22 とんだスラム

 マーシャ達を追いかけるマリンカ。彼女達が向かった“一番街”は、パド中の貧困層や犯罪者が集まる、いわゆるスラム街だった。治安は悪く、非衛生的で、よほどの用事が無い限り普通の人々はまず寄り付かない。

 円状に並ぶパドの街の造りとして、必然的に一番街の隣は貴族達が住む六番街になるが、その境界には防犯用の巨大な内壁が建てられていた。つまるところパドには始端と終端が明確に定められており、丸く長く連なった貧富のグラデーションが、円状に見えるこの街の正体だった。

 一番街には亜人も多く住んでいた。全身、あるいは全身の一部が獣となっているマニュエラ族は、“祖先が獣と交配して誕生した雑種”とされ、亜人の中でも特に忌み嫌われている。その為、この一番街以外で彼らの姿を見かける事は基本的には無い。また、彼らは身体能力や直感に秀でてはいるが、純血人や他の亜人に比べて知性が低く、それも差別意識の要因の一端となっていた。彼らがスラムの外でありつける仕事と言えば、狩りか、戦争の最前線か、せいぜい物好きの愛玩動物として買われるぐらいしかない。

 そんな社会に馴染めない亜人や、一部の世捨て人のような純血人ばかりの一番街に、マーシャのような“いかにも品のあるお嬢さん”達がやって来る事は、ただそれだけで彼らを侮辱する事となる。幸い彼女達のボロいフードが文字通り隠れ蓑となっている事と、引いている荷台に載せられた死体の痛ましさが、一番街の連中の気持ちを逆撫でする事は無かった。

 マリンカはもちろん歩き慣れたものだった。彼女は亜人だし、商売や復讐の情報収集によく訪れていた。こういう場所でしか得られないディープな情報も多くあり、それが彼女の飯の種になる事もある。言わばここは彼女のホームであり、マーシャ達の尾行もやりやすい、と彼女は思っていた。

 マーシャ達は中央通りの市場を進んでいた。市場はまともに歩けない程の人で溢れかえっている。市場は比較的まともな露店が連なっていたが、並んでいるのは売れ残って傷みかけた野菜や肉、本来なら粗悪品として店頭に並ばない訳あり商品ばかり。ここら一帯の客層が求めるものは“安さ”のみで、その一点に関して理想的な供給を努める市場に、一番街中の人々が集まってくるのだった。


「マリンカ・リンカ」


 ふいに野太い声がマリンカを呼び止めた。振り返ると、そこには彼女の倍はあろう巨人が居た。


「おっ。デカブツ」


 慣れ親しんだ顔に、彼女は気さくに挨拶を返す。

 デカブツと呼ばれた男は、全身毛深く、筋骨隆々で、頭に雄牛のような角を生やしていた。マリンカが昔雇っていたマニュエラ族の用心棒で、名前をダントンと言う。


「マリンカ、まだ復讐を諦めてないのか」


 ダントンの地を這う様な低い声。マリンカは彼の腹に思い切り拳をぶつけたが、あまりに硬い腹筋を相手に、逆に拳を挫かれてしまう。


「……イテテ……でけー声で『復讐』とか言ってんじゃないでありんすよ……!」


 マリンカは右手をぶらぶらと振り、じっと答えを待つダントンを睨みつけた。


「諦めるも諦めないも無い。それがあっしの人生でありんす。諦めたのは普通の人生!

 つっても、別に諦観に塗れて生きてるって意味じゃないでありんすよ」


「分からん」


 と、ダントンは言った。


「分かるはずないっす。あんたは孤児なんだから。家族を殺された者の気持ちなんて」


「いや、テイカンって言葉の意味が分からん」


 じとっとした目つきで、マリンカはデカブツを見る。


「あ、そ。じゃ、“忙しい”って言葉は分かる?」


「分かる」


 マリンカは自分の足元を指さした。


「それは今のあっしの状況を指す! あんたと国語のお勉強をしてる暇は無いんすよ。全てが片付いたら、ゆっくり昔話でもしましょうや」


 脇道に逸れるマーシャ達の姿がマリンカの視界に映る。彼女は慌てて、じゃ、とダントンに手を振ると、その場から駈け出そうとした。

 ……が、マリンカが前進した瞬間、運動エネルギーの全てが彼女の首元を締め付けた。グエッ、という奇声を口から漏らし、マリンカはその場に崩れ落ちる。いつの間にやら、ダントンに襟首を掴まれていたのだ。


「ゲエッホ……ゲホッ……なぁにをするでありんすか!?」


 カンカンに怒ったマリンカが、ダントンの脛を蹴り飛ばした。

 彼は怯む様子も痛がる様子も無く、まるで岩のように微動だりしない。


「お前の言うとおりだ」


 と、ダントンは言った。


「お前の言う通り、俺に家族はいない。だが、お前が復讐に燃える気持ちは分かる」


「だったら邪魔すんな!」


「例えば、お前が復讐に失敗して誰かに殺されたら、俺もその誰かに復讐するかもしれない」


 ぷんすか怒っていたマリンカだが、ダントンの言葉はバケツの水をぶっかけたように、あっという間に彼女の怒りを鎮火させた。


「……相変わらず図体に似合わずお人好しでありんすな。

 あんたには惻隠の情ってヤツがある。デカブツだから、余裕があるんですな。あっしのようなチビで狭量な人間に構ってると、不幸になるだけでありんすよ。

 ……重ねて言うけど、あっしは諦観に生きていない。復讐が終わった人生が待ち遠しいと思えば思うほど、あっしの憎しみもメラメラ燃えるでありんす。

 とにかく、急ぐんで。じゃ!」


「ソクインのジョーとは?」


 マリンカは何も答えない代わりに、ニヤリと笑って親指を立てると、一番街の市場をとことこと走り去った。人混みを難なくすり抜ける彼女を、ダントンの巨体が追うことは不可能だった。

 お利口で、意地悪で、どこか危なっかしい彼女を、ダントンは自分の妹の様に心配していた。

 と言ってもマリンカの方が少し年上で、このスラムでの生き方を教えたのも彼女なのだが。まだ幼かったダントンにとって、マリンカは家族そのものだったし、それは今も変わらない。


(復讐が人生というなら、子供だった俺を拾って用心棒に仕立て上げたのは、どうしてだ? それはソクインのジョーでは無いのか? 俺はお前にそれを学んだんだぞ。違うのか?)


 ……と、ダントンは思ったが、すぐによく分からなくなった。

 彼はあまり難しい事を考えるのが好きでは無かった。


 マーシャ達の入り込んだ路地は、マリンカにも馴染みのある景観だった。常連しか寄り付かないボロいバーに、品揃えの悪い古書店、亜人専用のヤブ医者、盗品オッケーの質屋、トント族の娼家……それら“いかにも一番街”と言った裏通りの隅っこに、ちょこんと占い師が座っていた。

 占い師はほとんど乞食と見分けのつかない身なりをしており、ただ彼の前に置かれた水晶球(どう見てもガラスの玉だが)が、彼の占い師としてのアイデンティティの全てを支えていた。

 マリンカはポケットから硬貨を一枚取り出し、彼が座る茣蓙ござの上に、ぽん、と放った。


「“死体を運んだ三人組”について、占ってくれでありんす」


 占い師は、じろり、とマリンカの顔を見る。


「……さっきここを通った」


 無愛想かつ簡素な占い結果。

 マリンカがもう一枚硬貨を放ると、茣蓙には二枚の硬貨が並んだ。


「……ツギハギ男の隠れ家に向かっている」


 更にもう一枚、三枚目。


「……路地を抜けると“漂流屋”という、とっくに潰れた飯屋がある。そこがツギハギ男の隠れ家だ」


 占い師はそう言った。

 彼の言葉は、決して超常的な何かが手繰り寄せた予言のようなものではない。全ては自分の目と耳で知り得た情報で……即ち、“自称”占い師は、闇社会の伝言屋、興信所、もしくは情報屋を生業として、一番街を徘徊しているのだった。当然マリンカはその事を弁えている。

 マリンカは、どうも、と小さく呟くと、早足で路地を抜けた。

 通りに出ると、スラムなりに体面を保った街並みは終わりを告げ、ひたすら虚無的な廃屋が広がっていた。パドの街ができた当初は各区画の役割は不明瞭で、一番街の治安も特に悪くはなかった。街自体の拡大と変化によって徐々に犯罪者や亜人が増え始め、貧乏クジを引いてしまった一部の純血人達は、追い出されるように他の区画に移住した。新しい家主が見つからず、放置と荒廃を重ねた結果生まれたのがこの廃屋通りで、言わば街の成長によって発生した古い細胞のようなものだった。

 マリンカは家の死骸を横目に、そそくさと移動する。ほんの少し先を見ると、斜めにずれた看板に『漂流屋』の文字。


(あそこでありんすか……)


 辺りに人の気配は無い。彼女は出来るだけ足音を立てずに『漂流屋』の近くまでやってくると、そのまま隣の廃屋に忍び込んだ。ドアの一枚も無い、ただ壁と屋根だけの廃屋に忍び込むのは、実に容易な事だった。

 割れた窓ガラスからそっと顔を出すと、漂流屋の一階部分がまるっと一望できる。客席が全て撤去された空虚なフロアに、例の三人組、横たわったチルシィの死体、そしてツギハギの男。

 ベリーショートの女がツギハギ男の胸ぐらを掴み、何か罵声を浴びせているのを、栗毛の眼鏡が必死に制止しようとしている。顔面痣だらけの金髪は、壁際にへたり込んでぐったりとしていた。

 マリンカはメモを取り出し、聞こえてくる罵声から全員の名前を抽出する。クロエ、ジキタリス、マーシャ、パッチマン……そしてチルシィ。


(……パッチマンの声はあまり聞こえんですな。クロエって奴の馬鹿でかい声は丸聞こえでありんす。

『さっさと蘇生しろ!』『じゃあどうして起きないんだ!?』『畜生! どいつもこいつも畜生だ!』『こんな糞地獄はもう沢山だ! ポポーニャのアゴが外れるまで糞を食わせてやる!』……実に詩人でありんす。

 パッチマンは蘇生を拒否しているでありんすか? あるいはその必要が無いのか……第一幕はチルシィの蘇生と思ったでありんすけど、うだうだやってる間に第二幕が始まっちまいますな、こりゃ。

 第一幕はクロエのヒステリー。第二幕はポポーニャ異端審問官とバチバチ。あっしはそれらを観覧席で眺めるだけ。実にラクチンな仕事で……はうあっ!?)


 ビクッ!

 と、突然マリンカは全身を強張らせた。

 ほんの少し手を伸ばせば届く闇から、誰かがじっと彼女を見ていた。廃屋には先客がいたのだ。闇に紛れ、気配を殺し、マリンカにも気づかれない程に静かな先客が。

 先客は、少女だった。年齢は恐らく、十代そこそこ。驚くマリンカを見ても瞬きすらせず、ただ気の抜けた瞳でぼうっと見つめるのみ。

 ふと、くるくると巻いた少女の髪に、木の葉といくつかの蕾が生えている事に、マリンカは気がついた。


(……な、なんだ……トント族か)


 マリンカは、ほっ、とため息をついた。

 トント族に自分の意思は殆ど無い。単語レベルでしか会話や思考が出来ず、純粋に知性だけを問えばマニュエラ族以下である。

 しかし、彼らは欲望も無く、不平も不満も言わない。ただ無言のまま世界を見つめる姿が、他の亜人とは違う神聖な印象を与え、純血人すら彼らを無碍に扱わないのだった。

 ……ただし、普通の純血人は。


(トント族の娼家がさっきあったでありんすから……こいつは娼婦の子かも。うっかり孕んじまったんでしょうな。この世の深淵に生まれたガキンチョが、誰かのお慈悲でこうして隠し育てられてる訳だ)


 やれやれ、とマリンカがなんの気無しに窓の外を見ると、せっかくの安堵も束の間、まるで悪夢のような光景が彼女の視界に飛び込んだ。

 漂流屋にいる“お客さん達”全員と目が合ったのだ。

 マリンカは見間違いかと思い、思わず自分の目を擦って再び窓の外を凝視するが、悪夢は現実に他ならない。


「貴様、そこで何をしている!?」


 クロエの怒声。マリンカはまたも全身を、ぎくり、と強張らせるのだった。


(なんで!? なんでバレてんの!?)


 慌てて壁際に身を隠すが、既に手遅れなのは瞭然だった。

 トント族の少女はマリンカをじっと見つめながら、一言ぽつりと呟く。


「はうあ」


 ……呟きにはなんの意図も意思もない。ただ彼女の耳に入った言葉が、彼女の口から漏れ出ただけ。しかし、少女のオウム返しにより、マリンカは初めて自分の心の悲鳴が漏れていた事に気がついたのだった。

 漂流屋のドアを開く音。もうじき誰かが……恐らくは怒れる詩人クロエがここにやって来る。


(やばい……まずい……どうしよう……!)


 マリンカは狼狽えながら、あれこれと打開策を考えるが、ちっとも妙案は浮かばない。

 彼女はポケットからナイフを取り出すと、何を思ったかトント族の少女に向かって突きつけるのだった。


「ぶっ刺されたく無かったら、動くんじゃないでありんす」


 彼女の言葉は、実に冷ややかな響きを湛えていた。

 一方の少女に怯えた様子は無く、目の前の凶器の意味すらも理解していないのだった。

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