14 とんだ許可証
ヒューはパドの町の五番街を歩いていた。五番街は一般の富裕層をターゲットとした商人達が集まっており、装飾品、高級ブランド、レストラン、希少価値の高いポーション、そして書籍など、日常生活に不要なものは大抵ここに集まっている。貴族を初めとした有力者達の住む六番街から近く、ここで実績を上げたものは社交界への出入りを許される。数多の商人はこの五番街に店を構える事が、一番の目標であり夢だった。
復讐心に駆られる事が無ければ、マリンカもそんな夢を持っていたのだろうか……とヒューは考えたが、次の瞬間にはそんな思いも霧のように掻き消えた。理由は三つある。一つ、マリンカの人生について考えるほど、彼女とは長い付き合いでは無い。二つ、功名心が無いから復讐心に駆られたのだろうという自分なりの結論。三つ、目の前にクララ・アンスラサイトが現れた為、それどころではなくなった事。
クララは白いワンピースを着て、通りを伏し目がちに歩いていた。通行人とすれ違っても、決して相手の顔を見ない。やや大きめの革鞄を持って、人目を忍ぶようにこそこそといつもの図書館へと向かう。鞄の中に何が入っているのかヒューには分からなかったが、彼女はそれをいつも持ち歩いており、決して手放さないのだった。
ヒューの作戦はこうだ。通りの角に隠れて、彼女を待つ。出会い頭に彼女とぶつかり、うっかり手元から一冊の本を地面に落とす。落とした本は『マルスデロームの幽霊』……それがクララの目に止まった事を確認して、その場はそそくさと立ち去る。その後、図書館で『マルスデロームの幽霊』を読むクララが居て、ヒューは至って自然に彼女と会話を始められるのだった。
(やあ、さっきは悪かったな。ところで、それはさっき俺が落としたのと同じ本だ。君も『マルスデロームの幽霊』が好きなのか? 実はさっきの本は姪っ子へのプレゼントで……有名だから選んだものの、喜ばれたかどうか、今ひとつ分からないんだ。俺はあまりそういう本に詳しくないからな。
迷惑じゃなければ、一つお願いがあるんだ。姪っ子にオススメの本があれば、君の見立てで教えて欲しいんだが……)
ヒューは昨晩考えたセリフを頭の中でおさらいした。セリフの感想を求めたマリンカには大爆笑されてしまったが、ヒューは何となく上手くいく気がした。何故なら、この世界にやって来る前の彼に比べて、ヒューラン・レンブラントはなかなか悪くない顔立ちだからだ。精悍で、頼り甲斐がありそうで、どこか知的な目つきをしていた。
メンテナンスもばっちりだった。一端の商人に見えるよう、髭を剃り、髪を上げ、服装を(財布を握っているマリンカにはぶつぶつ文句を言われつつも)整えた。傭兵時代に負っただろう大きな顔のキズが目立つが、修羅場をくぐったタフガイと取られるか、怖い人と取られるか。クララの性格を鑑みると後者の可能性が高いが、とにかくこればかりはどうしようも無い。
セリフや出会い方なんてどうでも良い。イケメンか、そうじゃないか。見ず知らずの異性との出会いにおいて、これ以上のカードは存在しない。むしろそれは異性に話しかける為の必要最低限の”許可証”みたいなもんだと、彼は前世の女性との縁のなさを振り返って、半ば自虐的にそう思う。
(今の俺はヒューラン・レンブラントだ。電光石火のヒューだ。男前だし、逞しいし、見た目も小綺麗だ。何も恐れる事は無い。何も……)
……そろそろだ、と彼は脇に抱えた『マルスデロームの幽霊』をぎゅっと握りしめる。
彼女の歩調からして、あと五秒、四秒、三、二、一……!
街角からぎこちない一歩を踏み出した彼は、しかし、空振りに終わった。タイミングを間違えたか? と、通りを振り返った途端、彼はぎょっとして、突き動かされるように走り出した。
クララはさっきの位置から、少しも動いていなかった。
彼女はごろつきに絡まれていた。
(なんでこうなるんだ!)
ヒューはそう思った。
(ツイてないのか、ツイてるのか! 彼女に話しかけるのには、最高の口実だけど……喧嘩なんかしたこと無いぞ! ポポーニャには『俺と戦った人間が死ぬのを見飽きてる』ような風に言っていたけど……あれは本当の事で本当じゃない。ゲームの中の話だ。喧嘩なんてしたこと無いぞ!)
嫌だ嫌だと思いつつも、みるみる内にクララとごろつきの元へと辿り着いてしまうヒュー。二人の視線は、当然彼に向けられた。
ヒューは意を決して、二人に声をかける。
「どうかしたのか?」
クララは追い詰められた野ウサギのようにビクビクしながら、彼の顔を見た。目の前のごろつきと、妙にワイルドな商人とを天秤に掛けた時、商人の方がまだ”信頼出来そう”だと彼女は思った。
が、当然気に入らないのはごろつきの方だ。
「どうもしねえよ」
と、相手は言った。
「……どうもしないのか?」
恐らくごろつきは相当喧嘩慣れしているのだろう。口調の強さには一切怯みが無い。一方、心がぐらぐらと安定しないヒューは、馬鹿みたいな質問をクララに投げかける。
クララは首を横に振り、必死に声なき助けをヒューに求めた。
「問題があるらしいけど」
ヒューの一言。ごろつきは体をゆっくりと彼の方に向けた。ヒューは考えた。どうすればこいつを体よく立ち去らせる事が出来るか、お金で解決するしか無いのだろうか。しかし、みっともない真似をクララの前でやる訳にはいかないし……助けた後でダサい男と思われたら、本当の目的が果たせなくなる。一体どうすれば自分は一番ダサくないのか。戦うしかないのだろうか。
グダグダと考えていたその瞬間、気がつけば彼は青空を見上げていた。ごろつきの拳が、彼の顎に炸裂していたのだ。不意に聞こえた、ゴキッ、という音の正体が分かったのは、自分が倒れている事に気づいた後だった。
「ひっ!」
と、クララの小さく短い悲鳴が聞こえる。
ヒューは殴られた顎を抑えながら、ゆっくりと立ち上がった。脈動に合わせて痛む皮膚と肉と骨。
「……痛って……」
立ち上がってはみたものの、彼の心臓は早鐘を打ち、手は小刻みに震えていた。顎の痛みに涙が滲み、戦意がすっかり喪失してしまう。
「は、話し合お……げふっ!」
ヒューがそう言った瞬間、今度は彼の腹にごろつきのつま先が突き刺さった。更に、後頭部に肘がめり込み、彼は再び地面に突っ伏した。顔面を踏みつけられ、ゆっくりと近づくごろつきの顔。
「何を話してえんだよ」
ごろつきの問いに答える代わりに、ヒューは相手の足を掴み、無我夢中でそれを引っ張った。物理法則に基づいて相手はバランスを崩し、勢い良く地面に全身を叩きつけられる。
凄い腕力だ! とヒューは思った。自身の体に慣れていない、嬉しい誤算だった。
「……く、クララ! 走れ!」
ヒューの言葉にクララは多少気後れしつつも、一度大きく頭を下げると、たたたた、と通りを走り去っていった。
彼女の走ったのは、図書館の方角。この期に及んで、まだ読書をするつもりなのか、とヒューは呆れと感心を半分ずつ抱く。
打ち付けた頭を抑えつつ、苦悶の表情でごろつきはゆっくりと体を起こす。
ヒューはひとまず安心した。とにかく、彼女が見てないなら、どれだけボコボコにされても構わないだろう。だが、ただでボコボコにされる訳にはいかない。
土下座だ、とヒューは思った。ちょっとでも殴られる数を少なくするしかない。殴られる事がこんなに痛い事だなんて、彼は今この瞬間初めて知ったのだから。しかし、この世界に土下座は通用するのだろうか?
「何やってんれふか!」
聞き覚えのある、呂律の回らない口調。ヒューは思わずはっとした。
気がつけば、ポポーニャ異端審問官が目の前にいた。彼女はごろつきの脇を抱え、彼を立ち上がらせようとしていた。
「……何だ?」
ヒューはまだ痛む後頭部を抑え、理解が及ばない状況に眉を潜める。
「わらしのドキドキ大作戦をダメにしないれくらはいよぉ、傭兵さん。このごろつきをボコって、カッコイイところ見せてくらはいよ~。せっかくクララに近づくチャンスを作ってあげたのに、だらしない男れふね」
「お前の差金かよ!」
「異端審問官に向かって、お前とは何だ!」
ごろつきは急にカッとなり、ヒューに対してそう怒鳴った。先程までのごろつき然とした雰囲気は、まるでスイッチを切ったように姿を潜めている。恐らく正体はポポーニャの部下か、教会の敬虔な信徒といったところだろう。
「全然弱っちいれふね。ヒューラン・レンブラントくん。遠慮してたんれふか? それとも、この間言ってた事は丸っきり嘘れ、ホントは弱っちいんれふか……? ぷぷう」
ぷぷう、と嫌らしい笑みを浮かべるポポーニャを見て、ヒューは『しまった』と苦虫を噛み潰す。
ポポーニャは自分を手伝うフリをして、彼が本当に強いのかカマを掛けたのだ。彼の肉体は、確かにヒューラン・レンブラントの肉体で、腕っぷしは強いはずだ。でも、それを操る
ヒューは地面にあぐらをかき、クララが走り去った方向を振り返る。彼女の姿はとっくに見えなくなっていた。
「……そういう作戦なら、事前に言ってくれよ!」
無理やり書き換えられた台本に、ヒューは憤りの言葉をポポーニャに投げかけた。しかし、それは負け惜しみに近い響きで、ポポーニャとごろつき風の信徒は、けたけたと笑ってヒューの肩を叩くのだった。
「ま、それなりに笑えまひた。次のドキドキ大作戦は、しっかりやってくらはいよ。わらしら同じチームなんれふから。協力していこう!」
「うるせえ! 腐れ審問官!」
「異端審問官に向かって、腐れ審問官とは何だ!」
ごろつきを演じていた信徒の怒声に、ヒューは鬱陶しい顔をする。
ともあれ、とヒューは思った。
ポポーニャの意趣返しは非常に気に入らないが、クララと会話をするきっかけは出来た。アクシデントという、見ず知らずの異性に話しかける例外的な”許可証”があった事に、彼は今更ながら気がついた。
この一件はもう一つの要素で彼を好転させた。痛みとアドレナリンで麻痺した思考は、彼に余計な思慮の機会を与えなかった。『今日にでも彼女と再開し、例のセリフを言うんだ』と、彼は思った。
嫌味なパートナーを一瞥すると、ヒューはずんずんと図書館に向かって歩き始める。
異性に話しかけるのにルックスも状況も最重要では無く、彼はクララに話しかける為にもっと重要なものが欠けており、何かと理由や理屈を探していたのだった。本当の許可証は“勇気”だけという事に彼は気づいていなかった。今の彼のやぶれかぶれさは、少なくとも勇気を偽造する事には成功していた。
ただし……同時に、彼は勢いに任せてある失敗を犯していた。それが今後の展開にどう転ぶかは、神のみぞ知るところである。
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