寄此

 抱き寄せて、それだけは、幻影だったとしても、偽物だったとしても、放し難いものだった。見ただけでそれが、自己の損失の瞬間を思い起こさせるものだったとしても、ここで誰かに引き剥されても、それが、そこにあるというだけで、自分はそこから離れることが出来ない。


 鼻に蘇るのは、化学的な油の臭い。そして全てが炭に変わる臭い。瞬時に、それが頭の中で再現され、脳を埋める。


「――――銃夜!」


 ふと、蹲る銃夜を諭すように、大きな声が聞こえる。それは、銃夜自身が委ねると決めた声。扇羽の声は体を貫いて、腹に響く。


「誰も火なんて持ってへんし、誰も奪いやしいひん。安心してええ。そらお前のものやで。大丈夫や」


 淡々と、そう言ったのは晴安。それは歌っているようで、慰めているようで、意識の覚醒には充分であった。晴安という大人の大きな手は、銃夜の、まだ骨の浮き上がる体を摩って温めるのに、酷く冷えていて、不十分である。体調でも悪いのかと、ふとそう思ったが、銃夜は黙った。

 黙った口から、何も出なくなって、落とした干し柿の甘味が残る。口から出なくなったものは、彼の眼を塩水で漬けて、溢れた。乾いていた眼球と、上手く出なかった感情というものが、破裂、爆発を極めて、ただ流れている。

 脳の処理が追いつかない。とりあえず、唯一冷静な銃夜の腕だけは、彼の唯一の所有物である本の山を濡らさぬよう、覆っていた。


「大丈夫か? 銃夜?」


 扇羽の困ったような顔が視界の端に見えて、銃夜はその顔とはっきりと目を合わせる。


「銃夜、本が好きなんか? 字ぃ読むんは好きか?」


 独り言のように、晴安が紡ぐ言葉は、宙に浮く。それを聞き取った銃夜は、扇羽と合わせた目を、彼と揃えて晴安に向けた。


「それなら、本棚を増やさんといかんな。平積みにしとったら、銃夜の部屋に誰も入れんようになる」


 口を着物の裾で隠して、晴安は笑った。顔の半分が隠れていようとも、どういう感情を自分に向けているのかはわかっていた。

 何となくだが、銃夜には、ここにいる人間達が、自分に嘘を吐くことも、自分を傷つけようとしているわけでもないと、感じ取れてはいたのだ。ただ、今までに向けられたことも無い感情ばかりで、脳が、その処理をこなせていなかった。


 銃夜はぺたんと尻を着いて、覆いかぶさっていた本から降り、その本の一番上に手を置く。見渡して、敵意の目が無いことを確認した。


「なんや、皆で集まって古い本なんか囲んで」


 その後ろから、晴の陽気な声が高鳴って、全員の注意を向ける。


「龍ノ介も来とったん? ちょっと遅いけどお昼食べてき、お義兄さんもそろそろ帰って来はる頃やろ」


 着物の裾を捲り上げて、胸を張って笑う彼女は、そうやって、手元にあった銃夜の頭を撫でて厨房へと向かう。大人しく子猫のように撫でられていた銃夜に、一瞬だけ驚いた扇羽は、にかっと歯を見せて笑うと、ガシャガシャに銃夜を撫でて、その場から立つ。


「俺も手伝います」


 呆けている銃夜を他所に、軽い足取りで、彼は晴に続いていった。


「……銃夜、一緒に行こか」


 晴安がそう言って、銃夜に手を差し伸べる。それを迷いもせずに、銃夜は手で取った。立ち上がり、ふと、近くに寄っていた葛木を見た。


「何だよ」


 そう吐き捨てた葛木を、銃夜は、ぼーっと見て、首を捻る。

 やはり、何処か、彼は見覚えのある雰囲気をしている。自分に興味すら抱いていないのは、何となくではあるがわかった。開いた口の、人ならざる様な尖った歯を見て、あぁ、アイツと似ているのかもしれないと、一人、完結した。


 庭の見える居間に、全員が揃う。昨晩荒らした部屋は片付いて、既に、人が人らしく食卓を囲む様相になっていた。


「簡単に炒飯にしたいんやけど、それでええ?」


 厨房から顔を出した晴が、そう尋ねると、ええよ、と、晴安が言った。銃夜と葛木は何も言わず、晴安に寄り添っている。箸や布巾を出す扇羽は、何処か浮ついているようにも見える。


 卓袱台の、特にテレビ画面に近かった晴安は、ポチポチと釦を押して、番組を物色していた。今までテレビというものに触れてこなかった銃夜は、興味だけでその傍に寄り、画面に手で触れるなどしていた。

 晴安はその様子を咎めることも無く、自分の見たい番組を探して、ポチ、ポチと、釦を押していく。


「銃夜、すまん、ちょっと右に退いてくれへんか」


 少々、眉間に皺を寄せた晴安が、そう、声を落とす。銃夜は言われた通りに右に寄って、画面の熱を指先で感じる。

 そこに映し出されていたのは、スーツを着た真面目そうな男と、大きな文字列。


『京都府全域で謎の児童失踪事件多発』


 読み方も理解できれば、何を言いたいのかもよくわかる。単純で短いその文で、晴安が不安そうな顔をしたのも、銃夜には理解できた。


『――――二週間で既に一八件報告されており――――』


 画面の中の男は、そう淡々と語る。それを聞いているうちに、香ばしい匂いがぷんとして、銃夜はそちらの方に四つん這いで近寄った。誰も邪魔しなくなった画面に釘付けになって、晴安は深く眉間に皺を寄せる。


「ただいま戻った!」


 と、突然に、玄関の方からガラリと音がして、集中が切られた。晴安には聞き覚えのある声で、それが、酷く安心をぶつける。


 晴安はスッと立って、厨房を離れられない晴に代わって玄関へと歩く。それに、銃夜と葛木がぴったりと着いて行った。


「おかえり義兄さん。無事で良かったで、晴嵐せいらん


 その玄関にいたのは、晴朝と、もう一人の少年であった。彼は何処となく晴に似ていて、妙な覇気を持ち、銃夜には何となく近寄り辛く感じる。


「上がりや。お腹空いたやろ」


 身内なのだろう、晴嵐と呼ばれていた少年はそれを聞いてすぐに、居間に向かう。その時、うっすらと銃夜を見ていた。


「銃夜も龍ノ介も食べえ」


 そう言って晴安が銃夜達の背を突く。それに促されて、銃夜は晴嵐の後ろに着いた。晴嵐は奇妙な黒い箱のような鞄を背負っていて、それが甲虫のようにてらめき、銃夜の興味をそそった。はて、それが、自分の本来の家の、誰かが背負っていたのを思い出して、銃夜は恐る恐る突く。


「何だよ」


 少年は感覚があったのか、それとも気配で気づいたのか、背負った箱を突いてすぐに、銃夜を睨む。それが一種、敵意の様な、探るような目であって、銃夜は身震した。


「晴嵐、そう睨んだらあかん。この子は大宮銃夜。昨日からここで預かっとるんや」


 晴安はそう言って、二人の間に顔を寄せる。


「銃夜、こいつは安倍あべの晴嵐せいらん。二人とも歳も近いんやし、ここに居る間、一緒に遊んだってや」


 そう言われた銃夜は、目を合わせて、晴嵐にぺこりと頭を下げる。本で読んだお辞儀というやつだが、どうやら合っていたようで、晴嵐も同じく頭を下げた。


「晴嵐、ランドセル置いて、ご飯食べえ。学校からここにじゃ、遠かったやろ」


 厨房から出た晴が、晴嵐にそう言って呼ぶ。それに着いて、銃夜も卓袱台に向かった。台の上に置かれたのは、金色の米粒たちで、昨日、銃夜が食べた粥というものよりも、腹が膨れそうであった。昨晩教えられた匙と共に、その炒飯が自分用に置かれ、銃夜は正座で食っていいと言われるのを待つ。


「銃夜、おかわりあるから、いっぱい食べて良いぞ」


 隣に座った扇羽が、銃夜にそう言う。それが合図だと思って、銃夜は匙でそれを頬張る。もう一方の隣に座った晴嵐は、銃夜を見て、不思議そうな表情をすると、ランドセルを後ろに置き、座る前に、厨房に向かう。


 所有者の離れたランドセルというものに、銃夜は、興味という感情があふれて、その金具や帯に触れて見たくて、堪らなかった。

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