何事
「ええか、大丈夫や、大丈夫やから」
晴安は思う。何故自分は、妙にすばしっこい、栄養失調の子供に、ぎこちない笑みを浮かべながら迫っているのだと。自分が声をかけるほどに、少年、銃夜は、奥へと行ってしまう。
血だらけになって、その小さな体を震わせていた彼は、騒ぎを聞きつけ戻ってきた野菊や晴朝達を見て、一瞬呆然としていた。しかし、驚いた猫の如く、そのまま大人達の隙間をぬって駆け出し、庭の方に飛び出すと、するりと体を翻して、床下へと潜り込んでしまい、今に至る。
晴安は床に頬をつけて、銃夜の光る赤い瞳に合わせようとするが、それはじりじりと遠ざかっていく。
「大丈夫やからおいで。ご飯一緒に食べよ、な、おいで」
銃夜がふるふると細かく、震えているのがよくわかる。こちらの言葉がわかっているのかは、最早わからないが、相当に怯えていることだけは分かった。
ぼろきれでしかない彼の服の擦り切れた破片が、地面に点々と落ちていて、粉になりかけている。それが共に銃夜を見つめている野菊の顔にこびりついていた。
「……晴安。そのままあいつを奥にやれ。追い詰めろ」
晴安の後ろで、晴朝が出来るだけ後ろは見せないように、と付け足して、何処かへ駆けていた。可哀想だが、と、晴安は言われた通りに、銃夜が更に奥に行くように、自分も床下に入っていく。
「なあ、おいでー、大丈夫やからね。美味しいもん食べて、お風呂入って綺麗にして、温かくして寝ようなー」
半分は自分がしたいことを漏らしているだけだが、事実、酷い事をしたいわけでもない。こんな冷たく暗い場所に放置する方が、よっぽど酷いだろう。点々と血液が垂れた地面を見て、まだ刺さったままである針の、刺さっている深さを考えてしまった。元々、体液の量は足りていなさそうであった彼が、これ以上それを流すのが、恐ろしくてたまらない。
自分の体がすっぽりと床下に入った辺りで、銃夜の後ろからうっすらと赤い光が見える。それは夕焼けの温度。成程、このまま周りの見えていない彼が後ずされば、外に出てくれるかもしれないと、一瞬の期待を持って、晴安は銃夜ににじり寄る。
「大丈夫やでー、おいでー」
こちらに来てくれても十分にそれは良い結果である。上ずってしまう声を抑えて、晴安は銃夜に声をかけ続けた。
ふと、ちろちろと何か小動物が走る音が聞こえた。長細い尻尾を垂らして、それは晴安と銃夜の間を走り去る。
――――ネズミ?
まるまると太ったドブネズミが、目の前を駆けて行った。そのネズミに目を奪われている一瞬。ネズミが、ギッと鳴いて、姿を消した。
ネズミを掴んで、体躯に似合わぬ握力で一瞬のうちに仕留めたのは、紛れもなく、目の前で今まで怯えていた銃夜である。小さな肉を見るその目は、怯えた子猫ではなく、正に、鼠を食らう蛇のそれである。慣れた手つきで、銃夜はそれを口元に持って、肉を引きちぎる音を立てる。
「アカン! そないなもん食ったらアカン!」
半分を飲み込んだ所で、銃夜は晴安の声に硬直した。目を丸くし、再び子猫の如く怯え切った表情になったのを確認して、晴安は自分の口を手で押さえる。
ガンっと音がして、銃夜の姿が消える。横に切る風を感じ、どうにかして後ろに下がろうとするが、大人である晴安では、上手く方向の切り替えが出来ない。
「野菊はん! 銃夜が逃げる!」
「もう逃げてるよ馬鹿!」
晴安の言葉を殆ど無視して、野菊が何処かに走る音が聞こえた。未だ銃夜の腕からは血が噴き出ていたのだろう、顔にぬるりと暖かな、鉄臭い何かがパタパタとかかっていたことに気づく。
ずるりと、誰かに足を引っ張られて、やっとのことで晴安は外の空気を吸う。土埃やらで咳込んでいると、自分を引っ張り出した本人である晴が、酷く困ったような顔をしていた。
既に銃夜とそれを追ったらしい野菊は消えている。
「二人ともどこ行った?」
晴安が晴に尋ねると、こっちだと言うように、彼女は玄関の門の方を指さした。
「すぐ戻る」
晴にそう一言置いて、晴安もまた、家の庭を飛び出して、敷地の外に駆け出して行った。
道路を走り行く大小さまざまな車両を、銃夜はその瞳に写す。初めて見たものばかりで、頭の処理が追い付かない。
――――何で食事をしただけで怒られたんだろう。何であの人たちは俺に近寄るんだろう。何で俺を騙そうとするんだろう。
なんで、という言葉を、何度も銃夜は反芻した。周囲の目が恐ろしくて、建物の間に身を顰める。チュウ、と、近くでネズミの鳴き声がして、パッと手で取り貪りついた。日陰の中であれば、表を歩く、身なりの良い人間達は、誰もこちらを見はしない。
「つつや! つつや!」
あの女の声が聞こえた。暗い中で、金の瞳をぎらつかせていた女の声だ。
――――俺を呼んでいる?
銃夜には、自分が銃夜であることが理解できていない。自分の名を、文字でしか知らない。
いくらか腹を満たして、何となく上った血を治めると、表の様子を見る。焦ったような表情で、辺りを見渡す白衣の女が見えた。ハッとして、もう一度、裏に戻る。痛んでいた左腕の針を、ぶちりと抜いて、その場に落とす。
頭がくらくらして、ふらふらして、胸がムカついた。久々に固形物を食べたからかもしれない。飢餓状態の人間が、急に固形物を食べると、最悪死ぬと、本で読んだ覚えがある。
――――死ぬ? 死ぬならいい。凄く楽だ。
ひんやりとした、硬い土壁とも違う壁に、体をこすりつけながら進んでいく。体についていた色々な汚れが、壁についていく。
――――眠い。凄く眠い。寝たい。寒い。寒い。寒い。
悪寒に近い寒気が、体に走った。夕焼けが焼き切れて、夜に向かう。暗く、寒さが際立って、足も動かなくなっていた。息が早くて苦しい。心臓も冷めている。自分の影と、建物の影が曖昧で、自分も夜に溶けていく気がした。
銃夜が蹲っていると、ジャリジャリと、一定のリズムを刻む音がする。辛うじてわかるのは、それが足音で、自分に近づきつつあることである。
「 」
動けない視界が、その近づく者の口を映した。それは着き始めた街頭に反射する、艶のある赤い髪、隠れそうで隠れない右目と、隠れ過ぎている左目を持つ。それは少年で、若干の驚きを含みつつ、こちらに何かを語りかけていく。
「 !」
頭が痛くて、少年の言葉には何も意味を取れなかったが、半分、心配だけはしているのだと理解した。嫌に体が重くて、少年に言葉も行動も返せない。
横たわる自分に覆いかぶさる形で、少年は接近した。顔が近く、夜風で隠れている方の目が見える。
――――二つ?
少年の瞳は、一つの目に、二つある。焦点を合わせられないそれに、銃夜は見入る。近くで見ればわかる。彼の瞳の色は、金。あの女と似た色だが、どうも、彼のそれは、妙な心地よさを感じた。重複した瞳に、自分の語彙では耐えられないほどの美しさを見て、銃夜は瞼を閉じた。目の前が完全に闇になって、感触で、自分が誰かに抱えられて、何処かに連れていかれることだけ理解できた。
――――どうせ死ぬならば、これも運だ。こいつに俺を任せよう。
銃夜は自分を投げ捨てて、意識を少年に預ける。
おーいおーいと、背広着る一般人たちの間を、声を上げて探す。襤褸切れ布の少年は、こんな場所にいれば、何をされるかもわからない。
「晴安! 見つけたか!」
野菊が、地の男らしさを滲み出させて、晴安に駆けよった。色々な場所を探したのだろう、白衣の裾が黒くなって、本来の性能を失っている。
「まだや。見つからん」
裏路地を探しても、どうにも銃夜を見つけることが出来ない。野菊の連絡で、近くにいた樒家全員にも探してもらっているが、誰も銃夜少年を見つけていない。銃夜に刺さっていた針と、銃夜が擦り付けたのだと思うような跡は見つけたが、そこから、誰かが連れ去ったような跡も見受けられた。
「救急車や騒ぎの気配もしない。なら、連れて行ったのは犯罪者か、それともこっちの世界の住人かだ。どっちにしろ拙い」
野菊が眉間に皺を寄せて、周囲を睨む。
ふと、プルプルと、晴安の懐から、携帯の鳴る音がした。画面にあるのは、自宅の固定電話の番号であった。携帯の通話ボタンを押して、それを耳にあてがう。
「どないした」
晴安が尋ねると、晴の声が、困惑を飲んで聞こえた。
『貴方、貴方、銃夜君が』
途切れ途切れに、晴は晴安に言葉を紡ぐ。
『さっきな、銃夜君連れて、扇羽君が家に来とんねん。そんでな、今な、扇羽君が買って来たコンビニのお粥な、一緒に食べ始めたわ』
電話より向こうの、何が起きているのかよくわからない状況を、晴安は上を向いて飲み込んで、野菊と顔を合わせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます