16 とんだ路地裏
取り返しのつかない言い間違いをしてしまっていた。運命の王子様から変態ストーカーにまで身を貶したヒューは、クララにはすっかり怯えられてしまい、今や何を喋っても自身の立場を悪くするしかない。万事休すと言った状況だった。
(何がいけなかったんだ?)
彼は考えた。
(ポポーニャのせい? 作戦が甘かった? 俺の能力不足? ……それもあるだろうけど……この手段そのものが、許されざる事だったわけで。彼女のプライベートを覗き見した挙句、気持ちを踏みにじろうとした事の報いだ。俺の行いが悪いから、運が味方しなかったんだ)
と、彼は半ばオカルトチックな思考で自分を慰める他無かった。
目の前に座るクララは、もはや一秒の猶予も彼に許さず、次の瞬間にはここから立ち去ろうとしている。ヒューがこの問題を軌道修正するには、一度全てを白紙に戻して作戦を練り直す必要があるが、その為の時間が圧倒的に足りないのだった。
この機会を逃せば二度とクララは会話なんてしてくれないだろうし、そうすると、ポポーニャは彼に酷く失望する。失望の先に待っているのは、当然火刑だ。いつか見たあの副団長のように、呪詛の言葉を撒き散らしながら炎え上がる事になるだろう。――その際、きっと彼は沢山の野次馬に囲まれる。この世界でも、彼の世界でも、人は他人が炎上する様を見るのが好きだった。
「……俺の本当の目的を言うよ」
思い悩んだ末、彼はそう言った。遅刻しかけて、慌てて引っ掴んだ下着の色が何色か分からないように、彼は自分の話そうとしている事が正しいかどうか、少しも吟味出来ていないのだった。
クララは少し俯きがちに、ヒューの顔を見上げる。
「俺の目的は君じゃ無い。君の姉さんでも無い。君の姉さんと繋がりのある、巨大な力を持った“とある人物”だ。その人物は俺の友達の復讐相手で、そいつを倒す為に君を利用しようとした。でもそれは間違っていた。君を騙すような形で目的を果たそうとした事は……悪いと思ってる。謝るよ」
失敗したから謝るなんて、何て浅ましい人間だろう、と彼は自嘲した。
クララの表情は依然として強張っているが、今までの彼の言葉とは違う誠実さのような気配が存在するのを、彼女は微かに感じていた。他人を信用しないクララは、自分を騙そうとしている人間に対して異常に敏感だ。だから、逆を言えば“信用出来そうな言葉”についても、彼女は同じように敏感なのだった。
「復讐」
と、クララは相手の言葉の中でも、最も物々しい一言を選び、自分の中で反芻した。
「その人物を殺すのですか?」
彼女の質問は、実に率直だった。
ヒューは何となくぼかして考えていたが、今のままだと確かにそういう事になるなと、初めてその事実と向き合うのだった。
「どうだろう……今のところ、そこまでは考えていない。でも、俺の友達はそのつもりで、このままだとそうなる。俺自身は他にも解決策があるんじゃないかと思っている」
「人を殺すかも知れないのに、そんな悠長な考えで手助けをしているのですか?」
ヒューは首を横に振った。
「手を貸さなきゃ、俺が殺されるんだ」
「殺される。どうして」
クララはまたヒューの言葉を反芻する。彼女の頭に浮かんだ疑問が、勝手に口から歩いて出てきたような『どうして』だった。
「……俺がこの世界に居るべき人間じゃないから」
ヒューは慎重にそう言った。クララに対する謝罪を込めて、彼は出来るだけ誠実に真実を話していたが……流石に、この一点だけはぼかす他無い。
一方のクララはヒューの言葉をあれこれと吟味し、彼の真意を探っていた。深く踏み込みたくは無いが、思わせぶりな言葉に興味を抱かない訳にはいかない。それに……と、彼女はちらりと視線を手元に移す。彼女という人間の象徴と言うべき『マルスデロームの幽霊』。この世界に居るべきじゃない人間。彼女の世界も、やはりこの中にしかない。
「……居場所なんて、私だって。私は違う世界から来た人間なんです」
ヒューはぎょっとした。彼女の言葉が独特な自身の表現だとしても、やはり驚かざるを得ないのだった。
……ぱたん、とクララは本を閉じ、視線を何処かに向けながら、自分の親指の爪を噛んだ。これは一週間の観察期間でも見せた、彼女が悩んでいる時の癖だった。
「……ほんの少しだけ、興味を惹かれてしまいました。
明日の昼、中央広場にある鳥のモニュメントへ。明日になってもまだ興味が惹かれていたら、そこへ行きます。私が居なければ、この話はこれっきりです。当然、あなたが居なくてもこれっきり。あなたにちょっとした恩はあるけれど、あなたがやろうとしている事に、正直に言って私は関わりたくありません」
「復讐に関わりたい人間なんてそうそういない。普通の人なら誰でもそうだ」
「……普通の人」
と、彼女は反芻し、何かを思案した。
「……じゃあ、私が普通の人なら、この話はこれっきりです」
確かにそうだ、とヒューは頷いた。
彼女は鞄に『マルスデロームの幽霊』を入れると、ヒューを一瞥し、そそくさとその場から立ち去って行った。
ふと、ヒューの中に小さな疑問が湧いた。盗難防止の為に、この図書館は外部への貸出をしていない。という事は、あの『マルスデロームの幽霊』は彼女の私物なのだろう。毎日持ち歩いている鞄の中身はあの本で、彼女はわざわざこんな場所で自分の本を読んでいる事になる。
ただ……どうせ持ち歩くなら、違う本を持って来ないのだろうか? 毎日本屋で買い物をしているのに、どうして?
彼は何となくもやもやとした気持ちになったが、結論としては彼女は普通の人では無く、ちょっと変わった人だからという所に落ち着いた。そして、彼はそれを期待していた。
ヒューは螺旋階段を一定のリズムで降りながら、引き続きクララの事を考えていた。他人を信用せず、必要以上の会話をしないが、それでいて必要であればしっかり釘を刺してくる。完全武装という言葉がしっくりくるような、徹底した対人対策だった。しかしそれは、その殻の内側がナイーブだからこその徹底さとも言える。
(彼女は鉄面皮でも無ければ、サイボーグでも無い。傷つき、この世にスネた一人の女の子で……苦しみを避ける為に、必死に武装しているんだろう。
彼女が苦しんでいるのは、自分の偏見や価値観だ。そこから脱出するのは容易い。本人がそう望めば、自ずとそうなるのだから。でも、やっぱり難しい。彼女の自尊心を支えているのは、他ならないその歪んだ思考であって、それが無くなれば彼女は敗北感に塗れながら生きる事になる。
俺が出来る事なんて何も無い。俺は不思議の国の白ウサギじゃないし、カボチャに乗った魔女のババアでもない。俺は彼女と話して、彼女から情報を得るだけの奴だ。彼女が俺と話しても、何も得は無いだろう。俺やマリンカがやろうとしている事が……復讐なんてものが蠱惑的に聞こえたのなら……あるいは狭い世界からの脱出の糸口を、彼女は密かに感じたのかも知れないな。
でも、それは”悪人”への片道切符だ。脱出じゃない。大通りから路地裏への撤退だ。世界はより暗く、救いが無くなる)
図書館から出てしばらく通りを突き進むと、四番街に出た。一番街から六番街は教会と庁舎を中心に円状にパドの町を形成しており、四番街は主にその中心で行われる市政や宗教の仕事に纏わる建物が並んでいた。即ち、自警団、裁判所、修道院、騎士団、不動産、土木、福祉施設等。
かのチルシィ副団長が所属していた『若草萌ゆる緑の盾騎士団』も、この四番街に存在するはずだった。彼は何となくきょろきょろと探してみたが、どの建物かちっとも分からなかった。
(そう言えば)
と、彼は思った。
(チルシィ副団長の“焼き直し”はいつだ? にわか雨で生焼けになった遺体を、焼き直すらしいが……早くしないと腐ってしまうんじゃないか?)
彼のこの世界でのファースト・インプレッションに、チルシィの断末魔がある。あの美しい顔から放たれた呪詛の言葉は、ヒューの心に深々と突き刺さっていた。
もう一度だけ彼女の姿を見たい、と彼は思った。彼女がどんな人間で、何故焼かれたかも知らない。ただの亡骸を焼くだけの一連の行為に意味は無いが、あの時に感じた気持ちを、もう一度しっかりと確かめたい。あの薪の匂いを嗅いで、ただの悲劇とは何かが違うあの衝動を、少しでも思い出して自分の中で紐解きたい、と彼は思った。
……俺が一番の野次馬かも知れないな、と彼はそう思ったのだった。
三番街に入ったところで、彼は不審な気配に気づいた。気づくのが遅すぎた。彼はずっとつけられており、背中に当たる硬く鋭いナイフの感触を味わうまで、追手の存在に微塵も気が付かなかった。
「路地裏に入れ」
チクリと痛む背中越しに、囁き声が聞こえた。声の主は女性だった。彼は逆らえるはずもなく、すぐ側の狭い路地へと足を進める。
バーと洋服店に挟まれた路地裏は極端に狭く、太陽の光さえ満足に入らない暗がりだった。
「両手を上げて、ゆっくり振り返れ」
彼は言われた通りにした。相手はスカーフで鼻から下を隠しており、顔は分からなかったが、鋭い猫目が真っ直ぐ彼を射抜いていた。そして、女性にしてはかなり短くさっぱりした髪型だ。少年のようにも見えた。
「ポポーニャの知り合いか?」
と、女は訊ねる。
知らない事も無い、と彼は答えた。
「仲間じゃないのか?」
仲間じゃない、と彼は答えた。もしこの女がポポーニャの友達なら、彼は『仲間だ』と答えたかもしれない。しかし、今の所そう思える要素はゼロだった。
「嘘つけ。さっきあいつと仲良さそうに話していただろう」
「ぶん殴られるところは見てなかったのか?」
女は目を宙に逸らして、例の一連の流れを思い返す。
「……確かに殴られていた」
「仲間なら俺を殴らない」
「でも、ポポーニャに殴られた訳じゃない」
「俺を殴った奴が、ポポーニャの仲間だ。刺すならあいつを刺してくれ」
と言いつつ、そっと路地から抜け出そうとしたヒューを、女は強く突き飛ばした。改めてナイフを彼の目の前に突きつける。
「……何だよ!」
「騒いだら鼻を削ぐ」
と、女はヒューの胸ぐらを掴んで、彼の鼻の付け根にナイフを押し当てた。
「……奴はパッチマンを探しているのか?」
女は言った。
「パッチマンって何だ」
「とぼけるな。遺体を探しているはずだ」
「遺体? 誰の?」
「とぼけるなら鼻を削ぐ」
「知らないんだよ!」
「知らないふりをしている」
「真実を聞きたいのか、俺の鼻を削ぎたいだけなのか、どっちだ! 知らないものは知らないんだ!」
女は、やれやれ、と言ったため息をつき、首を横に振った。
「……疲れる奴だな。お前は何者だ。なんて言う名前だ」
こっちのセリフだ! という言葉を飲み込み、ヒューは大人しく答える。
「ヒューラン。ヒューラン・レンブラント」
「ヒューラン……電光石火の?」
ヒューは面倒臭そうに頷いた。鼻に添えられたナイフに気をつけながら。
「……お前の言う事は嘘ばかりだ。こっちに来い!」
と、女に胸ぐらを引っ張られながら、ヒューは路地裏から表通りに連れ出される。彼女は辺りをキョロキョロ見渡すと、まだ開店していないバーの扉を蹴り開けて、女性とは思えない豪腕でヒューを思い切り中に投げ入れた。
彼は店の椅子にもつれながら、派手に地面に転がった。俺の身に一体何が起こっているんだ、と彼は状況整理もつけられないまま、店内を慌てて見渡す。
そこには、先程の女とは別の人間が二人居た。一人はふわふわの栗毛、一人はブロンドのボブヘアー。二人ともナイフ女と同じく女性で、やはり同じようにスカーフで顔を隠していた。店内に転がり込むヒューを見るや否や、二人はすぐさま腰から刃を抜いた。
「何このおっさん!?」
と、ブロンドの方が、これ以上無いほど雑な呼称でヒューのことを尋ねる。
おっさん、と呼ばれるにはまだまだ若いヒューの外見だが、それは彼女たちが更に若いという事実の裏付けでもある。
「ポポーニャの仲間の嘘つき野郎」
猫目女はナイフをもう一本取り出し、ヒューに向かって構えた。他の二人もそれぞれの構えで戦闘体制に入る。
ヒューは慌てて立ち上がると、にじり寄る三人から後ずさり、壁に背中をぶつけた。
ヒューが剣を抜くのと同時に、三人は一斉に襲いかかった。
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