12 とんだ幸運か不運
あれからしばらく時間が経った。新たなビジネスパートナーであるポポーニャと“商談”を纏めて別れたヒューとマリンカは、自身の部屋に戻り、しばし荒れ狂う動揺の波を落ち着かせるように、椅子に腰掛けて宙を眺めつづける。
全く予期せぬ筋書きに、マリンカは混乱しかけていた。一見物事がいい方向に転んだように思えるが、あのポポーニャが噛んでいる以上、そうとも言いきれない薄ら寒さを感じる。
そして、ヒューとの出会いは幸運か、不運か。彼のお陰で窮地に陥ったが、彼のお陰で助かったのもまた事実。色々と逡巡を重ねた結果、マリンカは小さなため息をつくと、とにかく自分は今こうして生きているという事実だけを重要視するのだった。そして、これからのアクションに重要なヒントが得られた事も。少なからずの進展はあったのだ、と。
「半端ねえっす」
と、マリンカは口を開いた。
「まさかポポーニャ異端審問官が仲間に加わるなんてね」
ヒューは身に着けていた剣やら鞄やらを部屋の隅に置き、ベッドに腰をかけた。ベッドは酷く軋んだ音を立てたが、彼の心身も同じぐらいくたびれていた。
マリンカはテーブルに腰を掛け、飲みかけのワインのコルクを抜くと、瓶のまま口元に近づける。しかし、彼女はワインに口をつけず、宙ぶらりんな位置で制止させた。アルコールで心労を誤魔化す前に、現状を整理する必要があると彼女は思い直したのだった。
「……ポポーニャ異端審問官の目的はグラスケージ。とんだ偶然でありんすが……あり得ない話では無いでありんす。グラスケージは手段を選ばない男で、敵も多いでありんすから」
ヒューは、なるほど、と呟いた。
「でも、ポポーニャがグラスケージを狙うのは恨みや復讐とは違う。君とは動機が違う訳だ」
「同じ目的を持っているなら味方は味方でありんす……今はね」
“今はね”という言葉に、マリンカは自身の疑念をたっぷりと乗せ、述懐を続けた。
「ポポーニャはこう言ってた。『メリル・アンスラサイトがグラスケージの一番の客だ。妹のクララを脅せ』と。
メリルはこの町に住む貴族の娘で、えらいべっぴんで有名でありんすが……高慢さと傲慢さが服を着て歩いているような奴でありんす。取り巻きが多く、社交界にも顔が利く。
小娘だけど弱肉強食の世界に慣れた奴で、こいつと正面きって戦うのは、社会的にも、経済的にも、人脈的にも非常にキビしい。だからポポーニャはターゲットをメリル本人では無く、妹のクララを指定したのかも。
……ちなみに、妹については全然知らんす」
「有名になるほど美人じゃないのか」
「脅すならその方が気がラクでしょうな」
ヒューは苦笑いした。
「気がラクでも、難しい仕事に変わりは無い。メリルが手強い相手なのは分かるが、クララだって条件は同じだ。貴族をそう簡単に脅せるワケがないだろ? それに、何の為に? あいつの言いなりになってそんな危険な橋を渡るのは、果たして賢い選択なのだろうか?」
マリンカは難しい顔をして、うーん、と唸った。
彼女達はポポーニャと一種の同盟を結んだが、それは決して五分と五分ではない。ポポーニャが『やっぱやめたれふ』と気まぐれを起こせば、今この瞬間にも教会の騎士達が押し寄せ、二人は縛り首にされるだろう。
更に、ポポーニャの言う事を聞かなければ、彼女が”気まぐれ”を起こす可能性も当然高くなる。『貴族を脅せ』というポポーニャの提案はあまりにも危険で、協力者のヒントとしては親切に欠け過ぎている内容だ。自身にすら困難な事をこちらに押し付け、自分たちを捨て駒として利用しようとしているのかも知れない……そうマリンカは考えるのだった。
「んんー……ぐぐぐぐ」
マリンカは唸りながら、ごしごしと自分の顔を擦った。
「……ま、ネガティブに考えればキリが無いでありんすが、これはヒントであり、テストでもある。有能で信用出来ると思えばポポーニャはあっしらを使う。そうじゃなければあっしらを切る」
「テストなんて生易しいもんじゃないぞ。生きるか死ぬかの試練だ」
「人生は試練の連続でありんす」
「命がいくつあっても足りないぞ……!」
ヒューは大きくため息をついた。
「はあ……やるにしろやらないにしろ、行動を起こさなければポポーニャの機嫌を損ねてしまう。奴は決断が早いし、凄く短気だ。行動は早い方が良い。
とにかく俺はそのクララって奴に近づいてみるよ」
「おっ!」
ヒューがそう言うと、マリンカは目を見開いて驚いた。
「お利口さんですなぁ、異世界人殿。無理矢理でもあんたに行ってもらうしかないと思ってたんでありんすが……まさか、自ら脅し役を買って出るとは。
ひょっとして、”有名になるほど”じゃないけど、そこそこのべっぴんだと期待してる?」
ヒューはベッドに転がり、頭の後ろで手を組んだ。
「貴族ってのは純血人だろ? マリンカにとってただの純血人以上に近づく事が難しい存在だ。それぐらい分かる。俺がやんなきゃって。
この件は俺の命運もかかっているんだ。出来る事は最大限にするよ。他にやる事も無いし」
「いやいやいや、やる事は沢山あるでありんすよ。この世界について、色々勉強した方が良い。剣術だって覚えなきゃ……ホントは人殺しなんて、やった事無いんでしょ?」
図星を突かれ、気まずい表情を浮かべるヒュー。
「なんで分かるんだ?」
「あっしの復讐に手を貸すのを嫌がってたあんたと、あんたのあのフカしと、ちょーっとギャップがありんすなぁ」
にたにたと笑いながら、マリンカはそう言った。
彼女は今度こそワインを口にしようとしたが、テーブルに木製のコップがあるのを見ると、一瞬何かを思案し、それを手にとった。コップを股に挟み、服の裾で縁を磨き、ふっ、と一吹きで埃を飛ばす。続けざまにワインを注ぐと、コルクを瓶の口に差し、ぽん、と掌で叩いて押し込んだ。
流れるような一連の動作は実に手際が良く、酒場で働いていたというのは本当なのかもな、とヒューは思った。
「ほら、異世界人殿」
マリンカはワイン瓶を彼に向かって投げた。瓶は緩やかな放物線を描き、ヒューの腹の辺りに落下する。彼は慌てて手を伸ばすと、指先で一度弾きつつも、なんとかそれをキャッチするのだった。
マリンカはにんまりと笑みを浮かべ、ヒューに向かってコップを掲げる。
「『盃を交わす』って言葉は、あんたの世界には?」
「ある」
のそっ、とヒューは身体を起こし、首を二、三度捻ってから、ワインの瓶を見つめる。マナ酔いは少し残っていたし、ポポーニャとの舌戦での心労が疲労感として全身にずっしり乗っている。おまけに彼は、元の世界では大変な下戸だった。
「……飲まなきゃダメか?」
マリンカは首を横に振った。
「酒が無理なら葡萄ジュースでも下から貰ってくるでありんすよ。契の証だけじゃなく、これは……あっしの労いの気持ちなんで」
にこにこしていたマリンカが、急にしおらしくなったと思うと、神妙な面持ちで言葉を続けた。
「今日はあんたに助けられた。ポポーニャに出会ったのは不運だったでありんすが、あっしの力不足であんたに迷惑を掛けた。それに……」
「それは俺のセリフだよ」
マリンカの言葉を遮るヒュー。
「マリンカはあの最悪の状況に自らの意思で立ち向かって行った。宿屋に入った瞬間に気づいてたんだろ? あいつがポポーニャ異端審問官だって事に。俺が飛んで火に入る夏の虫って事に。
なのに、お前は俺を生かす為に宿屋に戻って来た。俺が逆の立場だったら、出会ったばかりの異世界人なんて放り出して逃げていた……かもしれない。
マリンカがリスク・リターンに見合わない戦いにわざわざ赴いた理由は? ……ああ、いいよ。答えなくていい。それは、俺の中で色々と想像するよ。せっかくの感動を、わざわざ幻滅に変えたく無いからな」
ヒューはそう言いながら、皮肉っぽく笑ったが、マリンカはしばらく難しい顔のままだった。一度は見殺しにしようとした事実を差し置いて、当人の労いを素直に喜べなかったのだった。
「賢い選択でありんす」
精一杯の皮肉を返し、マリンカは顔を反らした。
ヒューは、きゅぽん、とワインのコルクを抜く。
「打倒、グラスケージだ。命の恩人の為に、出来る事はするよ……苦手なお酒だって、一口ぐらいなら」
マリンカは申し訳ないような、嬉しいような笑みを浮かべ、杯を小さく掲げる。
二人は同時にワインを呷り、胃に流し込むと、熱いため息を吐いた。
「……ぷはーっ」
酒が回る事により、マリンカはようやく緊張から解放され、気持ちが軽くなった気がした。テーブルに腰掛けながら脚をぶらぶらと前後させ、頬には薄っすらと赤みがさしていた。
一方、ヒューは生まれて初めて酒を美味く感じた事に、とても驚いていた。”苦手じゃない体質”で飲む酒が、こんなに美味しいものだと、彼は初めて知ったのだった。
「しかし、まあ……」
と、マリンカは言った。
「気になってるのはあんたの立ち回りでありんす。あんたのポポーニャに対する質問は、どういった根拠で出たものだったでありんすか? ずっと考えてたんでありんすが……未だに理由が分からなくって。後学の為に聞かせて頂きたいもんでありんす」
ヒューは自分の考えを探るように、宙をまじまじと眺めた。
「一番の理由は、あいつが『神を信じていない』と俺たちにうっかりバラした事だ。あの一言で、俺はやはりチルシィという人間をハメたんだと、彼女の断末魔が真実だったと思った。
……でも、奴の目的はチルシィ副団長じゃなかった。それはマリンカの質問で分かった事だよな。だったら、狂信者ぶったあいつが求めるものは? たった一つ、更なる権力だ。ポポーニャは教会の政治的侵略の為に働く、狂った猟犬なのさ。教会やポポーニャの欲望は、騎士団の副団長程度では満たされないんだ」
マリンカは小さく頷いた。
「これが最初の質問の理由。二つ目の質問は……俺がグラスケージの名前を出した理由は、ただ奴の興味を引きたかっただけ。
奴はただの猟犬じゃない。あくまで”狂った”猟犬なんだ。奴は明らかに、あの真実の暴き合いを楽しんでいた。マリンカが居なかった時の奴との会話を聞かせてやりたいよ。ある事ない事喋って、俺を精神的に追い詰めて楽しんで……”そういう奴”なんだ、ポポーニャは。
俺たちの目的が大商人グラスケージの暗殺だと知れば、きっと奴はそれを潰そうとはしない。喜んで薪を焚べ、町の平穏が燃える様を見て愉快に笑う。奴の退屈しのぎの為に、俺たちは生き延びられるってワケさ。グラスケージが共通の目的だったのは、あくまで偶然で、これについては俺も想像もしなかった。
ただし、その偶然は俺達にとって一概に幸運とは言えないかもしれない。むしろ不運かも。俺たちは協力を得られる代わりに、こうして自由を失ったんだから」
「幸運か、不運か。クララ・アンスラサイトに会ってみれば分かるでありんす」
そうだな、とヒューは呟き、再びベッドに横になった。彼はしばらく何かを考えようとしたが、自分が何を考えるべきかも分からず、疲労と一時的な安堵によってスキを突かれ、あっという間に眠ってしまった。
マリンカもやはり何事かを思案していたが、ヒューが早くも眠りについている事に気がつくと、身体を傾けて彼の寝顔を見る。
まだ聞きたいことはあったが、マリンカは一度だけ大きな欠伸をし、ぴょこん、とテーブルから飛び降りた。
彼女が眠りにつくまで、やはり時間はかからなかった。
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