろよ、蛇女」


 彼は明らかに感情を持っている。喉を震わせ、頬の筋肉をぴくぴくと動かしていた。


「誰もお前をどうこうする云々言ってねえだろ。黙って聞いてろバーカ」


 彼の表情、動作、言葉は、思春期及び反抗期の少年のそれを完全に表している。長く揺れる金糸と、海のような青が、野菊に突き付けられる。


「お前だったら他の分身が作った異界を! 切り開いて! 助けられるだろ! アイツは分身だ! 本体じゃない! 取り憑いたら駄目なの!」


 ゲンはそう言いながら、野菊の眉間に衝撃を入れる。指一本のそれではあるが、彼女をもんどり打たせることは簡単に出来た。


 揺れる脳で、人、が戻ったのか、野菊はいつものような男勝りな彼女に戻っていた。その証拠に、直前に一発のデコピンを食らわせたゲンを睨んで、犬歯を剥く。


「やったことないんだからやり方わかんないわよ! そんなの! 出来たらはじめっからやってるわ! あと痛いわ! 阿呆! 本気でやったな!」


 子犬の様な二人の言い合いは、お互いに、今すべきではないという理性が働いたのか、すぐに落ち着きを取り戻す。野菊は溜息を吐いて、結わいていた長髪を掻きむしる。


「……何で初めからやり方を教えなかったのよ。アンタ出来るんでしょう」


 野菊は睨んで、ゲンを訴える。だが、その後ろに、何となく見える人物に、また大きく溜息を吐いた。


「わかった。ごめん。アンタに言ってもしょうがない。アンタを利用してるあのクソ野郎を後で叩いて挽肉にでもしておくわ」


 とにかく、と、野菊が言った途端だった。隅の階段から、複数人がこちらに駆け上がってくる音が聞こえた。彼らは何度も、ある少年達の名を叫んで、こちらに向かっている。その声も、二人には聞き覚えがあった。


「銃夜ー! 扇羽ー!」


 必死に囚われた二人を探す晴安の声に、野菊とゲンの二人は、罪に苛まれる、善人の感覚を理解した。

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