28 とんだ詩人
ヒューは古書店に訪れた。
店内は不気味なほど薄暗く、玄関から差し込む太陽だけが光源となっている。窓は完全に閉めきられており、店の奥は重い闇に支配されている。不快感を煽る、無数の埃とカビの臭い。全ては彼の入店を拒んでいるかのようだった。
古書店は以前、クララの調査の際に訪れた時から何ら変わりは無く、彼が二の足を踏む理由は無い。無い筈なのだが、ヒューは前にも増して店に入る事を躊躇していた。それは店構えでは無く、クララがここで購入したであろう書物の、あまりに禍々しいタイトルのせいに他ならない。
とは言え、引き返す事なんて出来やしない。クララの真意を確かめるには、この調査が必要不可欠だった。彼女の闇に足を踏み入れ、それがヒューにとって問題か、そうでは無いのか、確認する必要がある。
ヒューは軒先で考えながら、一度だけ大きくため息をついた。
(なにをやってるんだろう、俺は……)
自嘲気味に笑い、店への一歩を踏み出す。みしり、と床の軋む音。暗闇に潜む店主がほんの少し顔を上げた。手に持つパイプを吸い込むと、火種がホタルのように光り、彼の顔を照らし出す。年老いた顔に刻まれた深い皺には、彼の長い(それもあまり恵まれなかった)人生を物語る、ありありとした猜疑心が刻み込まれていた。
ヒューはゆっくりと店の奥に進み、勿体ぶった動きでカウンターに両手をついた。そして余裕を見せるように、ふう、と一息吐き、慎重に言葉を紡ぎ始める。
「……探している本があるんだが」
驚くほど小さい声。不安げな声色を怪しんだ店主は、露骨に眉を顰め、無言のままじっと相手の顔を見る。
「あまり声を大に出来ない本なんだ」
慌てて出るのは、言い訳めいた言葉。しかし、老人が訝しんでいるのはその事ではなかった。
「あんた、前にウチに来たことがあるな」
彼はヒューを覚えていた。
「クララ・アンスラサイトさんの買って行った本について訊ねたヤツだろう。前にも言ったとおり、個人的な情報は売れん。帰ってくれ」
今となってはそれが本当の理由でない事は、ヒューにも分かっていた。発禁書の存在を秘密にしたい店主の建前だ。
が、ヒューはその事を正面切って聞くことはしなかった。
「違う。今日はそのクララに直接聞いて、ここに来たんだよ」
彼は嘘をついた。例の本について知ったのは、本当は盗み見ただけ……いや、たまたま視界に入っただけだ。しかし、偶然目にして興味本位でやって来た人間と、“そっち側”であろうクララに認可を得た人間とでは相手の心象も違う。
もちろん、その程度の言葉で店主もヒューを信用しようとはしない。高まる猜疑心に、彼の皺はより一層深くなる。
「聞いたって、何を」
店主の質問に、ヒューはもう一度唾を飲み込む。
本当は口にするのも憚られるのだが、と彼は思った。
「……傭兵おじさん……」
更に小さくなるヒューの声。店主は『は?』と思わず聞き返す。
「……『傭兵おじさんの人糞シチュー』は、置いてあるか?」
「なに!?」
初めて狼狽を見せる店主。視線を泳がせ、何事かを逡巡すると、思い出したように慌ててパイプを咥え込む。煙を吸い込み、吐き出し、また吸い込み、吐き出し……あれこれ纏らない考えを、必死に誤魔化そうとしているのだった。ありありと見て取れる、信用と不信のせめぎ合い。やがて一通り彼の中で考えが纏まると、最後にちらりとヒューの顔を盗み見た。彼は引き攣った笑みを浮かべて、ヒューに心を許すのだった。
「へっ、へへ……クソまみれの獣に会いたいのか?」
会いたいワケねえだろ、と思いつつも、ヒューは『まあな』とだけ答える。
(……“クソまみれの獣”?)
店主はニヤついたまま、パイプをカウンターの上に置くと、キョロキョロと店の外を確かめた。足が不自由なのか、ぎこちない動きで立ち上がり、すぐそばに掛けてあるランタンを引っ掴む。
「火はあるか?」
店主の言葉に、ヒューはマッチを一本取り出した。発火性のポーションが塗られた木の枝で、彼の世界のマッチと基本的な使い方は変わらない。
彼はマッチを衣服に擦りつけ、火をつけると、ランタンの下部にある隙間からそれを差し込み、灯りを灯した。
俄に照らされる店内、そして店主の顔。ニヤけ顔から覗く歯はボロボロで、皮膚には斑模様のようなシミが幾つもあった。不意にあらわになった醜い形相に、ヒューは思わず目を逸らした。彼がこの世界で出会った人間の中でも、この老人は最も醜悪で下品な見てくれだった。
店主は二、三歩店の奥に進むと、ポケットから鍵の束を取り出す。ランタンで取っ手を照らしながら、慣れた手つきで解錠すると、ドアは軋んだ音を立てて開いた。
にわかに漂う、得も知れぬ異臭。こみ上げる胃液に、ヒューは思わず口元を抑えた。ドアの向こうは人一人がやっと入れるようなスペースで、地下に続く階段が伸びている。
「ついて来な」
店主はそう言うと、杖を付き、びっこを引きながら、よろよろと階段を降りて行った。
ヒューはまたも躊躇った。鼻を付くような酸味混じりの異臭は、動物の腐敗臭によく似ていた。尋常では無い何かがこの下にあるのだろう。異臭は彼の恐怖心を鷲掴みにし、ぎゅっと離さない。彼はハンカチを口元に当てながら、ゆっくりと店主の後をついて行くのだった。
地下への階段は石張りで、とても狭い。まるでダンジョンRPGのようだ、とヒューは思った。進めば進むほど外界の音はどんどん聞こえなくなり、代わりにランタンの光を圧し潰そうとする深い闇と、次第に強まる異臭がなお一層彼を辛くさせた。
階段が終わると店主はゆっくりとヒューに向き直り、じろじろと彼の全身を舐め回すように眺め始めた。にやり、とまた嫌らしい笑みを浮かべ、目の前のドアを開け、地下室へと入って行く。地下室にはドアの軋みの反響音が大げさに響いていた。
……面倒が起きそうならすぐに逃げ帰ろう。ヒューはそう自分に言い聞かせ、半ばヤケクソになりながら部屋に足を踏み入れる。
壁にかけられたランタンの光が、ゆらゆらと空間を照らしている。地下室には椅子、机、トイレと必要最低限のものしか無く、まるで地下牢のようだったが、それにしては妙にだだっ広い。そして何より、部屋の中央にある“光沢を放つ何か”が、強烈な異物感を放っていた。
薄暗い空間にじっと目を凝らすヒュー。やがて光沢が静かに上下している事に気づくと、すぐさまその正体を理解した。
……人だった。小柄で、若く、痩せた男の裸体だ。丸く蹲り、汗に濡れた背中が光っていたのだ
ヒューは思わずその場に立ちすくんだ。この場所も、蹲った人物も、恐らくは“そいつ”が放っているであろう臭気も、彼の理解をとっくに超えている。正気を保って事態を判断する事は不可能だった。
「あ……あれは……誰?」
ヒューが訊ねると、店主は興奮気味に彼を見た。
「お前が会いたかった奴だよ。混沌の王、純真なる臓物、神の排泄物……“彼”が誰かは、お前自身の中にある。お前が誰なのかは、“彼”が知っている」
店主の言葉は、質問の答えとしてはあまりに意味不明だった。ヒューは一刻も早くここから立ち去りたい。しかし、不自然にならないよう、訊ねた者の責任を最低限果たすため、彼はこの場に居続ける他無い。――何か問題を起こして、うっかりクララの耳に入ってしまえば、きっと週末の晩餐会は酷いことになるだろう。藪の中の蛇を招くだけ招いて噛みつかれただけなんて事は、あまりに馬鹿げているし、なんとしてでも避けたい。
「その……」
ヒューは慎重に口を開いた。
「ここで何をしているんだ? ここに閉じ込められているのか? この人は」
聞き慣れない人間の声に、“彼”はまるでスローモーションの映像のようにゆっくりと頭を上げる。ヒューの心臓が、胸を突き破りそうなほど高鳴った。
焦点が合わない視線。何とも形容しがたい顔。若くも無く、年老いても無く、男らしくも無く、女々しくも無く……あるいは、それら全てがごちゃまぜになり、統一感が失われている。
ふいに、ぐい、と腕を掴まれ、ヒューは大きく息を飲んだ。老人と思えない力で、店主がヒューの腕を握りしめていたのだ。それは何かを意図しての事ではなく、ただただ彼の興奮によるものらしい。
「耳を澄ませ、クソの迷い子。破界の詩人に耳を澄ますのだ……」
震える声で囁く店主。ヒューの正気はぐらぐらと揺れ、今にも崩れ去りそうだった。
部屋の中央に居る怪物は、まるで蕾が花開くようにゆっくりと立ち上がり、じろり、とヒューの顔を見る。”彼”の心情は少しも伺えない。無表情のような、様々な感情が粒のように顔面に散らばっているような、混沌とした色がかえって無垢な一色となっているような……そんな取り留めの無い顔。
ヒューは何かが起きるのを待った。
耐え難き沈黙が場を支配する。
”彼”はゆっくり瞬きをすると、やがて同じぐらいゆっくりと口を開き……。
そして、妙に甲高い声を地下室に響かせた。
「違う世界からやって来て感想はと聞かれたら、やっぱり私の体が一つしかないのが残酷で意識流れちゃうよね〜。
でも舐めんな! って言いたいんじゃないんだからお腹空いてください。肉ハウスを食らって固定観念を押し付けるのは全体的に言って引きこもって精神衛生上良くない情報が……地震の時はそうでもなかったけど、傭兵のおじさんがゲスいおじさんの餌食になって家族がミックスジュースになって美味しさ三倍かよただし寝起きはあんまり! 獣ガールすこ。
運命の歯車がいま回転しすぎるんだけど、色々思い出すよねーパニック寸前で甲斐甲斐しい。マジ裁判で散々だわ……悪魔的に。
なんか妙に寒くなってきたので、女騎士を20時間ぶっ通しで最高にゾンビなんだかなぁかっこよさげにロリ羊キメてる。
ステーキ完全移植! ステーキ完全移植! ステーキ完全移植!」
ヒューは店主の腕を振り解き、くるりと踵を返す。『帰ります』とだけ呟くと、問答無用で足を踏み出した。
怪物がまくし立てた呪文のような言葉の数々は、ヒューの心を掻き毟った。それには何の意味も無いし、何も汲み取りようがない。挑発的にすら思えるカオスをぶちまける、純然たる狂気。この瞬間、ヒューはクララの悪評を買う事を覚悟し、逃げる事を決断した。踏み込んではいけない闇が、興奮した店主のように自分の体をがっしりと掴んでいるのを感じた。
……が、しかし。
地下室の階段を数歩登ったところでふと、彼は先程の言葉の残骸に、見逃せない違和感が混じっている事に気がついた。
(……ステーキ完全移……ステーキ……“ステーキ”!?)
それはこの世に存在しない、この世界にやって来たばかりの彼をポポーニャが陥れようとした、あの単語だった。この世界でそれは、”カブー”と呼ばれているはずだ。
なんの気無しに見上げた雲の形や天井の木目が、たまたま知っている誰かの顔に見えるような、そんな偶然のレベルの事かも知れない。あれだけ無作為に単語を並べられては、そのぐらいの事も十分起こり得る。彼は自分の中に湧く疑問を必死に振り払った。何か別の言葉と聞き違えたのだろうと、頭を振り、大きく息を吐き、余計な思考を自ら掻き消す。
しかし、次の瞬間、決定的に彼の後ろ髪を引く一言が、地下室にいる狂人の口から放たれた。
「タナカヤスタカ」
ヒューの全身に走る稲妻。彼は体を硬直させ、しばらく動けなくなった。そして、嵐のような動揺の中で、ステーキはやはりあの”ステーキ”だったと理解する。
……“タナカヤスタカ”は、ヒューの元いた世界での名前。
つまり、彼の本名だった。
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