9 とんだ心変わり

 マリンカは納屋で馬の手綱を解きながら、罪悪感に苛まれていた。もちろん、宿屋に取り残されたヒューの事だ。

 彼の不幸が脳裏にちらつく度、マリンカは自分の事情を整理し、彼という存在に蓋をする。それは、リスク・リターンという名の自己正当化に他ならないが……やはり、それは彼女にとっての現実だった。


(ヒューが居ればきっと怨敵グラスケージの元には早く辿り着けるでありんす。あっしら亜人があんな大商人にそう容易く近づけるワケがないですから。

 ……しかし、それは所詮、時間の問題でありんす。五年、十年と時間をかければ、いつかはチャンスがやってくる。今もグラスケージに搾取されているピピット族がいるという噂もありやすが……それはあっしには関係の無い事。あっしはあっしの復讐のために、奴をぶっ殺す為だけに行動する。その為に十年かかっても、それがあっしの力量だし、限界でやす。

 それに引き換え、ヒューの奴を助けたあっしはどうなる? 異世界人を匿おうとした亜人の行く末は? 特急便で教会にしょっぴかれ、明日にでも火刑にかけられる! そう、あのチルシィ副団長の様に……)


 マリンカは苦虫を噛み潰した顔で馬に跨ると、手綱を握って右手を振り上げた。


(……これがあっしの限界なんす。亜人が純血人に対抗するには、こうするしかない。人として対等に扱われない、なまじ言葉を解する虫ケラの人生は……虫ケラが目的を達するには、それ相応の犠牲が必要なんでありんす。

 今日あっしが犠牲にするのは、一人の異世界人の命と、高潔なる副団長の無念と、向こう十年のピピット族の平穏、そして……あっしの自尊心でありんす)


 振り上げた右手は岩のように固まり、いつまで経っても振り下ろされない。それは単純な動作だったが、マリンカにはとてつもなく困難な事だった。


(……虫ケラは虫ケラらしい生き方があるんす。分かって下さい。諸兄姉殿々……)


 やはり、マリンカは右手を振り下ろさない。

 彼女の馬は、ひたすら主人のゴーサインを待っていた。


(……虫ケラ)


 と、彼女は思った。


(……どうしてあっしの家族は虫ケラの様に殺されたでありんすか?

 確かに、あっしの今やろうとしている事は、まさに虫ケラの如き所業。

 あっしらピピット族が、本当に“虫ケラ”だったから……あっしの家族は殺されたって言うんでありんすか?

 今のあっしが「そうじゃない」と否定出来るんすか……?)


 彼女は、ぐぬぬぬ、と下唇を噛み、じっと俯くと、やがて振り上げた右手をゆっくりと下ろすのだった。一度だけ大きくため息をつき、ぴょん、と馬から飛び降り、再び納屋に括り付け始める。

 何故そうしたのか、彼女は自身の行動への説明が及ばなかった。愚かで感情的で、そこに“利害”の一語は介在しない。彼女自身、ヒューに対して「自分が正しい人間かどうか試そうと思うな」と忠告したばかりで、これは言葉通りの過ちだった。

 彼女の思考は彼女自身を追い詰め、宿屋の中で行われている出来事から逃れる事が出来なくなってしまった。


(あっしは馬鹿でありんす……! つまらない感情に我が身を滅ぼすなんて……いつだってあっしは、そういう人間の命運が尽き、朽ち果てる様を見てきたはずでありんす……!)


 “とんだ心変わり”により、再び宿屋の入口に向かうマリンカ。彼女の足取りはどこかやぶれかぶれだった。

 躊躇いが脳裏にちらつく度に、彼女は今日の公開処刑を思い出した。めらめらと燃え盛る炎と絶叫。炎は迷いを薪に焚べ、彼女の思考力を鈍らせる。思考の鈍麻は、無謀という名の推進力となった。

 入口のドアに手を掛けた瞬間、宿屋の中から、どたどたとした騒音が聞こえた。彼女は「ヒューかも知れない」と思ったし、「もう手遅れかも知れない」と予感した。半分は当たりで、もう半分も……それほど間違ってはいなかった。ポポーニャが彼を異世界人と断定するのは、もはや時間の問題だった。

 一呼吸つくと、剣も矢も飛び交わぬ戦場へ、彼女は飛び込んだ。


「いやぁ、遅れました、ご主人! ……アラッ? 何をしてるでありんすか?」


 と、マリンカは宿屋に入るなり軽快な装いで声を上げると、頭を抑えて床に転がるヒューにわざと驚いて見せた。

 彼の代わりに、ポポーニャがマリンカを出迎える。


「ピピット族の友達!」


 ポポーニャは両手を広げ、そう叫んだ。


「調度いい所においでなすった。この酔いどれソードマンについて質問したいれふ! ちょいとお時間宜しいれふか?」


 マリンカは帽子を取って、慇懃にお辞儀をした。


「ポポーニャ・ストロベリーフィールズ異端審問官殿!

 あっしはマリンカ・リンカと申すケチな商人でやす。私めのような亜人如きにお時間を割いて頂けるなぞ、むしろ光栄の極みでありんす」


 マリンカの言葉を聞き、ポポーニャは口の端を歪めて笑った。

 自分の名前を知っている相手は、“自分の仕事”を知っている分、御し易いからだ。


「晴れ渡る青空のように快い返事、大変感謝致しまふ。マリリン……マリカ……マリン氏」


 ヒューは二人の(どこか胡散臭い)挨拶を聞きながら、恐る恐る立ち上がると、なんとか椅子に座り直し、マリンカの方を振り返った。彼の青ざめた顔面は、自身の形勢の悪さをありありと物語っている。ただ、それはマリンカにとって予想済みの事で、彼女の動揺を誘うには至らなかった。


「さあ、マリリン氏、こっちに来てくらはい。わらしが聞きたいのは……」


「少々お待ち下さい、ポポーニャ殿!」


 と、マリンカは右手で相手を制した。


「あっしは商人でありんす。あっしの専門は地産のポーションでありんすが、情報もまた、あっしの大切な商品でありんす。そして、あっしの信条は“嘘を売らない”事」


「美しい信条れふ」


「偽物のポーションは売らないし、嘘の情報ももちろん売らない。それ故、身勝手を重々承知の上、とある申し出を承諾して頂きたいのでありんすが……」


「申し出?」


 ごくり、とマリンカは唾を飲み込む。


「水増し無き取引には、それ相応の対価を頂きたく存じやす」


「金の話れふか?」


「いいえ、ポポーニャ殿。あっしが欲しいのは、ポポーニャ殿の情報でありんす」


 いったい何を言い出すんだ? と、ヒューは思った。


「あっしの言葉と、そちらの言葉。真実だけを唯一の対価として、取引願いたいでありんす」


 方や被差別階級の労働者、方や差別階級の権力者。二人の立場の違いは歴然としている。マリンカの申し出が暴挙である事は、彼にも良く分かった。


「……ふぅぅーーん」


 ポポーニャの顔から笑顔が消える。


「わらしの扱っている言葉は、“神の言葉”れふ。人の言葉と神の言葉を、対等の価値として扱えと?」


「いんや、そうでは無いでありんす。あっしが聞きたいのはあくまでも人の言葉。ポポーニャ異端審問官殿、あなた自身の情報でありやす」


 ポポーニャは、ぷい、と顔を背けた。


「やだ。プライバシーは売らないれふ」


「身分は違えど人は人。ヒューラン・レンブラントのプライバシーを売るんだから、それは当然の対価でありんすよ。

 ……ヒュー、構わんでやすね?」


 ヒューは不安に包まれながらも、右手の手のひらを裏返す。勝手にしろよ、と言わんばかりに。

 と、その瞬間、思い切り拳を振り下ろし、ポポーニャは机を叩いた。


「バカバカしい!」


 どん! という音にヒューはぎょっとする。実際の音以上に、恐怖が彼の心に反響し、とてつもない爆音に聞こえた。

 ポポーニャはマリンカに人差し指を突きつけた。


「わらしは教会の力を使って、強制的にあなた方から情報を引き出す事も出来まふ。それがこの国の法れふ! わらしがそっちの条件を飲む理由がどこに?」


「真実のためです。真実はそれだけ、高い代償が必要でありんす。

 そして、教会の力ではこうはいかない。神様は嘘が嫌いかも知れんですが、人は往々にして神様に嘘をつくものでありんすからな。

 あっしは自分の情報を、絶対にタダで売らない。ましてや、搾取出来るものでもない」


「教会を舐めて貰っちゃあ困るふ」


 ポポーニャは腕組みをし、ふんぞり返る。


「真実の探求と異端者の糾弾に、我々は精一杯の努力をするれふ。

 ……仰る通り、神様は嘘つきが嫌いら。だからわらし達は、嘘つきに本当の事を喋ってもらうためになんでもする。爪を剥がす事もあるかもしれないし、骨を砕いたりする事もあるかも。皮を剥がしたり、針を突き刺したり……今日も一人、火で炙ったところれひたね」


「脅しで導いた言葉は、真実ではありやせん」


「ビビったれふか?」


 マリンカは口角を歪め、皮肉っぽく笑った。


「ビビったかビビって無いかで言うなれば、ポポーニャ殿、それは全くの逆でありんす。そっちがその気なら、こっちもその気でありんす」


 マリンカはヒューを指差した。


「彼は電光石火のヒューという、ちょいと有名なソードマンです。

 ポポーニャ殿が教会の騎士をここに呼びつけるまでに、彼はあんたを100回は殺せる。もちろんそんな積りは毛頭無いですが……爪を剥がされるとなると、ちょいと気が変わるかもしれないでありんすね」


 はん、とポポーニャは鼻で笑った。


「そいつが“本物のヒューラン・レンブラント”らったらね」


 ほんの一瞬の睨み合いが、永遠の時を圧縮したような濃密な時間となって場を支配する。

 ポポーニャの瞳は真っ直ぐマリンカを射抜いていた。聖職者とは思えない邪悪さはさておき、その深淵に内包されているギラつく何かにマリンカは気づいた。

 ドス黒いながらも、黒曜石のように輝く、純度の高い昂ぶりが。


「……マリリン氏。これじゃ犬同士が吠えあっているのと、何も変わらないれふ。

 取引を飲むも飲まないも無い。当然の帰結として、わらしたちの間には何も起こりえない。あなた達を要注意人物として、ここからお暇するのが良策でやす。

 ……と、言いたいところれふが、悔しい事に、一つだけそっちがわらしに成功した事がありまふ」


 ポポーニャは勢いよく立ち上がり、テーブルの椅子を乱暴に引いた。


「好奇心れふ! このヒューという男が何者か、このピピット族が命まで賭して何をしようとしているのか、わらしは気になりまふ!

 あんたはわらしの好奇心を掻き立てる事に成功した。わらしが満足するまで、そちらの茶番に付き合ってあげようじゃないれふか!

 座るがいいれふ、マリリン氏。ひょっとするとわらしたちは、良きビジネスパートナーになれるかもしれない。

 ……ただし、引き続き“命を賭す覚悟”があるのなら、れふが」


「マリンカ」


 と、マリンカは言った。


「マリンカ・リンカでありんす。マリリンじゃない」


 彼女はずかずかと歩み寄り、ポポーニャと同じ卓についた。


「そりゃ失敬」


 ポポーニャは悪びれた様子もなく、ぽつりとそう言った。

 ポポーニャの“とんだ心変わり”は、各々の事情をより深くえぐり出し、もはやその場から無傷で立ち去る者のいない事が予見された。

 修羅場の重力に、ヒューは手足が全く動かなくなっていた。

 いざとなれば、腰にぶら下がっている物騒な物に手を掛ける事も有り得るかもしれない。

 彼は一度だけ深く息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出すのだった。

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