20 とんだ妖精

 ヒューは酒場『ネオネオ』の二階に縛り付けられたまま、目覚めの悪い朝を迎えたのだった。

 例の三人組はヒューが何の為にポポーニャとつるんでいるのかを理解し、もうそれほど彼を怪しんではいなかった。しかし、内情を知った人間をこのまま放流する訳にもいかず、言わばでかいお荷物を抱えてしまっている。彼の今後については、三人の間でも意見が分かれているのだった。


(……いつまでこうしてなきゃいけないんだ?)


 と、ヒューは思った。

 彼の頭には、クララの事がある。今日の昼……あと数時間の間には中央広場に行かなければならない。もし間に合わなければ一週間の苦労が台無しになってしまうし、グラスケージへの道のりはふりだしに戻ってしまうだろう。

 ……そして何より、彼女を失望させてしまう。

 クララ・アンスラサイトの失望はマリンカやポポーニャの目的にそこまでの影響は無い。あるいは、全く問題ないのかもしれない。しかし、ヒュー自身が彼女の失望を喜ばしい事とは思えなかった。

 それは至って素朴な感情だった。即ち、“彼女は人生に悩んでいる”。そして、“悩んでいる人をがっかりさせたく無い”。いち小市民じみたちっぽけな感情だが、それこそが今の彼には何よりも大切に思えた。それは異世界に来て見失っていた自分を取り戻す為の道標であり、とんでもない状況に自分を漂流させない為の錨だった。

 なのに、数時間どころか何日も動けないかも知れない。彼の焦燥感は次第に炎の様な熱量を帯び始めていた。満足に休めない事も加えて、三人組の理不尽さに、今更ながら苛立ちを募らせる。彼のストレスは破裂寸前だった。


(何とかここから逃げ出さなくては。大袈裟に騒いでみるか? 殺人集団だぞ? 一人殺してるんだから、二人殺しても一緒……特にこいつは、そう考えてもおかしくない)


 部屋の隅に佇むクロエ。見張りはジキタリスに代わって、彼女が担当していた。


(……マーシャならまだ協力してくれそうだけど……こいつはダメだ。人を信用しないし、頑固だし、ちょっとイカれてる。何をされるか分かったもんじゃない。『面倒だからさっさと殺そう』なんて言い出すのは、まずこいつだろうしな……畜生!)


 そんなヒューの思案を知ってか知らずか、クロエもまたベッド男にイラついていた。疑いが晴れた今でも、彼女だけはヒューを敵視していた。ヒューがポポーニャの目的に利用されているだけでも、彼女の定義からすると二人は十分に“仲間”と言えた。

 ヒューの不安通り、クロエの胸中には『面倒だし始末してしまいたい』という思いが存在した。それは彼女自身にとっても極端な意見の一つだが、何をきっかけに判断のプライオリティが変動するかは分からない。この状況で冷徹になりきれない自分に、彼女は自責の念すら感じている。

 ふと、クロエとヒューの視線がぶつかった。寝不足のため、彼女は露骨に不機嫌そうだった。


「何を見ている、アホ面」


 クロエが言った。


「……」


「聞こえていないのか? 何を見ている、と言ったんだ。その二つの目玉が大事なら、こっちに向けるな」


「……どうして人を殺せるんだ?」


 小市民の素朴な疑問。

 ちっ、とクロエは舌打ちをし、彼の疑問に、やや早口で、苛立ちを隠さずに答える。


「先に副団長を殺したのはあいつらだ。ポポーニャ異端審問官をあの世に送るまで、私達は止まらない」


「復讐か?」


「我々は副団長の無念を晴らすだけだ。あの人が志した正義の敗北を認めるわけにはいかない」


「正義……?」


 ヒューはクロエの言葉に、皮肉な感情をありありと乗せて笑った。


「お前ら、こんな事をチルシィ副団長が望んでると本気で思ってるのか……?」


 クロエの行動は速かった。ヒューの腰高な物言いを聞くなり、あっという間に懐からナイフを抜き、ざくり、と彼の枕元につき立てる。――彼女の肉体は、しばしば彼女の思考を必要としなかった。


「見当違いをほざくな」


 酷く沈んだ口調だった。

 しかし、ヒューも負けてはいない。


「……見当違いなら、無視してろよ」


 ヒューの冷ややかな視線と白々しい態度が、クロエの癇癪にあっという間に火をつけた。心の中で渦巻く様々な感情、吹き出す汗。正義と悪、達成と後悔。行き場の無い衝動が、彼女自身をバラバラにしてしまいそうだった。


「だったら……どうしろと?」


 クロエは言った


「だったらどうしろと言うんだ? 正義はどこにある? 耐え忍ぶ事か? 臍を噛むだけの正義なんぞ、強者に敗北した人間の負け惜しみ……ただの自己憐憫だ!」


 突如感情を剥き出しにするクロエ。ヒューは哀れに思った。衝動的な行動の末に待っているのがただの破滅だと分かっているはずなのに、それを正義にすり替え、必死に自己正当化している事に。

 ジキタリスもいる。マーシャもいる。罪悪感も幾分かは分断されたに違いない。しかし、破滅は三分割されない。きっちり三人分と、そしてそれに巻き込まれた人々の悲しい幕切れが待ち構えている。


「チルシィ副団長様の威光とやらが、お前達を狂わせたのか?」


「副団長を愚弄する気か!」


「違う。お前らを愚弄してるんだよ」


「何……?」


 牙を剥き出しで、噛み付かれそうなほど顔を近づけるクロエに対して、ヒューは言葉を選ばなかった。


「チルシィ副団長は君らを守って死んだのに、君らは誰も守らずに死んでいくんだ。自分自身さえ守らずに。

 俺にはそれが正義とは、到底思えない。ただの破滅だ。愚かな心中だ。ヒステリックなワガママだ。愚弄の一つもしたくなるってもんだ……!

 お前達が今やっている事を、生前のチルシィ副団長に言えるのか? 果たして彼女が何と言うか、想像した事はあるか?

 ……ま、想像の中の彼女だったら、お前を優しく褒めてくれるかもな! お前達はどうも、事実を歪めて捉える才能があるらしい。お前に都合の悪い事は“嘘”であり、“見当違い”であり、“悪”なんだ。そして、世の中や他人をその通りにしなければ気が済まないんだ」


 クロエは彼の言葉を理解出来なかった。意味ははっきりと良く分かるのに、ただただヒューの声が音として彼女の中に入り込み、するりと出て行くようだった。それは彼女の中にあった“直視してはいけない問題”に、核心に、彼の言葉が非常に近かったためだ。

 また、ヒューも自分が止められなかった。理由も無く、打算も無い。彼は自分の口がまるで誰かに操られてしまったように、自分の意志とは無関係に喋り続けた。彼のストレスは、すっかり彼を捨鉢にさせていた。


「君らが終わらせたんだ。チルシィ副団長の信じた正義を、未来を。

 最初はお前達を狂信者と思ったが、全然違った。そんな言葉、お前達には勿体無い。お前ら三人は、お前ら自身が敬愛するチルシィ副団長を裏切って、エゴイスティックな衝動に身をやつしたんだ。お前達こそ、チルシィ副団長を愚弄したんだ。騎士でも無ければ、もちろん正義でも無い」


 黙れ、と呟き、ぎゅっとナイフの柄を握るクロエ。

 破滅はそこまで迫っている。


「……お前達はチルシィの心を踏みにじったんだ……!」


 もう一度、黙れ、と彼女は言った。しかし、ヒューはやめなかった。


「お前達は、“裏切り者”だ!」


 クロエが大きくナイフを振りかぶって、ヒューの目玉に振り下ろそうとした瞬間……ぎぎぎ、というドアの軋む音が彼女を飛び上がらせた。

 ヒューの破滅より、クロエ達の破滅の方がほんの少しだけ先だった。

 部屋になだれ込んだ修道会騎士の数は五人。奥には既に捕らえられているジキタリスとマーシャの姿があった。マーシャはただただ恐怖に震えていたが、抵抗したであろうジキタリスは全身を殴打され、ぐったりとしていた。

 騎士達の背後にぬるっと佇むポポーニャ異端審問官。クロエの顔つきは瞬時に深く殺意の淵に沈み、ナイフを構えた。


「お楽しみのところ申し訳無いれふね! わらしはハルバルビスコ会修道士ポポーニャ・ストロベリーフィールズ異端審問官。異端者チルシィの亡骸を盗んで神と教会を冒涜した罪、アルテリア会議を持って定められた『異端審問制度』に基づきクロエ・カーニーの出頭を命じる。拒否すれば教会からの破門及び拷問ののち火刑と処す。これ召喚状。免罪符は売り切れ!」


 ポポーニャがまくし立てるような早口で言い終わると同時に、クロエは騎士の一人に飛びかかった。

 彼女のナイフは騎士の喉元を捉えたが、甲冑の下の鎖帷子によって刃は通らない。それでも尚、くるりと身を翻し、もう一本のナイフで斬りかかると、焦げた臭いと共に騎士の装備は無残に破損した。

 小娘一人とタカを括っていた騎士が、予想外のひと刺しに思わず仰け反ると、クロエはダメ押しの追撃を相手に加える。

 が、多勢に無勢。すぐ脇に控えていた騎士の鉄拳が、彼女の顔面を砕いた。

 地面に転がるクロエをあっという間に騎士たちが取り押さえ、彼女の一世一代の反逆はささやかに幕を閉じた。それは同時に、彼女の人生の幕切れでもあった。


「ポポーニャァァァッ! 下衆! 畜生! 悪魔! ウジ虫! 外道! 殺す殺す殺す殺す! 殺すうぅぅぅぅッ!」


 ポポーニャは自分の耳に人差し指を突っ込み、わざとらしくしかめ面を浮かべた。


「殺す殺すって、あんたも一応は騎士見習いれしょうが。言葉を選びなはいよ。あなたも来世は友達を選びなはいね、マーシャちゃん。マーシャちゃん?」


 ちらり、と捕縛されているマーシャの方を見るポポーニャ。

 が、マーシャの視線は”友達”にも”異端審問官”にも注がれていなかった。

 刹那。

 凄まじい勢いで割れた窓ガラス。きらきらと破片が部屋中に散らばり、黒いローブを纏った人影がベッドの上に落ちた。


「うげぇっ!」


 ヒューの苦悶は、その場に居た誰の耳にも入らなかった。目の前で起きた異常事態に、誰もが凍りついていた。

 異常なのは、窓ガラスをぶち破った事では無い。ローブの中から現れた相貌が、あの副団長チルシィその人だったのだ。


「……チル……!?」


 五つの死体が出来上がるのに、ほんの瞬き程の時間もかからなかった。

 朝日を反射した剣の残光が部屋を舞い、追いかけるように血飛沫が咲き乱れる。

 ”騎士の剣は飾り物ではない”というチルシィの信念は、生前の錬磨と彼女自身の才能を持って、彼女の剣術を国内随一の高みにまで昇華していた。

 剣の妖精と呼ばれた彼女には、そこいらのソードマンが何人束になろうと敵わず、彼女が死してなおその輝きは増しているのであった。――この世界ではマナの強さこそ、その人の強さとなる。


「ほんとに生き返ってるー!」


 返り血を浴びながら、何故かポポーニャは両掌を合わせ、満面の笑みでそう言うのだった。

 残心もそこそこに、じろり、とチルシィは怨敵を睨みつける。色の違う肌とその継ぎ接ぎ、何より彼女のこの世のものならぬ凄みに、傍から見ていたヒューは思わず身震いした。


「それはパッチマンの仕業れふか!? ゾンビなんれふか!? どこに居るんれふ、パッチマンは!?」


 剣の切っ先をポポーニャに向け、チルシィは口を開いた。


「会いたいなら会わせてやる。そして、私のようにツギハギまみれの化物になるがいい」


「それは嫌れふね~。自慢のお肌れふので」


 虚勢か、はたまた慢心か。

 チルシィの絶世の剣術を見ても、事実上の敗北と言うべきこの状況でも、ポポーニャはまだ愉快に笑みを浮かべていた。

 ポポーニャという人間の深淵が、悪辣さが、目の前の変わり果てたチルシィ以上に『化物』と呼ぶべき禍々しさを垣間見せるのだった。

 やがて、チルシィが踏み込もうとした瞬間、ポポーニャが懐から何かを取り出す。得もしれぬ嫌な予感が、ぞくり、とチルシィの全身を襲う。

 けたたましい破裂音が二度。チルシィは目の前のポポーニャに剣を突き立てる事も叶わず、何が起こったのかも分からず、地面に横たわったまま動かなくなった。

 マーシャ、クロエ、ジキタリスは唖然としていた。やっと差し込んだ太陽が、突然二つに割れて、海に落ちてしまったようだった。

 ……しかし、ヒューにだけはすぐに理解出来た。どうしてそんなものがここにあるのかという疑問はさておき、何故チルシィが倒れたのかは100%理解出来る。

 ポポーニャが手に持っていたのは拳銃だ。

 この世界にあるはずの無い回転式拳銃リボルバーだった。

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