17 とんだ蜘蛛の巣

 猫目のベリーショートが一番速かった。彼女は二本のナイフを十時に重ねて、構えた剣ごと彼を壁に叩きつける。最初から攻撃では無く、彼の動きを封じる事が目的だった。

 強烈な勢いに目を白黒させるヒューだったが、しかし、体格差はあまりにも大きい。彼はじりじりとナイフを押し返し、相手がやや劣勢になった隙に、思い切り猫目ベリショを押し返す。続けざま、フラついた相手の土手っ腹を思いきり蹴り上げた。ベリショはガマガエルのようなうめき声をあげ、くの字に蹲る。鼻を削がれかけた事を考えれば、彼の良心はこれっぽっちも痛まない。彼女が落としたナイフを、ヒューはバーの隅に蹴り飛ばした。

 続いて襲いかかってきたのは、ブロンドボブヘアー。彼女は軽やかにフェイントを入れつつ、独特の呼吸でヒューに斬りかかる。叩ききるのでは無く、急所をピンポイントに狙った太刀捌きは、どこかフェンシングにも似ていた。

 腕に一箇所、足に二箇所の浅い切り傷をつけられ、ヒューは慌てて壁伝いに距離を取った。彼の剣術ごっこでは、全く歯が立ちそうにも無い。おまけに彼の視界の端にはふわふわ栗毛がおり、虎視眈々と彼の隙を狙っていた。

 彼女らは若いが、一端の剣士達だ。ヒューも素人ながら、これがごっこ遊びじゃない事を身を持って痛感する。


(殺される!)


 彼が思ったのは、ただその一言だけ。

 ブロンドボブが再び例の華麗な剣術で彼に襲い掛かろうとした瞬間、ヒューは相手に剣を放り投げ、バーのテーブルを強引に持ち上げた。剣士が剣を捨てるはずが無いという先入観から、すっかり虚を突かれたブロボブは、そのまま彼の即席盾に力で押し込まれ、壁に激突した。テーブルと壁にサンドイッチにされた彼女の手から、からん、と剣が落ちる。ヒューがテーブルを押し付ける力を緩めると、彼女はずるずると地面に崩れ落ち、そのまま動かなかった。

 残るふわふわ栗毛だが、彼女は何故かパンツ丸出しのまま床に転がっていた。椅子に足を引っ掛けて転んだらしかった。頭を強打し、しくしく泣いている。彼女はあまり戦闘に向いているタイプでは無かった。

 と、突然、ヒューの視界に火花が走る。いつの間にか回復していたベリショのハイキックが後頭部に炸裂したのだ。手足の先まで痺れがほとばしり、彼の肉体は彼の意思に反し、地面に膝を付いてしまう。

 ベリショの腕が彼の首を捉えた。この技は彼の世界にももちろんあった。裸絞、スリーパーホールド、チョークスリーパー、バックスリーパー……どれが正しい呼称か、彼には分からない。ベリショはヒューの腕ごとがっちりとカニばさみで動きを封じ、頭突きもできないほど頭部を密着させている。彼はさながら、蜘蛛に絡み取られた獲物のようだった。


「ニセモノ野郎」


 ベリショがそう囁くと、ヒューの足が何度か虚しく宙を空振り、やがて全身から力が抜けていった。

 俺は一体何をしているんだ?

 これは一体、どういう訳なんだ?

 彼の最後の思考はそれで、当然回答を得られるはずも無く、安らかな失神の世界へと誘われるのであった。


 それからどれぐらいの時間が経っただろう。

 彼が目を覚ますと、外はすっかり真っ暗になっていた。半日か、半日と一日か、あるいは一週間か。時間の感覚がまるで無かった。

 見慣れない部屋に全身ぐるぐる巻きのロープ。床からがやがやと人の声がするのは、きっとここがさっきのバーの二階だからだ、と彼は思った。

 身動き一つ取れず、ぼんやりとした思考。揺れる焦点が定まるにつれ、彼は徐々に自分の置かれた状況に……自分が”蜘蛛の巣”にいるという事実に現実感が追いつく。

 あの三人組は一体何なんだろう? 彼はこの瞬間、初めてそう考える。


(パッチマン? 遺体? 俺は何かを忘れているのか? 身に覚えの無い事でどうしてこんな目に遭わされるんだ? ポポーニャの仲間とか何とか……あいつと何かしらの因果関係のある連中なのは確かだが、それにしても……このままだとヤバいぞ……)


 と、その瞬間。彼は自分に覆い被さる影にぎょっとした。

 ブロボブが彼の顔を覗き込んだのだ。

 彼女はヒューの突進で鼻の骨が折れたのか、例のスカーフの代わりに包帯を顔面に巻いている。包帯越しにも分かる怒りの形相。彼は思わず身震いした。


「……だから男は嫌いなのよ。クソ虫」


 彼女はそう言った。


「……ロープを解いてくれないかな。ベッドが固くて、腰が痛い」


 まるでヒューの言葉が通じなかったように、ブロボブは彼を無視した。彼女はつかつかと部屋の対角線上にあるタンスに近づくと、何も入っていない花瓶を手に取り、ちらり、と振り返った。

 大事そうに抱えた花瓶をどうするのか。ヒューは嫌な予感がした。目には目を、歯には歯を、鼻には鼻を。真っ直ぐにこちらに近づいてくる彼女を見て、彼の予感は確信に変わる。


「物は大事にしなきゃダメだ」


 ヒューは言ったが、やはり彼女に言葉は届かなかった。ブロボブは花瓶を両手で持ったまま、ゆっくりと振り上げる。

 と、その時、人の声を聞きつけたふわふわ栗毛が部屋にやって来ると、友人の凶行を目の当たりにし、ひっ、と小さく悲鳴を上げた。


「……ちょ、ちょっとちょっと! ジキタリス! 何やってるのよ!」


 タイミング良く入ってきたふわふわ栗毛に羽交い締めにされ、ブロボブ……ジキタリスと呼ばれた少女は、うっかり花瓶を手元から落としてしまった。自由落下の末、花瓶は当初の目的通りの着地点……即ち、ヒューの顔面に命中した。

 ごつん、という鈍い音が部屋に響き渡る。花瓶も顔面も割れなかったが、その分逃げ場の無い運動エネルギーは彼の肉と骨をしたたかに傷めつけた。彼は激痛から逃れる為にじたばたとベッドの上でもがき苦しんだが、彼が出来たのはせいぜい拳を握る事と、足の指を丸める事だけだった。


「ぐう……うあああ……」


 目から大粒の涙が溢れた。彼の無様な有様を見て、ジキタリスは徐々に落ち着きを取り戻す。


「……こんな奴がヒューラン・レンブラントな訳がないわ。凄腕の傭兵ってのは、嘘っぱちだったわけ?」


「でも、マスターも言ってたよ。確かにこの顔はヒューランだって。昔一緒に戦った事があるんだって」


「嘘くさ」


 ジキタリスの手をゆっくりと気をつけの位置に戻しながら、ふわふわ栗毛は言った。


「数年前に魔族(純血人と共生出来ない亜人の俗称)とイザコザがあった時のヒューランは、まさに獅子奮迅の活躍を見せてたって。彼はソードマンの中のソードマンだったって、マスターはそう言ってた」


「自分の剣を投げ捨てるソードマンがどこにいるのよ!」


 せっかく気をつけの位置に戻した両手を振り上げて、ジキタリスは怒った。


「……もしかしたら、中身だけ違うのかも」


 ふわふわ栗毛の言葉に、ヒューはぎくりと身を強張らせた。


「中身? どういう事?」


「……”キャンディ・マニュスクリプト”は一冊じゃないって、パッチマンは言ってた。降霊術の伝説は、過去の文献にも見かけるし」


「聞き出せば良い」


 と、部屋に入って来るなりベリショは二人の会話に割って入った。


「その為にここに連れてきたんだ。どんな手段をとっても構わない。マーシャ、どうしてジキタリスを止めた?」


 ふわふわ栗毛ことマーシャは、だって……と言葉を濁し、タカ派の二人に尻込みする。

 ベリショはつかつかとベッドに近づくと、勢いよく自分のスカーフを剥ぎ取った。髪型もそうだが、彼女の顔立ちもさながら美少年で、そして驚くほど若かった。


「私の名前はクロエ。ヒューラン・レンブラント、無事に帰りたければ本当の事を言え。私が一番キライなのは嘘つきだ。私達は大嘘つきに騙されて、最愛の人物を亡くした」


 クロエの言葉を聞きながら、マーシャもするするとスカーフを取る。彼女に関しては、その眠たげな眼が一番印象的で、スカーフの下は特筆すべき特徴が無かった。そして、やはり若い。十代なのは間違い無かった。


「……ヒューランさん。私達はこう見えて、元々は騎士見習いだったんです。それがこんな人攫いにまで身を落としたのは、理由があるんです」


 マーシャはゆっくりと、しかし深く自分の心情を伝えようと、言葉を続ける。


「私達は元々、とある騎士団に属していました。世界最高の騎士が居る憧れの場所に、私達は死に物狂いの努力で入団出来たんです。

 でも、私達は間違いを犯してしまった……言い訳にしかなりませんが、あんな本を見なければ、私も自分で描こうなんて思わなかった。

 絵本です。ただの絵本とは違う、人の欲望の写し鏡のような……まるで悪魔の誘惑のようなあの本を、メルビィという人物に見せられた時から……私達は静かに狂い始めた。

 ……あれがキャンディ・マニュスクリプトの一種だったなんて、その時の私達は知るよしも無かった。

 メルビィは私達の一つ上の先輩で、修道院からここに来た生粋の信徒。私達の“間違い”をポポーニャが知っていたのも、二人が教会で繋がっていたから。そもそも、この筋書きはポポーニャが用意したものだと、メルビィは死ぬ間際にそう言っていた」


「……死んだ?」


 ヒューはそこで、ようやく言葉を発した。


「ぶっ殺したわ。じゃなきゃ私達が罪に耐えかねて自殺してた。だから騎士を辞めた」


 ジキタリスの言葉に、そうなんだ、とヒューは呟いた。


「死ぬ間際の人間は、何でも喋る。キャンディ・マニュスクリプトの事、ポポーニャがそれを収集している事、この町にもそれがあり、ポポーニャの目的はその所有者と噂される人物だという事」


 ヒューは思った。ポポーニャの目的の人物と言えば、一人しかいない。


「グラスケージか?」


 彼の言葉に、三人は思わず顔を見合わせた。


「グラスケージって……グラスケージ商会の若旦那? 何であいつの名前が?」


 ジキタリスは不思議そうにそう訊ねる。


「グラスケージじゃないのか?」


「パッチマンじゃないの?」


 徐々に明らかになる双方の食い違いに、その場にいた四人全員が困惑した。

 階下から聞こえる酒飲み達の笑い声が白々しい程に、その場の空気は緊張感に張り詰めていく。

 ポポーニャの蜘蛛の巣は様々な人物を広く絡め取っており、その真相が徐々に浮き彫りにされるのであった。

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