23 とんだ肉と骨

 覗き見していた亜人を追いかけて、クロエは漂流屋を飛び出した。あっという間に隣の廃屋に突撃し、彼女がそこで見たものは、己が目と常識を疑わんばかりの光景だった。――この“一番街”が、道徳や倫理が希薄な場所だと彼女も重々知っていた。知っていたはずだが、それでもなお彼女の想像を一足飛び、二足飛びでその行為は行われていた。

 ピピット族とトント族の二人の少女が、床の上で絡み合っていたのだ。ピピット族は自ら上半身をはだけさせ、トント族の方は着ていたボロをビリビリに切り裂かれて、ほとんど裸に近い状態だった。ピピット族はトント族を押し倒す様な形で抑えこみ、片手にはナイフを握り、もう片方の手はトント族の下腹部に伸びていた。


「な……なに……何をしているんだ……?」


 クロエは混乱した。亜人の異種姦淫。それも片方は神聖なトント族。おまけに同性。そう言った行為には早すぎる年齢。強姦である事も明白。どこを切り取っても背徳的な行為に、クロエは唖然としていた。『そうすべき』という理性の残骸が、かろうじて彼女に自身のナイフを引き抜かせる。


「……やだなぁ、そんな物騒なものしまって下さいよ」


 ピピット族の女……マリンカは、脂汗を垂らしながら、引き攣った笑顔でそう言った。


「こ、このような醜穢、看過する訳にはいかない……!」


「何ででありんす。あんたに関係無いでしょうが」


「私は騎士だ!」


 ボロボロのフードを上げると、クララの中性的な顔が顕になる。強い意志がありありと輝く瞳を見て、マリンカはしめしめと思った。プライドの高い人間は、心が脆い。すぐに武器を抜く人間は、言葉に脆い。

 マリンカはわざと訝しげな顔で相手の感情を刺激した。


「そうは見えませんが……」


「腐っても騎士だ!」


 毅然と足を踏み出すクロエに対し、マリンカは『ちょっと待った!』と声を上げた。


「騎士だから、何だってんです? 正義? 規律? この街の騎士達がこの“一番街”の為に、一体何をしてくれたでありんす? あんたらはそうやって、自分の理想の為にあっしらの糧を奪い、あっしらの生活を邪魔するだけ。これを見るでありんす!」


 がばっ、とボロを引っぺがし、マリンカはトント族の少女の裸を顕にした。そして、痛々しい程に浮き上がった肋骨を、そっと撫でる。


「あんたら騎士が本当に街を守る高潔な方々なら、どうしてこの娘はこんなに痩せっぽちなんです? ロクに太陽も当たらない場所で、どうしてこんな汚いボロを纏って生きなきゃならんのです?」


「……それは我々のせいじゃない」


「ええ、そうですとも。この娘がこうなったのはあんたらのせいじゃない。じゃあ、誰のせい? 行政? 亜人への根強い差別意識? そう思いたいが、今日この瞬間には、それはただの泣き言でありんす。

 ……不運でありんす! この世は結局のところ、誰かが幸運を掴み、誰かが不幸を掴ませられる。

 逆に言えば、この娘が今日ここであっしに出会ったのは、幸運の成すところ。この哀れなトント族はあっしの慰み者になる事で、一日の糧を得られるのでありんすから。

 じゃあ、あんたに出会った事は? あっしを引っぺがし、腹の足しにもならねぇ道徳を食わされて、彼女は幸運でありんすか? ん?」


 ぎゅっ、とマリンカはトント族の少女を抱きしめて、頬を押し当てた。少女の頬肉が押し上げられ、開いた傷口を塞ぐように片目が閉じられる。


「……腹一杯の理想を詰め込んで餓死させる。そんな可哀想な仕打ち、あっしには出来ませんなぁ。騎士様」


 マリンカの随分と自分本位な言葉に、それでもクロエは翻弄された。動揺し、自身の行為に疑問を持ち始める。

 確かに、自分の行いに正義はある。高潔だし、理想的だ。

 でも、“優しさ”は……?

 クロエの頭に、魚の骨のように引っかかっている言葉がある。ヒューラン・レンブラントに浴びせられた罵声の、『エゴイスティックな正義』という言葉だ。イラつく言葉だが、それは凡百の偽善者とチルシィを隔てる根本的な要素だと、クロエはそう思った。そして自分はその凡百の偽善者にはなりたくないとも。


「……し、しかし!」


 クロエは宙に澱んだわだかまりを振り払うように右手を振った。


「だったら恵んでやればいい。哀れだと思うなら、こんな行為をせずとも!」


 マリンカは首を横に振った。


「“他人に生かされる”という事の恐ろしさを、あんたは分かっていない。少なくとも、この一番街では絶対にしてはならないし、されてはならない」


「こういう場所だからこそ、他者の善意が必要だ。荒れ果てた不道徳の地に、善意の芽が必要だ!」


 負けじと精一杯の反論をするクロエだが、マリンカは動じない。


「それは違うでありんすよ、騎士殿。この街には、強い人間よりも弱い人間の方が多いんでありんす。

 人の情けは人を弱くし、弱い人間はやがて死ぬ。運良く生き延びた人間は、みんな悪人になる。悪人は更に弱い人間を食い物にし、このトント族の少女のように、不幸の下に生まれる人間が一層増えていく。

 あっしはそういう人間を沢山見てきたし、正義や理想は現実の前にはあまりに弱すぎる。悲観が過ぎるなら『まだ弱すぎる』と言い換えても良いでありんすけどね。

 いつかはあんたらの思想がこの世を救う事があるかもしれない。正しい力が組織となり、人々を管理出来るようになるかも知れない。でも、今はそうじゃない。他人を救う事でも無く、他人を護る事でも無く、他人に“要求する”事こそ、ここ一番街での善意でありんす。

 もちろん、強要はしない。この娘が嫌がるなら、スケベ無しで帰るでありんす。もちろんその場合、パンもおあずけでありんすけどね」


 マリンカがまた少女を、ぎゅっ、と抱きしめる。すると、少女の方もマリンカの肩に手を回した。

 そうされたから、そうし返す。ほとんど意思のない反応のように思えるが、商売柄多くのトント族を見てきたマリンカは、この種族の根底に備わる”機微”を知っていた。

 ほんの少しだが、彼らにも好き嫌いはある。やりたい事も、楽しい事も、悲しい事も。お腹が減ればパンを食べたいし、愛情が不足すれば抱きしめられたい。何よりトント族は、言葉や行動よりマナの風向きに敏感だった。ナイフを抜いたマリンカが本当に少女を殺す気なら、少女は精一杯逃げようとしただろう。でも、マリンカのマナに殺意は無く、もっと別の感情が漂っていた。だから少女もマリンカを受け入れたのだった。


「……クソッ。もう良い」


 迷えるクロエに、相思相愛の絵面を引き裂く程の意志は持ち得なかった。彼女はナイフをホルダーにしまい、やれやれ、と首を横に振った。


「……勝手にすれば良い。私は見なかった事にする。私は所詮、一番街にとって余所者って訳だ」


「騎士さんもどうです? 一回」


 マリンカの言葉に、クロエの心臓が大きく高鳴る。


「……何?」


「この娘を可愛がってあげては?」


「侮辱する気かキサマ! 私は……」


 ムキになるクロエ。マリンカは悪辣さを隠そうともせず、口の端を歪める。


「人助けでありんすよ。人助け。それにこの娘との出会いが、あるいはあんたにとっての幸運かもしれない」


「どういう意味だ!?」


「……正義感の強い人が悪事を許さない一番の原因をご存知で?」


 ピピット族特有の幼い顔つきが、瞳が、かえって邪悪な気配を湛えてクロエの心を圧迫する。


「”妬み”でありんす。あんたらはいつだって、あっしらと同じ事をしたい。突っぱねれば突っぱねる程、それが甘美なものに見えてしまうのは人間の常。

 ……別に悪に堕ちろと言ってるんじゃない。考え方を変えて、もっと楽になれば良いんでありんす。でなければあんたは、弱者や悪人を永遠に許せない」


「黙れ、悪魔!」


 クロエは叫んだ。彼女は恐怖を感じていた。自分の心の闇を暴かれる恐怖だ。


「どうしてそんなにムキになるんです? 必死に抗わないと、自分を見失うから?」


「見失ってなどいない!」


「迷ってるでありんす」


「迷ってなどいない!」


 見る見る内に冷静さを欠いていくクロエに対し、マリンカは嗜虐的なまでに追い打ちをかけた。


「大袈裟なんでありんす。これはただの人助けでありんすよ。人助け……」


「こんなのは人助けじゃ……ああ、クソ!」


 クロエは自分の拳で頭を何度も小突いた。


「そんな馬鹿な事があってたまるか! 私は……私は……!」


「あんたが大事にしてるものなんて、果たしてホントに大事でありんすかね……?」


「……私は……でも……」


「迷いを振り払うのは行動のみ。あんたの正義に足りないものが何なのか、分かるかもしれないでありんすよ」


「私の正義に足りないもの……?」


 にんまりと笑うマリンカ。


「あんたが本当のあんた自身を知り得るチャンスでありんす。だから言ったんです。あんたにとって“幸運”かも、と」


「本当の私自身……」


 チルシィ副団長が死んだ原因を、クロエはふと思い出す。彼女は自分達の間違いによって死んだが……結局のところ“アレ”が、欲望に塗れた“あの間違い”こそが本当の自分なのだ、と。


「あんたが間違いだと思っている事は、本当に間違いでありんすか?

 それを押し殺して窮屈な正義に律する事が、果たして平和を叶えますかな……?

 一番街には弱い人間ばかりとあっしは言いましたが、それは何も一番街に限った話では無いでありんす。

 人間はみんな弱い。あっしも、あんたも、等しく弱い! 人間らしさを失った理想なんて、ただの欺瞞でやす。自分を立派に見せるパフォーマンスでありんす! 身の丈に合わない服を着込んで、いつか肉体が成長すると思い込むなんて、そんな馬鹿な話がありますかい?

 ……あんたはあんたを追求するが良いでありんす。そうすれば、あんたの正義が本当の輝きを取り戻す時が来るかも……」


 悪魔の囁きに、クロエは半ば放心状態になりつつ、ゆっくりと一歩を踏み出す。


「……本当の……本当の私は……」


 と、その時。

 闇から一本の腕が彼女の後ろから伸びて、彼女の首を締め上げた。


「ただの肉と骨れふよ」


 クロエはぎょっとした。朦朧とした意識が、背中に走る痛みと共に、凄まじい勢いで現実に引き戻される。


「あぐっ!?」


 クロエは痛みに抗いながら、咄嗟に自分のナイフホルダーに手を伸ばした。が、彼女の思い描いた行動を現実にするのに、彼女の肉体はその力を残していなかった。

 ポポーニャの刺した短剣はクロエの背中に深々と突き刺さっており、刃は彼女の心臓にまで達していた。傷口から漏れ出す血液と共に、あっという間に彼女の命も失われていく。全身の力が抜け、どさり、とクロエの体が地面に横たわると、あれほど正義とエゴで苦しんだ彼女の人生は、あっさりと幕を閉じるのだった。


「ただの肉と骨。もはやお前はそれ以外の何者でも無いれふ」


 奈落に突き落とすようなポポーニャの嘲罵は、クロエの耳にはもう届いていなかった。

 ――馬鹿か私は。

 それが最後にクロエの脳裏を掠めた言葉だった。


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