18 とんだ化物

 長い長い静寂が彼女を包んでいた。

 色もな無く、音も無く、永遠に近い時間を彼女は彷徨っていた。肉体を離れ、情感だけの存在として、広く大きい波動にじわじわと溶けていく。その解放感は彼女に『生きているよりずっと良い』と感じさせるのだった。

 それは非常に幻想的な体験だった。いくつもの世界が星の数ほど存在し、初めて触れる筈の感触に、ああそうだった、と不思議な既視感を得る。新鮮さと懐かしさが入り混じった、この世のものとは思えない得もしれぬ感触。不安も無く、孤独も無い。そして無限の安心感だけが続いていく。

 現世の出来事は全て記憶から遠く離れ、彼女の脳裏に浮かんだのは、ほんの一つか二つ、ガラスに映る風景のような曖昧な映像だった。それは幼少の頃に見たなんのことは無い風景と、死の直前に見た燃え盛る炎。

 どうして今更こんなものを思い出すのだ? と、彼女は思った。そんな記憶は、もはや彼女には不要なはずなのに。

 しかし、それらを皮切りに、彼女の記憶は急速に再構築され始める。散らばったアルバムの写真を集め直すように(彼女は写真という存在を知らないが)、少しずつ少しずつ、彼女は自分を取り戻していった。自分を慕う人々、家族、すれ違って名前も知らない人々、自分を殺した張本人の顔。住み慣れた町の風景、埃臭い宿舎、自分の大好物、剣の重み、騎士団の誇り、そして……炎の熱さ。

 ああ、また私はあそこに戻るのか! と彼女は思った。不自然な魂が肉体に根付くまでのしばらくの時間、彼女の脳裏には一人の怨敵が満月のようにぽっかりと浮かんでいた。

 ポポーニャ・ストロベリーフィールズ。

 ネズミの糞を集めて捏ねたような、おぞましく不潔な精神を持った、外道の中の外道……。


 チルシィが目覚めた時、周りには誰も居なかった。妙に静かでボロい部屋に一人きり、たっぷりと孤独を味わうのだった。同時に、そうだ、この孤独こそが現世だ、と彼女は思う。

 ずきん、と痛む両足。彼女は思わず布団を捲った。シャツの下はパンティだけで、つま先から足の付け根まで、ぐるぐると包帯が巻かれている。痺れが邪魔をして、痛みの場所が分からない。痛み? 確かに痛みだった気がする。

 次に気になったのは、自分の両手だった。包帯が手の先からシャツの中に走っていて、ぐっと握ると、非常に弱々しい握り拳しか作れない。痛みは無く、それが逆に借り物の体のように頼りない。

 窓ガラスに反射した自分の顔を見ると、まるでミイラのように顔面にまで包帯が巻かれていた。ほつれ掛かった先端を引っ張ると、顔を覆っていた白い布切れははらはらと解けていく。

 首筋にはちらりと縫合の痕。ガラスの亀裂が光の反射角を変えており、顔の半分しか見えない。ゆっくりと体を傾けて、もう片方の顔面を見ると……彼女の美貌は、雪のように白い肌は、炎の暴虐に食い荒らされた後だった。正確には、食い荒らされた上に修繕された後だ。他人のものらしい色違いの皮膚が、縫合痕を境目に顔半分を覆っていた。


「……これが騎士の顔か?」


 と、彼女は思ったし、そう口に出した。多少の自嘲的な笑みとともに。

 ぎしり、と軋む床の音。彼女ははっとした。


「騎士の顔は一色だけって決まりがあるのか?」


 聞き覚えの無い声に、彼女は思わず身構えた。肌身離さず持っていた愛剣はベッドの周りには見当たらない。


「誰だ!?」


 チルシィは開け放たれたドアに向かって叫んだ。声は部屋越しに聞こえていた。


「神です」


 と、一人の男がゆっくり姿を現した。

 男……と言うには些か年が若すぎるかもしれない。十代半ばの少年で、陰気で、肌は浅黒い。服は奇妙な程に継ぎ接ぎだらけで、綿だろうと、麻だろうと、鉄だろうと、使えるものは気にせず使っている。

 少なくとも神には見えない少年に、チルシィは警戒心を募らせた。怪しい奴という言葉で片付けられない程の見てくれはともかく、神を自称する人間がまともなはずが無い。

 少年は手に木のコップを持っている。彼が数歩足を進めたところで、ベッドの上の患者は『近づくな!』と声を上げた。


「お茶だよ」


 と、彼はチルシィに手渡すのを諦め、ベッド脇のテーブルにそっとコップを置き、同じようにそっと手を離した。何もおかしい事はしていないよ、と両手を広げて見せる。

 ……こうしてベッドで再び起き上がれたのは、もしやこの少年のお陰かもしれない。誰かが看病をしなければ、こんな風に生きているはずが無いのだから。コップの中でゆらゆら揺れる液体を見ながら、チルシィは何となくそう考えた。


「……いくつか質問がある。三つだ」


 彼女が言うと、少年は頷いた。


「一つ、君は何者だ」


 少年はまた、こくり、と頷いた。


「僕の名前は……まあ……何ていうか……忘れた。人はこの姿を見てパッチマンと呼ぶ。今のあんたはさながらパッチガールだけど、軽口は慎む事にしよう。

 僕が何者かと言われれば……神。悪魔かもしれない」


 パットマンという少年の回答は、チルシィの納得のいく内容では無く、彼女はほんの少し顔をしかめた。


「そうか。私は君の言葉を一語一句覚えている。後悔の無いように答えるんだな。

 二つ目の質問だ。ここは何処だ」


「メルギア王国領。商業都市パドから東に伸びる森林地帯のどこか。つまるところ、僕の家」


「迷いの森か」


 チルシィは場所の通称を口にした。立ち入った人間が帰って来ない事で有名な樹海だ。樹海は山脈に続いており、その山道でヒューは転移した――もっとも、今その話は関係無いが。


「三つ目。これが一番大事な質問なのだが……どうして私は生きている?」


 チルシィはそう訪ねる。

 パッチマンはブラックホールの様な真っ黒な瞳で、質問者の顔を見ていた。感情らしいものは見えず、しかし、決して無垢という訳ではない。言うなれば、ぎゅうぎゅうに圧縮されたカオスが瞳孔に宿っているような、混色の果てに作られる黒だった。

 チルシィは内心困惑した。これは本当に少年の目なのか? 見てくれとは全く違う化物が、彼の瞳を通じてこっちを見ているようだ……と。


「その質問は、そもそもの前提がおかしい」


「前提? 何の話だ」


 うーん。と、パッチマンは腕組みをし、何かを思案する。


「……この話をしない事には、どうしようも無いからなぁ……」


 パッチマンは面倒臭そうにそう言った。

 ふと、チルシィは自分が珍しく苛立っている事に気がつく。このパッチマンという少年が勿体ぶれば勿体ぶる程、どういう訳か足の傷がじんじんと疼きだす。火傷の治療の一環だろうか? 何かおかしな特効薬でも使ったのか? と彼女は思った。


「がっかりしないで欲しいな」


 と前置きし、パッチマンはようやく三つ目の質問に答えた。


「チルシィ・ジファール元副団長。あんたはとっくに死んでいる。その体はただの器で、あんたの魂はそこに仮止めされてるだけだ。

 ドキッとした? でも、あんたの心臓は動かないよ。だからドキッとしない。なんてね。マナの自浄作用が何とか腐敗を食い止めているけど、あんたの命は……いや、命なんて言葉を使うのは紛らわしいな。あんたが動けるのは、せいぜいあと三日ぐらい。

 僕の役目はここまでだし、僕に出来る事は何も無い。残された三日間であんたが何をしようと勝手だが、僕の名前は出さないで欲しいな。あんたを連れてきた三人連れの女の子達は……」


「待て」


 力ない声で、チルシィはパッチマンの言葉を止めた。


「私は死んでいるのか?」


 そう、とパッチマンが答える。


「……私はゾンビなのか?」


 そうです、とパッチマンが答える。

 チルシィはもう一度、ガラスに映った自分の顔を確かめ、次に慌てて自分の足に巻き付いた包帯を剥がす。乱暴に、ずたずたに引きちぎった。

 ……中から現れたのは、確かに人間の足だった。しかし、長年見てきたはずの自分の足とは、似ても似つかない。皮膚の色も、肉のつき方も、骨の形も全然違う。

 パッチマンは咳払いした。


「足の損傷が激しかったんで、あんたの部下が持ってきた死体の足をもぎ取って修繕パッチワークした。こう見えて得意なんだ。皮膚もだ。パーツの前の持ち主は確か……メルビィ……? 都合良く仕入れる事が出来たらしい。ま、何でもいいか。たぶん動くと思うけど、何か不具合は?」


 チルシィはぐるぐると目眩に襲われ、焦点の合わない目で借り物の足を眺める。彼女は初めて両足に走る激痛の正体を理解した。己の魂が、他人の肉体を本能的に拒絶していたのだ。

 高潔だけを胸に誓った人生が、精神と肉体が、おぞましい化物と成り果てた現実に耐えかね、彼女の気分はどんどんと落ち込んでいった。止めどなく落ち込んだ心に、やがて絶望が去来し、世界から色彩が失われ、全てが真っ暗になる。

 大丈夫か、とパッチマンが声をかけた瞬間、彼女は激しく嘔吐した。

 胃の中に残っていた残骸は、生前には消化されきれず、とっくに腐り果てていた。

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