15 とんだ偶然の初対面
つい先程まで、ヒューの思考はごちゃごちゃと掻き乱されていた。予定していたプランに狂いが生じ、ポポーニャに弱みを明るみにされ、しかも思いっ切りぶん殴られた。せっかくの決意が散々な結果に踏みにじられ、気分が落ち込むのは必然的な成り行きだった。
が、不思議な事に、図書館が近づくにつれ彼の考え方は妙にシンプルかつ明るく変化していった。いよいよクララと会話が出来る事に対して、彼はほんの少しだけ楽しみを感じているのだった。当の本人は認めたがらないが、彼女に対するヒューの期待は、一週間の観察の末に知らず知らずの内に膨らんでいたのだ。
(人と人が仲良くなるのは、それほどまでに難しい事だろうか?)
彼は思った。
(……少なくとも、クララにとってはそうらしい。俺にとっても、あるいはそうかもしれない。でも、それは『どうせ』だとか『結局』だとか、そう言った言葉が行動を妨げているだけの話だ。面倒な割には意味が無いんだ。いや、意味が無い訳じゃないけど……面倒さが勝ってしまうんだろうな。
傲慢さを捨てよう。俺には目的があり、前に進まなければならない。さっきのポポーニャのアレだって……ちんたらしていた俺へのヤキだったのかもしれない。やってやるとも。クララから必ずメリルの……グラスケージの弱みを引き出してやる。
それに、ポポーニャに俺の実力がバレたからって、何だって言うんだ? あいつは形だけだが一応仲間で、俺もあいつの言葉にちゃんと従うつもりなんだ。奴はイカれてるが、すこぶる合理的だ。奴がイカれ過ぎない限り、今のところは大丈夫だ。
逆に考えよう。俺は今、相手を油断させる事が出来ているんだと。油断を上回る程度には護身術を身に付けるんだ。帰ったらマリンカに相談だ)
ほとんど自動的に風景は流れ、気がつけば彼は図書館にたどり着いていた。
この一週間通い続けて、とっくに見慣れた建物。いつもよりどこか巨大に感じる佇まいに、彼は『至っていつも通りだ』と自身に嘯くのだった。
図書館の静けさは確かにいつも通りだった。ヒューは沢山の本を見渡しながら、何となくこの世界の印刷技術について考えた。
彼の住んでいた世界のいわゆる”中世時代”より、この世界の印刷技術は随分と進んでおり、本はそれほど高級品という訳でもない。というより、彼の住んでいた世界の文明レベルと、この世界の文明レベルを並べて比べる事自体が困難だった。魔法という前提条件がそもそも違っており、文明レベルを著しく高めていたり、逆に滞らせたりしている。
魔法は発明では無く、ほとんど運の産物だった。マリンカはトント族という半人半植物の一族から生える人培花をポーションにしていたが、これはトント族の個体差によって備わる効力がまるで違う。優秀な魔法は重宝され、遺伝によってその効力を保存させられる。
詰まるところ、優秀なトント族は同じ血族で交配を繰り返し、価値のない血族はあっさり見捨てられる。亜人とは言え、方や近親相姦、方や間引きと、随分とえげつない扱いをされるんだなと、ヒューは初めてその事を知った時、何とも言えない気持ちになった。ただし、肝心のトント族が何を感じているのかはさっぱり分からない。やはり彼らの半分は植物で、自分達の扱いに対して怒るでも無く、悲しむでも無く、どこか無関心な様子なのだった。
話を印刷技術に戻すと、紙についたインクを他の紙にそっくりそのまま写すことの出来る『転写』のポーションは、この世界では大発明にあたるのだった。このポーションを採集できるトントの血族は、神にも等しい存在として国に厳重に管理されていた。もしこの血筋が絶えれば、印刷技術は人力複製にまで戻ってしまう。文明レベルが進んでいるとも、劣っているとも言える理由がそれだった。この世界は人間の畜産によって成り立っているのだった。
そんな畜産業の結晶とも言える図書館の、二階に登る螺旋状の階段を登りきり、物語の書籍が並んだ棚の間をゆっくりと進んで行く。読書スペースにある巨大な円卓では無く、窓際の椅子だけの席にクララは居た。長く黒い髪を垂らして、いつものように『マルスデロームの幽霊』を読んでいる。全て予定調和で、まるで先程のイザコザなんて何も無かったかのようだった。
ヒューは一度だけ唾を飲み込むと、一週間追いかけ続けた“アンスラサイトの幽霊”に声をかけた。
「偶然だな」
クララははっとした。
「……無事でしたか?」
彼女の第一声は、妙に涼やかで、か細く、思いのほかハキハキとしていた。
「無事だった」
「それは良かったです」
そう言うと、彼女は気持ちばかりの笑顔を浮かべて、また自分の世界に閉じこもってしまった。彼女の心の錠前を破壊する力が必要だ、とヒューは自身を鼓舞する。
「何であんな奴に絡まれてたんだ?」
ヒューが訊ねると、クララは強張った顔つきで彼を見た。まだ何か用があるのか、一体自分に何の用があるというのだ、少なくとも自分に良い話なんてあるはずがない、というマイナス感情が、たった一瞬の表情に凝縮されていた。
「どうして絡まれていたか」
と、クララは声に出して質問をなぞった。
「私に用があるのは、姉に近づきたい人と、姉を貶めたい人だけ。そのどちらかです。あの人も、他の人も」
クララはそう言った。お前もそうだろう、と言わんばかりに。
「……私は姉と仲良く無いし、姉の事を話すつもりもありません。姉の好きなものや嫌いなもの、得意な事や苦手な事を話すのは、酷く自尊心を傷つけられます。だから……あなたには感謝していますけれど、期待に応える事は出来ませんので」
淡々と、しかし迷いの無い口調で、彼女はそう言った。
「誤解もいいところだな。俺はついさっき君に初めて会ったし、君も君の姉さんも知らない。こうして同じ本を持っているのだって……」
と、彼はここぞとばかりに脇に抱えていた『マルスデロームの幽霊』を彼女に見せた。
「全ては奇妙な偶然なんだ。気味悪いかも知れないけど、何か妙な運命が俺達には……」
と、ヒューが語るにつれて、クララの表情は見る見る内に曇り始めた。最初から警戒心の塊だったものが、今やすっかり恐怖に満ちている。
まずい、とヒューは思った。
「……と、とにかく、初対面なんだ。それだけは事実だ」
「初対面」
彼女はぽつりと、またヒューの言葉をなぞった。
「そう、とんだ偶然の初対面」
クララは何かを思い悩んでいたが、他にどうしようも無いと、どこか気まずい表情で言葉を紡いだ。
「じゃあさっき私の名前を呼んだのも、偶然なんですか? あなたは確かに叫んでいました。『クララ、走れ』って。だから私は走った。
どうして私の名前がクララだと? どこかに名札でもぶら下げてましたか? それとも、私はそんなに“クララっぽい”顔をしてますか? 私の事を知らない人が百人いれば、百人全員が私を”クララ”だと決めつけるような顔を?
正直に言えば、私はあなたの事をこう思っています。“私をクララだと知っていて、私がいつも図書館で『マルスデロームの幽霊』を読んでいる事さえ知っているのに、初対面の偶然を装って近づいて来た危険な人物”だと。
申し訳ありませんが、ここらで不毛な会話を終えても宜しいでしょうか? さもなければ私がここを立ち去らなければなりません。他に行くところなんて無いけれど、だって、あなたに何をされるか分かったもんじゃありませんから」
彼女の言葉によって、ヒューの思惑は粉々に瓦解し、消え去った。
彼は声も出なかった。脱力感と羞恥心から、うっかりその場に崩れ落ちそうになるのを必死に堪えるのだった。
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