29 とんだ不思議な現実

 慌てて地下室に舞い戻るヒュー。老人は全て分かっていたかのように、ニヤついた笑顔のまま微動だにしていない。“こいつに興味を引かれない人間なんているはずが無い”という自信が、余裕と共に現れていた。

 ”彼”は口からカオスを垂れ流すのを一旦やめて、丸い瞳でじっと客人を見つめており、対象的にヒューは今までに無いほどの鋭い目つきで、”彼”を睨み返しているのだった。


「お前は一体、何者なんだ!? 俺を……本当の俺を知っているのか!?」


 ヒューの荒々しい声が地下室に響き渡る。残響はゆっくりと沈黙に飲み込まれ、答えは返ってこない。


「いやいや……お客さん。こいつは何も知らんよ」


 代わりに答えたのは、店主だった。


「何も知らないが、何でも見える。こいつは我々を噛み砕き、溶かし、そしてクソのように垂れ流すだけの男だ」


 ヒューは困惑した。彼はこの地下室に入ってから、ずっと困惑し続けていた。


「何でも見える……確かに見えているらしい。予想でも占いでも無い。俺にしか知らない事を……絶対に俺しか知らない事をこいつは知っていた。

 こいつは俺の心が読めるのか?」


 店主は首を横に振る。


「マナだよ。マナが読める。だから“彼”の言ったことはお前そのものだ。文脈がグチャグチャで、何を言ってるのかさっぱり分からんが……まあ、失敗作は失敗作なりに楽しむ事が出来るんってもんだ。あのクララは特に、自分で本に書き写してまで……」


「失敗作?」


 見逃せない言葉に興味を奪われ、ヒューは店主の言葉を遮った。


「こいつは誰かに作られたのか?」


 店主は、ひひひ、と下卑た笑いを浮かべ、首を縦に振った。


「ひひ。こんなものを作れるのは人智を超えた力を持つ存在……魔族だけだ」


 ヒューの視線は“彼”に向けられる。


「魔族? 悪魔が作ったのか?」


 またも、ひひひ、という笑い声が老人の口から漏れ出た。この笑い声が地下室に響くと、ヒューは酷くイライラした。


「……ひひ、ひ、ひひひ……」


「答えろ! 何の為にこんな物を? お前はその悪魔に会ったことがあるのか!?」


 店主はしばらく何事かを思案すると、ヒューから目を逸らして、くすり、と小さく笑った。そしてじわじわと染み渡るように下卑た笑顔が彼の表情を染めていき、次の瞬間には一際大きな声で笑うのだった。


「ひゃーっひゃっひゃっ!」


 それこそ悪魔のような哄笑に、ヒューは思わず顔を顰める。堪らない程の不快感を彼は感じたのだった。


「お前さん、えらく信じやすいんだな! 嘘だよ、嘘。こいつはただの狂人だ。わしがあんたをからかっただけだ。魔族なんて本気で信じたのか? 馬鹿なやつ!」


 しかし、ヒューは――“タナカヤスタカ”は、微塵もそう思わなかった。


「話を逸らさないで欲しい。その魔族とやらは、いま何処に?」


 店主の顔色が少し変わった。


「だから、嘘だと言っているだろう」


 ヒューは一歩も譲らない。


「いや、そいつの能力は本物だ。ただの狂人なんかじゃない。居るんだろ? その魔族ってのも。そいつは他に何を作ってるんだ?」


「しつこいぞ。死にたいのか、貴様?」


 真剣味を帯びた老人の脅しに、ヒューはほんの少し驚いたフリをした。


「死ぬ? 俺は殺されるのか? 誰に? あんたに?」


 ヒューが剣を抜くと、乾いた金属音が地下に響く。

 切っ先を向けられた店主はその場で尻餅をつき、慌てて首を横に振るのだった。


「ち、違う! わしじゃなくて……」


 老人の狼狽に対し、皮肉っぽく笑うヒュー。


「あんたじゃないのか。だったら、誰が俺を殺すんだ? やっぱりその“魔族”とやらじゃないのか?」


 ヒューの誘導尋問に、店主は思わず口を滑らせた。魔族かどうかはともかく、第三者の存在がある事を認める形になってしまった。

 ひょっとしてクララだろうか? と、彼は考えた。“彼”はクララの秘密の趣味として、ここで飼われているのだろうか。可能性はある。確かに彼女には、どこか得体の知れないところがある。

 だが……とヒューは思い直した。ここは素直に、その魔族とやらが存在する可能性も考慮すべきだろう。暇を持て余した店主が、『こんな与太話を信じるはずが無い』とうっかり口を滑らせた可能性は、十分にあり得る。


(……魔族。魔族か。人と相容れない亜人の総称と聞いた事はあるが……どの文献にもどういう種族かは書かれていなかった。あるいはそれは人種では無く、一種のレッテルの様なものなのかも知れない。

 今でも“魔族らしき”敵を相手取り、王国が戦争を起こしている。それは伝説がプロパガンダとして利用されているだけだろう。侵略や民族浄化の建前ってやつだ。穢れた脅威。強大な悪。魔族に対する恐怖心は、人民を扇動するのに便利だし、安上がりだ。少なくとも、この世界ではそうらしい。

 そして、それを逆に利用することも出来る。『俺は魔族だ』と嘯き、相手を畏怖させるバターン。例えばこの店主なんかは、逆らえないどころか、魔族と繋がりがあるという事を誉れにすら感じている。貴族や王族と知り合う人間が、自己顕示欲を満たす為にそれを言いふらすのと同じく、孤独で矮小な老人は魔族を自分のステータスと思い込み……だからついつい、俺に言いたくなってしまったんだな)


「も、もう帰ってくれないか?」


 気がつけば、不遜だった店主の態度はすっかり萎縮していた。ヒューは考えるのをやめ、彼の方を見る。


「帰るよ。一つだけ教えてくれればな。魔族ってのはまさか……クララじゃないよな?」


「あんな変態娘では無い! というか、魔族なんぞおらん!」


 あっそ。と、ヒューは思った。それだけ知れれば、彼は良かった。


(クララじゃないのか。彼女に対して油断は出来ないが……とりあえず、その魔族とやらでは無いらしい。となれば、“彼”を作った魔族は……まあ正直、知ったこっちゃないんだよな。直接クララと繋がっていないのなら、ひとまず俺には無関係だ。多分。

 関係あるとすれば、そいつが禁書に精通している奴かどうか……俺が元の世界に帰る為に必要な知識を持っている可能性があるって事ぐらいかな。

 元の世界への帰還は、全てが終わってからの次の目標になるかも知れない。今はとてもそんな状況じゃないし、マリンカの復讐にピリオドが打たれるところを見なければならない。あいつとは“契約”してるし。そもそも……)


 おらんぞ、魔族など! という店主の念押しを無視して、ヒューは踵を返し、難しい顔のまま階段を登り始めた。


(そもそも、俺は元の世界に帰りたいのか?

 ……俺はどんな世界に元々居たんだっけ。どんな人達と一緒に過ごして、どんな人生を送って、どこまでやれていた?

 夢は叶ったか? 守るべき大事な何かを持っていたか? 何かの才能があったか? 命をかけて戦う理由や目的はあったか?)


 地下からの階段は、ランタンの灯り無しではほとんど何も見えなかった。手を前にかざして、壁にぶつからないよう、慎重に階段を登り始める。手探りで、足元を踏み外さないように、ゆっくりと、確からしく。


(……いや、無かった。はっきり言って、“タナカヤスタカ”には、何も無かった。居なくなったら居なくなったで、世界には何も起きない。どうとでもなる人間だった。友達らしい友達はいないし、家族だってバラバラ。俺が居なくなっても、きっと靴下が片方無くなったとか、掴んだ豆が床に転がったとか、その程度の感傷しか他人に与えないだろう。

 残念だけど、それが真実だ。もちろん、ヒューラン・レンブラントだって、取るに足らない人間だ。でも、それが今の俺だ。俺は今ヒューランとしてこの世界に転生し、マリンカと一緒に彼女の執念を成し遂げようとしている。不思議な現実だが、やっぱりそれが現実なんだ)


 地下室を登り切ると、ようやく視界にほんのりとした光が差した。日の光が店の入り口の形に切り取られながら、彼の進むべき場所を示していた。


(……タナカヤスタカが今何をしているのか、俺には知りようが無い。もうそいつは俺じゃないし、トラックに撥ねられてあのまま死んでいるかも。

 つまるところ初対面の時、マリンカがしつこくしつこく言い続けた通り、俺はヒュー以外の何者でも無いんだ。

 マリンカは契約として俺を拾ったが……今でこそ思うのは、マリンカの奴は俺に同情してあの契約を提案したんじゃないのか? もちろん、あいつにそう訊けば『寝言は寝て言えでありんす』と一蹴されるに違いないけど……俺なんかを雇った為に、彼女はどれだけの不利益と危険を被ったか。そして、それは十分に予想できていたはずだ。

 彼女の思考は完全に商売人のそれだ。ローリスク・ハイリターン。じゃなきゃせめて、ハイリスク・ハイリターン。俺にどの程度のリターンがあった?

 商売人のロジックに反して、彼女自身が矛盾した選択を取る事を、俺はもう少し高く評価してやっても良いのかもしれない。

 ……いや、それは傲慢だな。俺が彼女にするのは、感謝だ。そして、少しでも“リターン”するのが、俺の義務だ)


 店から出ると、急激な日差しが彼の瞳を痛めた。しばらく目を細めながら徐々に光に慣らしていき、やがて見慣れた通りが彼の視界に現れる。


(……帰ろう)


 彼は思った。彼が帰るべき場所は、一軒家でもアパートでも団地でも無く、異世界で亜人と借りている安宿屋だった。



 失った右手を止血し、痛み止めのポーションを服用させると、パッチマンはようやく落ち着きを見せた。

 彼に対して処置を施したのはマーシャで、彼女の処置を見ていたチルシィ副団長は一言『それでいい』と言った。人命救助や応急処置は騎士の訓練校で最初に習う大事な授業の一つで、マーシャは剣を振り回すよりこちらの方が得意だった。ジキタリスはまだ失神していた。

 チルシィはポーションの空き瓶を手に取り、ぼんやりと眺めながら、誰にともなく口を開く。


「『鎮痛ポーションは麻薬の一種』という理由で、教会は騎士達の鎮痛ポーションの携行を禁止させようとしている。

 でも、例えば……“切断された腕を止血する”という想像を絶する苦痛が、命を投げ捨てるまでに耐え難いものであるのならば、教会の律法は人命すら奪いかねないワケだ。

 実際、十分に起こり得る話だ。鎮痛ポーションなんて買えないその日暮らしの傭兵達が、苦痛から逃れる為に止血帯を解き、傷口から自身の命を垂れ流す……そんな話を聞いた事がある。そもそも、痛みによるショック死だって。

 人命よりも大事な律法が存在している。それは人間全ての利益と不利益の計算の結果、少数だから諦めるべきものだと断ぜられ、切り捨てられてしまう命があるという事。何ともまあ、不思議な現実だな」


 マリンカは包帯で縛った自身の傷を撫でながら、ちらり、と副団長の方を見ると、彼女の問いかけに対する答えを口にした。


「騎士様が自死を選びますかね?」


 マリンカの言葉に、マーシャとチルシィが振り向く。


「雑把な傭兵たちならともかく、高潔な騎士様が、痛みに負けて自ら命を断つわけが無いでありんしょ? 国を捨て、民を捨て、誰が彼らを守るでありんすか?」


「私達だって人間です!」


 チルシィの代わりに答えたのは、マーシャだった。眼鏡の奥の瞳は半ば呆れがちだ。


「私達……って事は、おっと。お二人は騎士様でありんしたか」


 マリンカはわざと驚いて、そう言った。もちろん彼女は二人の正体を知っていたが、たまたま居合わせた不運な被害者を装うため、知らなかったフリをした。


「知らなかったもんで、失礼をば。へへ……。

 ていうかそこの顔色の悪い人は、先日処刑されたはずのチルシィ副団長殿では? どうしてこんなところに? あの世はお気に召しませんでしたか?」


「なっ……!?」


 マリンカの言葉に、マーシャはたちまち激怒した。マーシャは差別主義者では無かったが、ある種の社会通念が彼女の憤怒を掻き立てたのだった。『ピピット族が純血人に対して、それもチルシィ副団長に対して無礼に振舞っている』という事実は、彼女の倫理観や意思に反して、もっと根深いレベルでの反感を抱かせた。言わばそれは、体に刻み込まれた拒絶感。

 しかし、そうじゃない人間もいる。チルシィ副団長はそう思わなかった。マーシャが何かを言いかけようとした途端、まるでそれを妨げるように、チルシィは小さく笑った。


「あなたの言う通りだ、ピピット族の人。騎士は国王の許可なく自ら命を断ってはいけない。そして私は騎士でも無ければ人間でも無い……ただの死体だ。どうしてまだこの世を彷徨いているかは聞かないでくれ。

 少なくとも、こんな“生き損ない”が人の生死を論ずるべきではなかったな。私はただ、家族たる騎士団の皆が一人でも私のところに来ないように願いたかったんだ。マーシャや、ジキタリス、クロエのような若い子らが」


 チルシィの言葉に、マーシャは悲しくなった。チルシィを生ける屍に変えた張本人として、そんな優しい言葉をかけられる筋合いは無く、彼女は罪悪感に駆られた。

 チルシィは部屋の隅に転がるクロエの生首に、そっとハンカチを被せる。そして凍りつくような目で倒れこむポポーニャを睨みつけると、小さく首を横に振るのだった。


「死んだ騎士様。心中察するところでありまするが、もう一つ言わせて下さいでありんす」


 と、マリンカは口を開く。


「止血帯を緩めて死んだ傭兵たちは、本当に痛みに耐えられなかったから死んだと思うでありんすか?

 あっしの知り合いにも一人いた。腕の立つソードマンだったけど、不覚をとって自分の片腕を失ったでありんす。ベッドの上で『もうこの仕事じゃ飯が食えん』と自虐的に笑っていたでありんすけど……彼は心の底から絶望していた。

 絶望した人間の心の痛みを鎮痛ボーションで抑えることは? 出来るでありんす。出来るでありんすが、許されてはいない。それこそ“麻薬”としての使用でありんすからな。命も金も高く付く片道切符。あいにく彼の財布は空っぽでありんしたが……。

 誰にも嘆かれる事無く、誉れを残すこと無く、程なくして彼は自らの手であの世に行きやした」


 チルシィとマーシャは、マリンカの話をじっと聞いていた。マーシャはまだ少しマリンカにムカついていたが、マリンカの言葉は彼女の興味を引いていた。


「同情したいとか、不公平だとか言いたい訳じゃ無いでありんすよ。人は世界について、自分の目線の高さでしか語れないって事でありんす。

 教会はあんたら騎士の目線を知らない。騎士は傭兵達の目線を知らない。逆だってそう。結局人は、他人の事なんて知ったこっちゃない。だから揉め事は永遠に無くならない。

 ……純血人あんたらは、あっしらピピット族の目線も知らんでしょう? なにせあっしらは、あんたらに比べて随分と身長が低いでありんすからなぁ」


 自嘲的に笑うマリンカに、マーシャは何とも言えない表情を浮かべるのだった。

 チルシィはマリンカに口を開く。


「謙遜だな。君は私より随分と高い目線で物事を見ているようだ。

 火種を作ってしまったのは私だが、残念ながら私には主張すべき意見も、立派な思想も、何も無いよ。“死人に口無し”だ」


「その定説はもう崩れやした」


 マリンカの冗談に、口数の多い死人は気の抜けた笑い声を上げた。


「はは……そうだな。とにかく、この話は一旦置いておいて、このパッチマンとやらの話を聞かないか?」


 じろり、と三人の視線がパッチマンに向けられる。

 彼の顔色は悪かった。大量の血を失ったせいか、はたまた有利な立場を失ったせいか。


「おっと、そうでありんした。あっしも別にあんたが憎くて言ったわけじゃない。スレた人生に、この口が毒を吐くことに慣れすぎたってだけで。ご容赦下され。

 じゃ、次の議題は『このツギハギ野郎は生きるべきか、死ぬべきか』って事で」


 マリンカはそう言うと、キョロキョロと辺りを見回した。“ある物”を発見すると、そそくさとそちらに歩み寄る。

 パッチマンは完全に威勢を失い、眼の前の女性たちのなすがままだった。


「君らに人の生き死にを決める権利があるのか?」


 パッチマンの精一杯の抵抗に、マリンカはにっこりと笑みを浮かべる。

 そして拾い上げる未知の世界の武器。


「減らず口を叩くんなら、あんたでもう一度立証し直しても良いでありんすよ。”死人に口無し”を」


 マリンカは拳銃をパッチマンに突きつけ、そう冷たく言い放つのだった。

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