貧且
今まで見たことのない情景でも、釣り下がっている女達が、全て死んでいるのだということは理解出来た。ぞくり、ベンチの中で背を冷たい汗が滲む。
釣り下がっていく女達は次々に増え、老若関係無しに、頭を咥えられて、天井へと上がっていく。龍の頭は、人間の頭一つを丁度口に含みやすいような、それくらいの大きさで、それが七つ長い首をそろえて、最後に同体で繋がっていた。
七つの首を持つ龍は、いくつかおり、集団で行動しているように見える。しかし、天井に女を持ち上げるまでに、他の龍が横取りをしようとしていたり、喧嘩を始めて、咆哮を上げたりと、時々、稚拙にも見える行動を取っていた。
ごくりと銃夜は唾を飲む。よく観察を続けていると、多くの女が、上に上がるまでに絶命せず、息をして、もがき、四肢に力を込めて、どうにか脱出しようとしている。そして半分が途中で、諦めたのか死んだのかはわからないが、静かになる。だが、もう半分は上に上がってからももがいて、龍に噛まれている首や胸の辺りを掻き毟っていた。そして、そのまま生きたまま飲み込まれるか、垂れた下半身を他の頭で食い千切られるか、天井に体を何度も叩きつけられて、じっくりと殺されてから食われるか、三様の手法で食われていく。
その光景を見ている中で、銃夜はふと、天井を眺めるのをやめ、床や地面の方を見た。そこには、反吐を散らす学校の制服を着た少年達や、鳴いて母を呼ぶ男の子達など、手をかけられていない、若い男達が阿鼻叫喚の中、必死に喚いている。ざっと見渡しただけでも、その中に、成人している男はない。そして、その中に、扇羽も見えない。
――――早く帰ってきて、扇羽。助けて、晴安。
必死にそう願う。
必死に、自分の方へと歩み寄り、自分に手を差し伸べる、二人を考えた。安部家、樒家。この単語の二つを掲げる者が、自分を助けてくれるのだと、そう、扇羽の残した言葉から考えた。
まだ、自分は世間が狭い。おそらく、扇羽の持つ助け舟は、自分が知るより多い。もしその知らぬ助けが来るならば、その言葉を信じねばならないだろう。
そうやって、時間を潰していた。女の悲鳴、何処かの女が、足から食われたのだろう、必死に、誰かの男の名前を呼んで、反吐を散らす音が聞こえた。
「無視しないでよぉ!! ゲン君! 助けてよぉ!!!」
泣き叫ぶ、彼女はゲン、とずっと泣いて、折れる足の音に負けず、叫び続ける。
「行かないで! お願い! 助けて!!」
目を瞑って、銃夜は断末魔を聞き続ける。きっと、その男は逃げている。ここでは皆、自分が生きることだけを考えているんだろう。
「いだい……いだいよぉ……生贄になんかなりだぐない……」
生死の狭間に身を置いているからだろうか、銃夜には、叫び声ではない、うめき声までが届いている。女は、確かに、生贄と言った。
「恨んでやる……アンタなんか死んじゃえば良いんだ……道連れになれば良いんだ……」
途切れそうな声に、銃夜は目を見開いて、それを見た。既に下腹から崩壊しかけている彼女の体は、音を立てて潰されていく。彼女を食らう龍は、一際大きく、目を細めて、彼女の痛みに耐える顔を楽しんでいるようにも見えた。
ずるりと、彼女の腹の辺りから、何かが漏れ出す。それは床に落ち、キィと鳴いて、蠢いていた。
――――鼠の子?
銃夜にとって、それは以前までよく見ていたものと似ていた。蠢く形は、小さな溝鼠のそれと似通っている。団塊になって、それは動いていた。
「死ね死ね、死ね、呪ってやる。
嫌に饒舌な、死にかけにしては早口な呪詛を吐いて、女は頭を他の龍にブチリと食われ、絶命する。
「……何を喚いてるんだ、あの女」
ふと、そんな少年の声が、目の前から聞こえた。いつの間にいたのだろう。近すぎて、顔までが見えないが、足は、学ランの裾と運動靴で構えられ、中学生か高校生を思わせる。
「お前が大宮銃夜かな」
少年は何もなかったかのように、平然と、膝をついて、ベンチの下を覗き見る。銃夜はそれにびくついて、目を丸くして、出来るだけ体を臨戦態勢に整えた。それを見た少年が、クスリと笑う。
「大丈夫。俺は樒家の方の人間だ。ほら、葛木って居たろ。アイツみたいに、樒家で見習いやってたんだ。扇羽に呼ばれて助けに来た」
白々しさを孕んで、少年は言葉を紡ぐ。少年は金の髪に、青い瞳という、どうも何処か西洋の人形を思わせる印象であった。
「樒家、扇羽」
銃夜は往復するようにその言葉を言葉に出した。本当にそうであるならば、彼は確かに助けの手である。
「ほら、出ておいで銃夜」
差し伸べられた手を、嘘だと思いきれなくて、銃夜は、衝動的にそれを取った。餓えにも似た寂しさが、それで、少しだけ無くなった気もした。
「扇羽と手分けして探してたからさ。まずはアイツと合流しよう」
その言葉を聞いて、心底、体の気が抜けた気がした。どろりと溶けるそれは、屈んでベンチから出る彼を満たす。
「階段の辺りにいるはずだ。一緒に行こう。大丈夫。上の奴は、男を狙わない」
安心しろと、何度も彼は言う。まるで子を眠らせるかのように、彼は言葉を往復した。トロンと、銃夜の思考がまどろみ始める。
――――この人についていけば大丈夫。この人は樒家と言ったし、この人は扇羽のところに俺を連れて行ってくれる。
らしいと、頭の中に、最後の思考を巡らす。感謝の気持ちが強く、銃夜が見る彼には善意のみが流れる。
あぁ、そうだ、そういえば、と、銃夜は歩きながら、鈍く口を開く。
「貴方の名前は?」
フッと、突然、彼は足を止める。まどろむ銃夜は、したがって、立ち尽くした。
「コノエって言うんだ。コノエ、良い名前だろ?」
顔を見ずに、少年、コノエはそう言った。
「うん」
コノエの言葉に、銃夜は従って、こくりと頷く。手が引っ張られて、もう一度歩くのだと思い出して、コノエと共に歩く。既に断末魔は終わり、龍達の食事は終わったらしい。
俯いて歩くと、足元がよくわかった。先程の鼠達が、どう増えたか、縦横無尽に走っていた。
「見ていてお腹が空くだろう。大丈夫。食事も用意してある」
「うん」
また、コノエが言って、銃夜が頷く。ふと、銃夜は鼠を観察して、あることに気づいた。
鼠達は、銃夜の足元を通って、銃夜の後ろに集まっている。勢いよく走って、自分のすぐ後ろで、何かにとびかかっている。
「コノエ、後ろに何かいる」
銃夜はそう言って、コノエを引き留めようとした。だが、コノエはそれを強く引っ張って、変わりない口調で声を張る。
「こういう場所ではな、振り返っちゃいけないんだ。本で読んだことないか? 外に出るまで後ろを振り返ってはいけない。後ろから愛する人の声が聞こえても、それを見てはいけない」
言い聞かせるように、彼は言う。手を、放したくなった。
「離しちゃいけない。扇羽に会えなくなる」
コノエが、そう言って、強く手を握った。
「待って、確認したいんだ」
銃夜がそう言うと、コノエは立ち止まって、何、と呟く。それはどうも無感情で、銃夜のまどろみを解いてしまった。
「名前、そんな記号みたいな名前じゃないだろ。見習いだってなんだって、仕え人だって、人だ。道具じゃない。ちゃんと名前があるはずだ。苗字は何。下の名前は? 全部教えてよ。葛木にだって、ちゃんと名前はあったよ」
はっきりとした意識の中、銃夜は尋ねる。いつの間にか、自分が、赤黒い百貨店の中ではなく、何か、動物の体内のような、肉に覆われた世界にいることに気づいた。鼠の声が、後ろからキィキィと喚いて、酷く耳を侵している。
「……無いんだよ。俺にはまだ、記号しかないんだ」
コノエが静かにそう言う。彼のその声は、何処か悲しみを持ち、訴えている。
「でも今日、貰える。だって、俺は仕事を終えたから。最後の仕事を、終わらせたから。俺は、やっと、心を貰える。人間になれる」
そう言って、コノエが振り返って、銃夜を見た。その表情は、感情を訴え、彼の本心を訴え、叫んでいる。
「生き残ってくれ。銃夜。お前なら生きられる。大丈夫、犠牲になるのは、昨日出会ったばかりの奴だ。そこまで大きな損壊じゃない」
コノエはそう言葉を残して、前へと走り去る。待ってと銃夜が言う前に、彼は霧のように消えていった。
銃夜が立ち尽くすうち、後ろから、一つ、声が聞こえる。
「銃夜! 走れ! 逃げろ!」
その声は、確かに、扇羽その人で、ずっと待っていた人で、銃夜は、言葉に反して、振り返る。
「馬鹿!」
そう叫ぶ扇羽の体には、赤い溝鼠が這い、彼の体の肉を食い荒らし、服を平らげていた。その鼠を彼は剥いでは捨てるが、どんどん増える鼠に、対応しきれていない。生きたまま齧られる激痛に、彼は耐え兼ね、顔を歪ませる。前髪で隠れる目が、歪んでいた。
グルリと、銃夜の腹が鳴って、酷く、鼠の塊になりゆく扇羽が、美味そうに見えて。
その後ろにいた、蛇の目に、二人とも、気づけなかった。
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