21 とんだ月と太陽

 ポポーニャの逃げ足は早かった。彼女はチルシィが銃弾で倒れるなり、全速力で部屋を飛び出した。呆気にとられるマーシャ達をそのままに、修道会の騎士たちの死骸をそのままに、捕われのヒューをそのままに。

 怨敵を逃したのか、あるいは見逃されたのか。何が起こったのかも分からないマーシャ達は、やがて我に返ると、動かなくなったチルシィを担いで、涙ながらに部屋を出て行った。彼女達の向かう先はパッチマンの元だ。副団長を再びゾンビ化させ、再度ポポーニャへの復讐を企てる……あらゆる未来を閉ざされた彼女達にはもう、そうするしかなかった。

 問題は、ポポーニャの抜け目の無さを彼女達が知っているかどうかだった。パッチマン(の持つ禁書)を求めて、ポポーニャは当然のようにマーシャ達の後を追いかけるだろう。

 銃を持った人間一人がどれほどの脅威となるか。チルシィのお腹にぽっかり空いた穴を見て、今のポポーニャが当代きってのバランスブレイカーである事に、マーシャは果たして気づいているのだろうか……。

 そんな事を考えながら、ヒューは酒場のベッドに縛られていた。誰からも置いてけぼりにされた彼は結局、この世界のたった一人の友達、小さな小さな女商人に助けられるのであった。


「……は、はうあっ!」


 部屋の中を覗くなり視界に飛び込む騎士の死体。マリンカは思わず奇声を上げた。


「な、何があったでありんすか!?」


 ヒューは彼女の姿を見た瞬間、生まれて初めて神に祈りたい気持ちになった。


「マリンカ! よく来てくれた! 早くこの縄を解いてくれ。時間が無いんだ!」


 言われずとも、マリンカはナイフを取り出しヒューを縛り付けていた縄を切り始める。


「ポポーニャは? ズッコケ三人組とやらは……? この死体の山は!? あんたを攫った連中は、修道会の騎士を五人も葬る凄腕だったんで?」


 忌まわしい縄からようやく自由になると、ヒューはゆっくりと体を起こした。全身が痛みを襲い、痺れる背中には感覚が無い。しかし、ここで休んでいる暇は無い。


「嘘と思っても構わないが、これをやったのはあのチルシィ副団長だ。あいつがゾンビとして蘇って、そこの窓から飛び込んで騎士を全て斬り倒した。あっという間の出来事だったよ」


「ゾンビ!」


 マリンカの声が裏返る。


「パッチマンって奴の仕業らしい。でも、チルシィはポポーニャの銃弾に倒れ、再び動かなくなった。チルシィを再起動させる為に、三人組はパッチマンの元へ向かった。ポポーニャはきっと連中の後をついて行っているだろう。奴の目的は……どうも禁書らしいからな」


 ナイフを鞘に納め、鞄の中に仕舞いこみながら、マリンカはヒューの言葉に耳を傾けていた。


「気づいてたでありんすか。その通り。奴は禁書を求めて一連の“絵を描いて”いる。グラスケージもきっとその一人で……いっそクララ・アンスラサイトも怪しいかもしれない。妙にまだるっこしいんでありんすよ、グラスケージを追うのに、わざわざクララ・アンスラサイトなんて名前が入るのが……。

 ところで、ジュウダンって何でありんす?」


 聞き慣れない言葉に、彼女は興味を向けた。


「拳銃の弾丸だよ。俺の世界の武器だ。多分、マリンカに言っても分からない。何で奴がそんなものを所持しているかも、さっぱり分からない。禁書が絡んでるのかも知れないが……物質をも転移させられるのか? キャンディ・マニュスクリプトってのは」


 そんな馬鹿な、とマリンカは言った。


「……馬鹿な事が起きているんだ。ひとつ確かな事は、三人組はもちろん、チルシィだってもうポポーニャには敵わない。真っ向勝負ならな」


 マリンカは拳銃というものを想像したが、見当もつかなかった。即効性の呪いか何かだろうか、と考えるのが関の山だった。


「……で、あんたは何を急ぐんで? あんたをこんな目に遭わせた三人組を、まさか助けに行くとか言うんじゃないでしょうな」


 ヒューは首を横に振った。


「そんなわけ無い。でも、誰かの血は流れる。三人組か、パッチマンて奴か……あるいはポポーニャか。どういう状況になるか、気になるところではある。

 俺が急いでるのは、クララ・アンスラサイトだ。彼女とは昼に、中央広場で約束してるんだ。やり掛けの仕事をやらなきゃ」


 気の抜けたような笑いを浮かべ、マリンカは立ち上がった。


「デートをすっぽかしたく無いってわけでありんすか。

 んで、あっしは三人組とやらを追いかけろと? こんないたいけな小娘を、ゾンビやら拳銃とやらが入り交じる血生臭い場所へ放り込むでありんすか?」


 やれやれ、と言った様子でマリンカは手を上げた。


「大人だろ、お前は」


 ヒューは小さく笑った。マリンカも笑った。


「いかにもあっしは大人でありんす。酒も飲むし、金も稼ぐし、人も殺してる。

 ……まあ、あっしが三人組を追いかけるとして、一つ問題がありますれば……あっしは連中の顔を知らない」


「死体を担いだ三人組だぜ。この世界じゃあありふれた光景なのか?」


 ヒューはよろよろとベッドから起き上がると、そっと死体を避けながら、部屋の出口へ向かう。平衡感覚が不安定で、重心が定まらない。思わず壁に手をつき、彼は気付けに頭を振った。


「大丈夫かいな」


 と、マリンカが言った。


「大丈夫。お前も気をつけろよ」


 ヒューはそう言い残すと、そそくさと部屋を出て行った。マリンカは彼の事を少し心配に思ったが、心に下ろした錨がぴんと鎖を張り、考えるのをやめた。今更彼を心配出来る立場じゃないし、いかなる同情も身を滅ぼすのみ。

 血生臭いのはずっとそうだ。ずっと復讐という名の地獄にいるのだから。マリンカは思った。あっしは酒も飲むし、金も稼ぐし、人も殺しているのだ……と。



 ヒューが中央広場にやって来ると、クララの姿はどこにも見当たらなかった。明確な時間が指定されていない以上、彼は自分が早すぎたのか遅すぎたのか分からなかった。あるいは結局、クララが来なかっただけなのかも知れない。


(……どこかで区切りをつけて、マリンカの応援に向かうべきかも知れないが……携帯が無いんじゃ、どこで合流すればいいかさっぱり分からないな。今すぐ踵を返すか、クララを待つか、どっちかだ)


 公園には疎らに人が居た。犬を散歩する老人や、木の枝を振り回して遊ぶ子供などは、ほとんど元いた世界の光景と変わらない。時折見える馬に乗った騎士や馬車の存在だけが、以前の世界とは違っていた。ただし、それも見飽きるまでだ。彼は一週間クララを追い続けて、この世界の当たり前が随分と馴染んでいた。

 ふと、明らかにこちらに歩を進める人物が一人、彼の視界に入っていた。

 その人物はフードを被っていたが、フードから流れる波がかった金髪や体つきで、女性だという事が分かった。そしてそれがクララじゃないという事も。

 フードの人物は露骨に怪しく、きょろきょろと周りを見回していた。やがて数歩先にまでやって来ると、小走りで彼の元へと駆けつける。ヒューは思わず、ぎくり、と全身を硬直させた。


「ヒューラン・レンブラントってアンタ? アンタでしょ?」


 女性はフードを被ったままそう訊ねた。無遠慮で、早口で、一刻も早く目的を果たそうとしている様子だった。

 フードの中から覗く挑戦的な瞳に、ヒューは見覚えがあった。彼女の圧倒的なスター性は、彼の中にも色濃く残っていたからだ。


(……メリル・アンスラサイト! クララの姉だ! どうして!?)


 ヒューは驚きつつも平静を装い、ヒューランですけど、と小さい声で呟いた。


「ヒューラン……さんってつけた方がいい? 貴族じゃないわよね。貴族とか富豪との繋がりは? 無いでしょ? じゃあ“アンタ”って呼ぶわ。

 ほんの二、三分後にクララがやって来るから、手短に話す。アンタ、クララが何を読んでるか知ってる?」


 マルスデロームの幽霊、とヒューは言った。


「『知らない』と同義ね。とにかく、アンタこのままじゃヤバイわよ。アイツが古書店で何の本を買ってるか……」


 メリルは遠くにクララの人影が見えると、小さく舌打ちをした。


「……とにかく! あいつの誘いに乗らない事。鼻の下を伸ばしたら後悔するわよ。アンタ、どこに住んでるの? ブタ小屋?」


 そこの宿屋に泊まっている、とヒューは言った。

 メリルは返事もロクにせず、遠くに見えるクララとヒューの顔を交互に見ると、『アタシに会ったって言わないでよ、ヒューラン“さん”!』と吐き捨てるように言って、その場を走り去った。突風のように過ぎ去るメリルに、ヒューは少なからず面食らった。おまけに真意が少しも理解出来ない。彼女はある事を伝えたがっているのに、また別の事は伝えたがっていないようで、非常に歪な印象をヒューに与えていた。

 まるで月と太陽のように、メリルの代わりにクララがやって来た。彼女は例の革張りの上等な鞄を携えて、真っ黒の日傘を差していた。全身を包むワンピースも真っ黒で、肌だけがゾッとするほど青白い。

 ヒューの前に立っても、クララは何かが気がかりな様子で、キョロキョロと広場を見渡していた。


「……まさかと思うけど、ここに誰か来ませんでした?」


 誰かって? と、ヒューは言った。

 クララは何かを言い淀むが、それははっきりした言葉にならなかった。次に出てきた言葉は、まあいいわ、だった。

 クララは座ろうともせず、じっとヒューの顔を見ていた。無感情で冷たい瞳。ヒューはだんだん気まずくなり、思わずメリルの事を話そうとしたが、やはり思い止まった。口止めされたからというより、メリルの言葉の真意が分からなさすぎた為だ。うっかり紐解いてしまえば、どんなものが飛び出してくるか分からない。

 何より、気がかりなのは、あのメリル・アンスラサイトが直々にやって来た事だ。傲慢で自分が世界の中心だと考えているあのメリルが、何故わざわざこんな薄汚い元傭兵の元へ?


「……最近、姉の監視が厳しくて」


 はぁ、とため息をついて、クララはヒューの隣に腰掛けた。


「悪い事でもしたのか?」


 ヒューの質問に、クララは首を横に振った。


「……異常に過保護なんです。昔からですけど、最近は特に酷い。私を守るつもりで、閉じ込めている。私を愛しているし、憎んでいる。私を遠ざけたいのに、私を離さない……まあいい、まあいいんです。それが私の人生。私達姉妹なんです。それに……」


 少し、ほんの少し、クララは頬を緩めた。笑顔には程遠いが、分厚い曇天のような彼女の表情に晴れ間の兆しが見えたのは、これが初めての事だった。


「それに、これから復讐しますから」


 ヒューは苦笑いを浮かべた。

 また復讐か、と。

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