26 とんだババア

 明らかに帰りの遅いクロエに対し、マーシャは落ち着きを失っていた……と言うより、ほとんど錯乱していた。隣家の様子を知る術は無く、かと言って不用意にクロエを迎えに行く訳にもいかない。もしクロエに何かあったのなら、それは相手の張った罠に飛び込むようなものであり、マーシャにそんな勇気と力はこれっぽっちも無かった。

 せめてジキタリスが万全なら……と、マーシャは彼女の方を見る。ぐったりうなだれるジキタリスの顔面には、修道会の騎士達に殴られた痣が痛々しく腫れ上がっている。目は虚ろで、全身から力が抜け、自分の意識を保つのにも必死の様子だった。


「……どうしよう。どうすればいいんだろう……」


 マーシャはうろうろと落ち着きなくフロアを歩きまわる。


「……ねえ、パッチマンさん! こういう時に何か良い禁書は無いの!?」


 パッチマンは腕組みをしてじっとマーシャを見ていた。彼は無表情を貫き、焦ってもいなければ狼狽えてもいない。チルシィにしてもマーシャ達にしても、彼にとって全て他人事と言った様子だった。


「禁書が何故禁書と呼ばれているか分かるかい」


 パッチマンは訊ねる。


「……この世の理を歪め、マナを穢すからでしょ」


 マーシャの回答に、パッチマンは首を横に振る。


「違うね。禁じられてるから禁書なんだよ。理とかマナとか、どうでもいい。自分の都合で軽々しく使おうと思わないで欲しいな」


「でも、それじゃあどうしてチルシィ副団長を蘇らせてくれたんですか!」


 パッチマンは苦笑いを浮かべる。


「君らが脅したんだろ……僕を」


「……だったら!」


 聞くやいなや、マーシャは思い出したように剣を抜き、切っ先を相手に向けた。刀身はは小刻みに震えていたが、自身の行為に怖気づいているのか、隣家の敵を恐れているのか、あるいはただただ興奮しているのか。いずれにせよ、彼女の必死さは危なっかしくもあり、頼りなくもある。


「だったら、これでどうです!? この状況を何とかして下さい! お金なら後で払いますから!」


 マーシャはちらりと(どう見ても死体にしか見えない)チルシィの方に視線をやると、この人の目の前でだけは卑劣な真似をしたくなかったと、悲しい気持ちになった。

 いくら禁書を扱い、人ならぬ力を行使していたとしても、パッチマンの背格好はせいぜい十代かそこら。こんな少年に剣を向けて脅しをかけるなんて、チルシィは何と言うだろうか。

 しかし、マーシャはもう自分が騎士だなんて思っていなかった。とっくに人道を外れているし、チルシィとの関係を保っているなんて考える方がおこがましい。彼女を突き動かす理由は単に、後悔の埋め合わせだ。本当なら勝利しているはずのチルシィの手によって、今度こそポポーニャに敗北を下す。外れた車輪を元に戻す、その為だけに彼女は動いていた。理念や思想なんてどうでもいい。これは彼女にとって、ただのケジメに他ならないのであった。

 ……が、そんなケジメなんて惨めなほどに、まだ見ぬ隣家の脅威はマーシャの心を踏みにじる。“とある物体”がフロアに投げ込まれると、慣性そのままに部屋の中央までコロコロと転がり、まるでチルシィに添い寝するようにピタリと止まった。


「え……頭……ひ、ヒィッ!?」


 それは、クロエの例の生首だった。マーシャは悲鳴を上げ、尻餅をつく。


「ぎ、ぎゃあああ! いやぁ! クロおえええええ!」


 半狂乱のマーシャは、吐瀉物を床に撒き散らす。

 漂流屋の入口にいつの間にやら立っていた招かれざる客人。もちろんそれは、ポポーニャだった。マーシャより先に客人の存在に気づいたジキタリスは、力を振り絞って剣を鞘から抜く。が、彼女のダメージは既に一本の剣すら握り続けることを彼女に許さず、得物は呆気無く地面に落ちてしまった。

 からん、という金属音がフロアに響く。ぎくり、とマーシャは全身を強張らせると、ポポーニャの姿を見るなり慌てて壁際まで這いつくばった。


「ケツ穴を増やしたい人間、この指と〜まれ!」


 彼女は片手にリボルバーを握りながら、もう片方の手で人差し指を立てる。


「……ケツ穴を増やしたくない人間は、その場に止まれ。ピクリとも動くんじゃないれふよ……そこのお前も!」


 と、ポポーニャは銃口をパッチマンに向けて、低い声で凄んだ。

 ……が、しかし。パッチマンは拳銃に動じない。この世にあるはずも無い、知るはずも無い脅威。しかし、普通は知らないなりに警戒の一つでもすべきだと、むしろポポーニャは訝しむのだった。


「……パパパパッチマンさん、あああれです! あの道具でチルシィ副団長は……」


 既に拳銃の脅威を体感したマーシャは慌てて忠告するが、パッチマンは人差し指を口元に当てて、彼女の言葉を優しく制止させる。


「どこにあったんだ、拳銃なんて。この世界には無いよな。別の世界からの不正転移者が作ったのか……?」


 パッチマンの言葉に、ぴくり、とポポーニャの眉が動いた。


「……お前、異世界人れふか?」


 視線がパッチマンに集まる。殆ど気を失いかけていたジキタリスですら、片目を見開き彼を視界に捉えた。

 パッチマンは不敵に笑いながら、怠慢な動きでカウンターに置いてある書物を一冊、また一冊と重ねていき、五冊ほど積み上げた所でポポーニャに向き直った。妙に彼の事がが気に入らないポポーニャだったが、ちらりと書物に目をやると、興味の全てをそちらに奪われてしまう。


「キャンディ・マニュスクリプト! 五冊も!」


 パッチマンは、こくり、と頷いた。


「ここには五冊しかないけど……これが目的だったんだろ? ポポーニャ異端審問官殿」


 パッチマンの言葉に、彼女は露骨にご機嫌になった。


「物分りが早くて結構れふね」


「持ち物を持ち主に返すのは当然の事だ」


 パッチマンの言葉に、ポポーニャはまた怪訝な顔をせざるを得なかった。しかし、それは彼女だけじゃなかった。マーシャも、ジキタリスも……漂流屋の外でこっそり話を聞いている、マリンカも。


「はぁ? ……おかしな事を言うガキ。確かに、わらしこそが持ち主! と言いたいところれふが、この禁書の持ち主は……“穢れた智慧のキャンディ”は、とっくの昔に死んでまふ」


 ポポーニャは口を歪めて笑った。


「わらしが千五百歳のババアに見えるんれふか?」


 ポポーニャの言葉通り、キャンディ・マニュスクリプトの製作者であり持ち主である“穢れた智慧のキャンディ”は、千五百年も昔にこの世界を魔族から救った英雄の一人。あまりにも非現実すぎるパッチマンの戯言に、“この言葉に何の意図があるのだ”と、その場に居た誰しもが疑問を抱いた。

 そんな周囲の違和感を気にも止めず、パッチマンは何かを思案しながら、ちらちらと漂流屋の面々を見回す。


「……今回は何冊集まった? 二冊?」


 パッチマンはポポーニャに顎をしゃくり、そう尋ねた。

 ポポーニャはやはり意味が分からず、苛立ちながら静観を続ける。


「隠れ家に戻れば残りの本も返すよ。千年超の集大成をね。まあ、君はまた僕に預けてどこかへ行くんだろうけど。そうせざるを得ないからな。

 次はどうする? そこの……マーシャという女の子は? ジキタリスの方が優秀かな? 少々傷んではいるけれど、とりあえず生きてる。マナが全てのこの世界で、肉体の個体差はあまり関係無いけどね」


 彼の言葉の意味がさっぱり分からないマーシャだったが、彼女はほんの少し自分の体を庇うような仕草をした。何やら穏便な成り行きじゃ無い事だけは、察する事が出来た。


「一体何の話をしているんれ……!」


 ポポーニャの怒声をかき消すように、どしん、という音が漂流屋に響き渡る。パッチマンが禁書を一冊、カウンターの上に乱暴に置いたのだった。


「この本はキャンディ・マニュスクリプト40番『精神転移書』のマナフォーマット版だ。千五百年間これで肉体を渡り歩いて、今の君がある。それは僕も同じだけどね。

 ……そして、これ」


 どしん、とまた一冊。パッチマンは次の禁書を40番の上に重ねた。


「キャンディ・マニュスクリプト7番『知覚体験及び記憶の初期化書』。こちらも同じくマナフォーマット版。

 ……もっとも、脳の初期化イニシャライズを行っても君の根本は変わらず、千五百年の悠久の時間が育んだ“退屈”はそのままだし、君の精神は……悪化の一途を辿っているようだ。君の書いた“スクリプト”はあまり出来が良くなかったみたいだな」


「何の話をしてるんれふ? 一体、何を言ってるんれふ……?」


 パッチマンはポポーニャを指差した。


「それそれ。呂律が回っていない。度重なる初期化が君の脳機能に弊害を起こし、上手く肉体に司令を出せなくなっている。人格にも問題があるが……これは昔からかな。ここまで攻撃的じゃなかった気はするけど」


 パッチマンは転がるクロエの頭部を見ながらそう言った。


「……“統一世界”に背いた罰は、まだまだ続く。幸い、僕も他にやる

ことなんて無い。だから、今回もこうする」


 ずどん、と破裂音が漂流屋に響いた。フロアに漂う、火薬に似ているが、どこか異質な匂い。驚いたマーシャの体が数センチほど浮き、その反動で彼女の眼鏡が斜めにずれ、やがて地面に落ちた。

 パッチマンの手に握られていたのは、ポポーニャのものとはまた違う、一丁の拳銃だった。拳銃からは細い煙が立ち上り、それが火を吹いた事を明確に示唆している。

 そして、ポポーニャ。彼女の法衣には小さな穴が空き、命に関わる重大なダメージが彼女を脅かすのだった。彼女は、ぐらり、と一度揺れると、声も無くその場に倒れ込んだ。

 しばらくの間、フロアは静寂に包まれた。


「キャンディ。君がバラ巻いた禁書も、もう少しで集まる。それまではリセット、リセット、リセットの繰り返しだ。死に疲れたかもしれないけど、もう少しの辛抱だ。次も頑張ってくれよな。

 ……なあ、マーシャ」


 完全に理解の許容量を超えた眼の前の出来事に、マーシャは呆然としていた。が、再度パッチマンが『マーシャ?』と呼びかけると、彼女は虚ろな瞳のまま声の方を振り向いた。


「……はい?」


「キャンディ……じゃなかった。ポポーニャ異端審問官の手に握られたアレを、拾ってこっちに持ってきてくれないか?」


 パッチマンはポポーニャの拳銃を指してそう言った。


「……し、死んでるんですか、ポポーニャは?」


「死んだふりをしてたら困るからな。慎重に近づいて、ゆっくり拳銃を拾ってくれ。心配しなくても良い。もしちょっとでも動いたら、僕がもう一度ポポーニャを撃つ」


 マーシャは目を細めて、ポポーニャの倒れている場所をじっと見つめる。


「……眼鏡を拾ってからでいいよ」


 パッチマンの言葉に慌てて眼鏡を拾うと、彼女は改めてポポーニャの死体を見た。

 あのポポーニャがこんな呆気無く死んでしまう事を、彼女は俄には信じられなかったが……それ以上に彼女は、パッチマンに対して恐怖を感じていた。

 この少年は、一体さっきから何を言っているのだろう。

 ポポーニャは、パッチマンは……一体何者なのだろう。

 彼女の疑問は、彼女の想像の遥か彼方に存在し、答えは漠然とした違和感の奥の奥の奥にある。

 半ば思考停止気味に、マーシャはパッチマンに言われるがままに立ち上がり、倒れ込むポポーニャの元へ近づいた。

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