だらりと、銃夜の口の端から、唾液が零れる。突如として銃夜を襲う奇妙な空腹感は、猛烈な獣の飢餓感に変わり、頭と腹の中で呻き叫び終わらない。


「銃夜!」


 何度も、何度でも、扇羽は銃夜に訴えるが、それを銃夜は聞かない。どうにも体が言うことを聞かず、飢餓感という生物的衝動だけが蠢いている。扇羽の周りに纏わりつくそれが、人生で二回しか経験していない、『料理』というものを超えて、極上の食事に見える。手を出して、キィと鳴くそれを、手で握り潰して、食らいだす。


「駄目だ銃夜! そんなもん食うな!」


 扇羽の声は、届いてはいる。だが、それを凌駕するほどに、食っては裏返り再びやってくる本能に、勝つことが出来ない。むしゃぶりついて、噛み付いて、いつまでも減らないそれに、銃夜は光悦の表情を浮かべていた。


「呪いだぞ! これは呪詛だ! 食べちゃ駄目だ! 中から食われる!」


 そんなことを言われて、銃夜は、下腹部の不快感を感じる。何かが腹の中で蠢いて、それは先程までの飢餓感ではなく、何か、生物が呻くそれであった。

 自らの体の肉が食われ続けている扇羽は、自分に縋りつく鼠を掃うのをやめて、銃夜に駆け寄る。口を押えて、座り込んだ銃夜の手を掃って、骨が見え始めている自分の指を銃夜の喉奥へと突っ込んだ。


――――ゴエッ ウォオェッ


 ゴポリと銃夜の口から、赤黒い何かが飛び出す。それは、食らった鼠が、更に大きくなっている姿だった。それが、一匹では留まらず、何匹も、絶えず飛び出して、銃夜の喉を通っては外へと向かう。飛び出した鼠は、扇羽に噛み付いて、また肉を食らおうと必死に動き回った。


たすけて


 飢餓感よりも強い恐怖に、頭を強打された銃夜は、声に出せずに、それをひび割れている爪で喉を掻いて、訴える。

 成す術なく、人食い鼠を吐き続ける銃夜を、扇羽は見ていた。


「……畜生……わかんねえよ……どうなってんだよ……このはなんなんだ……何でこんなにぐちゃぐちゃになってるんだ……」


 痛みに耐えながら、扇羽は手で鼠を砕いて、まだ傷つかない、重瞳の目で睨む。彼にとって、呪い、呪術、呪詛というものは、数式のようなものを持つ。それを、扇羽は必死に解こうと、頭を使っていた。その数式さえ解けば、呪いも解ける。そう、彼は元治から教わっていた。

 だが、わかるのは、それが稚拙で、無様で、滑稽な、酷くぐちゃぐちゃに絡んだ糸玉のような式であり、一人の宮家の少女に作られたのだろうということだけだった。


――――ずるりと、銃夜の耳に、何か、這う物の音が届く。

 銃夜は届く範囲の、赤黒く暗い空間の、目の届く範囲で、ぎょろりと目を動かして、どこに、その、気配の主がいるのか、何度も確認した。

 耳では、鼠達の喚く歌が邪魔をして、辿ることが出来ない。臭いは止まらぬ喉奥からの群衆に、かき消されてわからない。無駄な足掻きと、目を動かすが、あるのは食われ続ける扇羽だけである。


 重みのあるその音は、段々と近づいているのか、シュルと妙な摩擦を隣に纏わせる。動物らしい体温は感じられない。ただ、それが巨大であることだけはなんとなく理解できた。


 そうやって、感覚を機敏にさせているうちに、鼠が喉から出なくなり、銃夜はゴホゴホと咳込んで蹲る。


「銃夜!」


 異常を察知した扇羽が、銃夜の背を摩った。足を齧られても、体のあちらこちらを穴だらけにされても、扇羽は、銃夜の答えを待つ。

 不思議と飢餓感の失せていた銃夜は、息を正常に戻してから、扇羽の体から鼠を掃うように手を動かして、扇羽に縋る。


「……なんかいる……大きいの……」


 異質物を感知したと、銃夜が伝えると、扇羽は辺りを見渡す。どこにあると、遠くまで見ようとするが、その先は暗闇で、よくわからなかった。


「拙い……鼠よりも拙い……拙いぞ、早く何処かに隠れないと……」


 そう扇羽が呟いた時、その目の前から、銃夜の気配が消える。それと共に、ドンと重い打撃が聞こえて、グシャリと何か潰れた音も同時に唸った。


「銃夜?」


 終了した思考が、その名を呼ぶ。


――――自分に触れてくれていた手は何処だ。さっきまで自分に助けを求めていた、俺の主人は何処だ。


 目の前にあるのは、ギラリと光る鱗を持った、巨大な、鈍色の蛇、その胴の部分。聞こえてくるのは、何かしらの咀嚼の音。肉を食らう音。

 心底、自分の奥底の記憶から、それに嫌悪を覚えた。自分が食われる音と、他人が食われるときの音は違う。人間に人間が食われるとき、ねちゃねちゃという音と、歯をギシリと動かす音が合わさって聞こえる。その音が、耳の傍まで来ていた。


 一度終わらせた思考は、本能となって、その音の方に首を動かせと言う。恐る恐る、ゆっくりと、現実を否定しながら首を動かす。


 静かに、それは、銃夜を食らっていた。

 大蛇の半身を持つそれは、上半身に程々に筋肉質の体を持ち、胸部に果実のような膨らみを顕わにする。後ろ髪は長く、黒く、真っすぐで、墨のような艶が美しい。細く白いしなやかな腕で、銃夜の頭を掴み、暴れようとする彼の肩を地に伏せる。


 クチャクチャという音と共に、大蛇は銃夜の肋骨の下、肝臓を食み、チュルンと麺でも啜るように、細い腸を啜って口に入れた。体から臓腑の一つ一つが離れる度、それらを固定する腹膜がぷちぷちと切れる音も聞こえた。

 銃夜の呻く声が、遠のいて聞こえる。


「あぁ……」


 扇羽は、鼠達も忘れて、立ち上がって、駆け出す。


「離れろ! 畜生! 離れろ! 銃夜から離れろ!」


 女の上半身を、何度も、骨の露出した拳で叩く。扇羽の体は、自身を守ることを忘れ、制限は消え、自分でもよくわからないほどの力が籠められた。それでも、女は動かずに、ずっと銃夜を食らっていた。


「お黙りなさい」


 やっと出た反応は、人間の世界から離れている、ずれているような、女の声であった。食う口を止めて、女は上半身を上げる。既に五臓六腑のほぼ全てを失いつつある銃夜は、その異常な生命力からか、生き絶え絶えに、声も上げずに、ただ、涙交じりの息をしていた。


「駄目よ坊や。母様の食事を邪魔しては」


 優し気な、母親というものを思い起こすような声だった。振り向くそれは、ゆっくりと扇羽を見て、微笑みを訴える。その中の瞳は、蛇のそれだが、赤く、どこか銃夜と似ている。


「貴方も一緒に食べましょう、坊や」


 女は頭を押さえつけていた手を離し、瞬時に銃夜の目に宛がう。グチリという、肉を引き剥がす音と、銃夜の弱々しい呻きが響く。


「凄いのよ。この子、すっごく美味しいのよ。すっごくすっごく、力が湧いてくるのよ。凄いわ。流石は大宮の子。顔も凄く可愛いけど、貴方に比べたら全然ですよ。安心なさい、私の坊や」


 光悦の表情で、それは笑った。ぞくぞくと背筋が撫でられるような感覚を覚える。

 狂っている。心底そう思った。だが、扇羽にとっては、それは何度も見た光景でもあった。慣れが、扇羽の足枷を解く。傍に寄った鼠を踏み潰して、それの顔面を殴る。


「そいつはお前の生贄じゃない! 離れろ! 俺に神の加護なんか要らない!」


 仰け反った女の体は、すぐに姿勢を戻し、傷など無かったように、美しいまま微笑んだ。


「どうして? かか様がずっと守ってあげるだけですよ? ご飯を一緒に食べるだけですよ?」


 交差する会話は、扇羽の感情を置いて、女の手へと戻っていく。女は銃夜の目を二つとも食らうと、もう一度手を銃夜の頭の方に伸ばす。届いた先は、彼の後頭部。めきめきという、陶器を粉砕するような音が聞こえて、銃夜の口が開いた。


「あ」


 断末魔でもなく、助けを求める声でもなく、銃夜は言葉を落とす。そうして、暴れようとする体は、ぷつりと人形の糸が切れたように動かず、暫くの痙攣の後、指一つ動かなくなっていった。

 その頭から流れ出たモノを両手で掬って、女は口で啜る。まるで泉から湧き出た水でも啜るような表情で、嬉しそうにそれを飲む。その雑音はじゅりじゅりとゼリー飲料を飲むときのそれと似ていて、扇羽は口を押えた。


「どうしたの坊や。気分が悪いの? お腹いっぱいになったから、母様が直してあげましょうね」


 しゅるりと体を動かして、銃夜の体から離れると、扇羽の後ろに回り、彼の頭を撫でた。


「後で母様と残りも食べましょうね。ああいう子は骨が美味しいのよ」


 じゅわりと泡が噴き出して、扇羽の傷が癒えていく。

 女の体が無くなって、顕著になった銃夜の体は、目が見開かれ、虚無を訴える目をしていた。僅かながら、死んでいるのか生きているのかもわからないような、そんな息をうっすらとしているのが、扇羽にはわかった。

 体が癒えて、女の腕から飛び出す扇羽は、その銃夜の体にしがみついた。


 最早、体の何処を治せば、元に戻るかもわからない彼を抱きしめて、叫んだ。

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