25 とんだ毒ガス

 広場で語り続けるヒューとクララ。昼の太陽がじりじりと広場を炙り、草の臭いが辺りに立ち込める。二人を包む非日常的な雰囲気や会話の内容が、呑気な日常風景との大きなギャップを産んでいた。

 また復讐か。

 ヒューはクララの言葉を聞き、そう感じた。彼は平和主義者でも何でも無かったが、うんざりする程の騙し合い、暴力、憎しみに囲まれ、少し疲れていた。この世界で起こるカオスな状況に巻き込まれ、ふとした折に心が項垂れてしまいそうになる。

 しかし、状況はそんな泣き言を許してはくれない。立ち止まればすぐに奈落の底が待っている。崩れゆく橋に追われながら走り続け、いつかは終わりがやって来ると信じ、彼は前に進むしか無いのだった。


「お姉さんにどうやって復讐するんだ」


 彼は機械的にそう呟いた。

 自分の考えに夢中になっているクララに、彼の気苦労は見えていなかった。


「姉の美貌や若さは、グラスケージの研究の成果による所が大きい。話は早いんです。驚くほど早い。私があなた達の復讐の手伝いをすれば、それは私の復讐にも繋がる。グラスケージの研究が途絶えれば、姉の美貌は失われるのですから。

 華が無くなり、離れて行く人々。歳相応に老いていく自身の相貌。特別じゃなくなっていく自分……あの人に対してそれ以上の復讐は無いと、私は断言します」


 ヒューは、なるほど、と頷いた。


「確かに、驚くほど早い」


 と、クララの言葉をなぞる。


「ええ。更に、もっと話が早くなります」


 クララは鞄を開き、中から小さな手帳を取り出すと、ぱらぱらと捲って目的のページを探した。


「ええと……ああ、これですね。週末の夜、ダリル・アンスラサイトの誕生日パーティがアンスラサイト家で行われます。パドの町の支配階級が大勢やって来る、立派な晩餐会です」


「ダリル・アンスラサイト氏というのは?」


「私の父親に当たる人物です」


 素っ気ない言葉に、ヒューは思わず失笑した。


「大事なお父さんの誕生日パーティを手帳にメモらなきゃ覚えられないのか、あるいは絶対に忘れないようにメモを取るほどお父さん想いなのか。

 ……『箱を開けるまでは両方の可能性がある』って事にしておこう」


「箱」


 クララは、箱、と呟く。


「箱だよ。シュレディンガーの……」


 と、言いかけて、ヒューは慌てて口を噤んだ。疲労から生じる失言だった。この世界にシュレディンガーの猫が存在するはずが無いのだから。


「……い、いや。何でも無い」


「ああ、シュレディンガーの猫ですか」


 クララの言葉に、ヒューはぎょっとした。


「知ってるのか!?」


 それぐらいはまあ、とクララは答える。むしろ彼女はヒューの大袈裟な反応に違和感を感じている様子だった。


「二分の一の確率で毒ガスを放つポーションを、猫と一緒に箱の中に入れる、という話ですよね。観測者にとっては、猫は生きているし死んでいる。知っています、そのぐらい」


 細部こそ違えど……と、ヒューは思った。つまるところ、シュレディンガーの猫はこの世界にも常識的に存在する。それも“シュレディンガー”という固有名詞をそのままに。

 彼は混乱した。ふわりと自分の体が宙に浮いたような錯覚が、不安を煽り立てる。この世界はひょっとすると、自分が作り出した妄想なんじゃないか……と、彼は疑った。トラックに撥ねられた瞬間から、自分はベッドの上で夢を見ている。覚めない夢の中で、小さな商人や悪辣な異端審問官のゴタゴタに巻き込まれて……。


「猫は死んでいます」


 え? と、ヒューは訊き返す。


「父の誕生日。興味の無い事は覚えられませんので」


 あ、ああ、とヒューは慌ててクララとの会話に戻った。彼の集中力は、これっぽっちも残っていなかった。


「……じゃあ、バッドエンドでこの話は終わりだな。とにかく、計画を進めよう。その誕生日パーティとやらに、俺と“友達”を誘ってくれるのか?」


 ヒューが言い終えるのと同時に、クララは既に用意していた招待状を二枚、彼に差し出した。


「これがあれば晩餐会に入れます。周りは貴族ばかりですので、少しはマシな格好で。今のあなたは失礼ながら……まるで粗野な傭兵です」


「俺は元傭兵だ」


 そうでしたか、とクララは言った。ほんのり顔を赤らめた気がしたが、それは真昼の強烈な日差しのせいかもしれない。なにせ、赤らめる理由が無い。


「……もっと羽振りの良い商人の振りをなさって下さい。とは言え、あまり目立たず、シンプルに。

 上着は黒のフロックコートで、下は白の長ズボンにブーツ。黒いズボンは喪服をイメージするので、悪目立ちするからダメ。勘違いした成り上がりの商人はいかにも“貴族風”なゴテゴテの刺繍でやって来るけど、今の主流じゃないし、何より保守的な貴族達に疎まれる。階級差を明確にしたい連中ですから、商人風情が貴族の真似をすると、彼らの神経を逆撫でしてしまいます。

 ……服装さえちゃんとしていれば、うまく溶け込めるかも知れない。あなたには学があるようですからね、“シュレディンガー”さん。

 お友達の服装にも気をつけて。男性? 女性? 男性ならビジネスパートナーでいいけれど……女性なら奥さんという事にするのが一番無難かしら」


 招待状を受け取ろうとしたヒューの手が、ぴたり、と止まった。


「……友達はピピット族なんだ」


 むっ、と難しい顔をするクララ。

 差し出した招待状を取り下げ、申し訳無さそうに首を横に振る。


「絶対に無理です。お友達は当然追い返されるし、ピピット族を招待したなんて知られれば、アンスラサイト家は差別主義者の連中に火をつけられてしまいます。

 ……一度だけそういう席でピピット族を見た事があります。彼は“子ブタ”として、首に鎖を繋がれ、地面に這いつくばって残飯を貪っていた。悪趣味な見世物として連れられていただけですね。

 酷い仕打ちだと顔を顰める貴族もいましたが……鎖を解いて、一人の人間として亜人があの場にいたら、やはり彼らは別の意味で顔を顰めたでしょう。

 相応しくないのです。亜人が純血人の社交場に顔を出す事自体が」


 それがこの世界の現状で、綺麗事は通用しない。ヒューは一層、自分の頭が重くなったような気がした。

 困り果てたヒューを見かねて、クララは言葉を続ける。


「パーティにはあなただけ来ればいい。ピピット族の友達は御者として外に待たせて。グラスケージに積年の恨みを晴らす時間と場所は、私が用意します」


「どうやって?」


「どうにかしてです。まだ考えておりません」


 ヒューの苦笑い。お遊び感覚で言っている訳では無いにしても、果たして彼女をどこまでアテにしていいものか……と、彼は思った。


「……分かったよ。どうするかは当日キミに聞く。

 しかし、上流階級の連中ばかり居るパーティに俺一人か……」


 ヒューは小さくため息をついた。


「心細いな。パーティの間は出来るだけ側に居てくれないか?」


 にこり、とクララは笑った。ニヤリ、の方がニュアンスは近いかも知れない。どこか影のあるクララは、純粋な笑顔も“太陽の様に眩く”とはいかなかった。

 が、しかし。深い森に差した木漏れ日の様な遠慮がちな笑顔は、ほんの少しだけヒューの心を穏やかにした。


「ええ。私も一人じゃなくて済みます。一人は慣れてるけど、ああいう場所ではやっぱり二人の方が良い」


 そうだな、とヒューは言った。精一杯の強がりの中に見え隠れするクララの本心が、何故かじんわりと彼の心を打つのだった。

 話が終わり、改めてヒューに招待状を一枚だけ手渡すと、クララはその場にゆっくりと立ち上がった。

 ――クララの手はほんの少し震えていた。彼女の中でヒューラン・レンブラントという人間は、取るに足らない変人から、目的を共有する知人……あるいは“仲間”に昇格した。彼に対し、クララは今まで無かったはずの“妙な意識”を感じてしまう。彼女にとっては他人を突っぱねるより、受け入れる方がずっと難しい。

 そんな微かな動揺のせいか、鞄を持ち上げようとしたその時、彼女はうっかりと手を滑らせてしまった。手帳やら招待状やらを取り出した際に開けっ放しになっていた鞄から、例の“マルスデロームの幽霊”が、ばさり、と地面に落ちてしまう。

 クララは目にも止まらぬ速さでそれを拾うと、乱雑に鞄に突っ込んだ。


「……落としてしまいました」


 そうだな、とヒューは言った。

 クララの顔は今度こそ真っ赤に火照り、動きもどこかギクシャクしている。そよ風程度だった動揺が、ちょっとしたアクシデントによって突風となり、彼女の精神バランスを大きく崩していた。欠けた仮面の向こうに覗く素顔は、一人の少女のそれに他ならない。

 やがてクララは罰の悪そうな苦笑いを浮かべ、『そ、それでは』と言い残すと、踵を返し、元来た道を戻って行った。


 ヒューは彼女の後ろ姿をぼうっと眺めながら、半ば放心状態になっていた。『帰ってちゃんとしたベッドで休みたい』という願望を押し退けて、疲れ切った脳裏にはある強烈な印象が焼き付いている。

 それは彼の常識を遥かに逸脱し、彼を混乱させていた。


(……今のは?)


 彼は思った。


(今のは一体何だ? 俺の見間違いか……?)


 最後の最後、クララが残した強烈な“毒ガス”に、ヒューの意識は散り散りに掻き乱された。彼女の中に秘められた怪物性が、うっかりと牙を剥き、ヒューを怯えさせていた。

 “マルスデロームの幽霊”は、偽物だった。もう少し正確に言えば、カバーだけが件の本だった。中身は全く別物で、クララが落として開かれたページに、その真名たる表題が書かれていた。

 通りの向こうでどんどん小さくなっていくクララの後ろ姿。ヒューは自身の目の当たりにした深刻な真実に、生唾を飲み込む。


(……そうだ。そうだった。思い出した。クララは幾度と無く古書店に通い続けていたのに、図書館には何故か“マルスデローム”だけを携えていた。マルスデロームは表紙だけのフェイクで、本当は中身だけを入れ替えて、毎日違う本を持って行っていたんだ……!

 どうしてそんな事を? 答えは明白だ。それが他人の目を憚られる本だから。そして古書店の店主が、クララが何を買っているか教えてくれない理由も分かった。金を積んでも教えてくれないなんて妙に義理堅いとは思ったが……それもそのはず。“あれ”を取り扱ってる事を吹聴すれば……店主自身が危険なのだから!

 そして、メリル・アンスラサイト! 彼女が危惧していたのは、わざわざこの俺に忠告までしに来たのは、この事か……!

 クララの本当の目的は何だ? 本当に姉への復讐だけ? ……企んでいるんじゃないか? 機会を求めているんじゃないのか? あの”禁書”を用いた”術式”を行う機会を、生贄が手に入る機会を!)


 ヒューはゆっくりと深呼吸をし、クララの思惑を想像し続けた。


(グラスケージをどうやって捕まえるのか、彼女は考えていないと言った。でも実のところ、この日の為に“とっくに準備をしている”のだとしたら? 前例があったから、メリルが忠告に来たんじゃないか……!? いや、それならまだしも……最悪のパターンは、その対象が他でもない、この俺だった場合だ! 大商人たるグラスケージの若旦那を相手に危険を犯すより、その方がよっぽど簡単で合理的だ!

 マリンカの助けも無く味方もいない場所で、クララまで敵だったら……クララこそが真の敵だったら、俺一人で抗う術は無いぞ……!)


 事の重大さに、疲れ切っていたヒューの脳細胞が、俄に目覚め始める。彼は立ち上がると、ふらつく足取りで広場を立ち去った。


(もしその場合、俺の味方はメリルだけだ! メリルは俺がそういう目に遭う事を危惧していたのだから……きっと、妹にそんな事をして欲しくないのだろう。

 でも俺はメリルにとって一番の敵。なんと言っても俺は、彼女の生きがいとも言える美貌を奪おうとしている人間で、俺がメリル側につこうとした瞬間、クララは俺の正体を暴露して……ああ、クソっ!)


 がしがしがし、とヒューは頭を掻き乱す。

 彼の思考は纏まらず、ただ危機感に突き動かされるように歩を進める。


(まだだ、まだ結論を急いじゃいけない。全ては俺の愚かな誤解かも知れない。あまりにショッキングだったから、つい……。

 そうだ。彼女が持っていた“禁書”について調べよう。中身はまともな書籍なのかもしれないしな。早とちりは俺の悪い癖だ。この世界に来て変な事に巻き込まれ過ぎたし、今回の件が妙にトントン拍子に話が進むから、つい邪推をしてしまって……ああ、でも、メリルの忠告に、あのタイトル……! ぐぐぐっ……)


 ヒューはもう一度あの決定的瞬間を思い返し、“マルスデロームの幽霊じゃなかったあの本”の真名を心の中で諳んじた。


(”傭兵おじさんの人糞シチュー”)


 心の中でそう呟くだけで、彼は吐き気を催した。


(“傭兵おじさんの人糞シチュー”。あまりにも……あまりにも……あんまりだ!

 禁書と言うか、発禁書と言うべきか……当世における教会の厳しい倫理観において、あんな書物が日常的にあり得るはずが無い!

 個人の趣味にどうこう言うつもりは無い。無いけど……万が一のリスクを考えた場合、俺は一体どうなるんだ? 彼女、俺を傭兵呼ばわりしていたぞ。その上での“傭兵モノ”なのか!? 食べさせられるのか、俺は? 人糞シチューを……?

 とんだ毒ガス。いや、まだ毒ガスには至らないが、箱の中のポーションが毒素を発するか、それとも無害か。箱を空けた時にはおれは……)


 ふと、彼の脳裏を過るクララの言葉。彼女の発した『猫は死んでいます』という発言は、他意が無かったにしろ、今や彼には別の意味にしか思えないのだった。

 ヒューはやや早歩きで、四番街にある古書店目指して街路を真っ直ぐ進んで行った。

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