8 とんだステーキ
異端審問官との偶然の邂逅にマリンカは仰天した。
うっかり漏れた悲鳴は当然ポポーニャの意識を惹き、遅めの昼食を咀嚼しながらも、彼女の目線は二人の珍客に向けられるのであった。更に、純血人とピピット族の歪なコンビという点で、彼女が好奇心を持つには十分な理由となった。
ヒューが宿屋のカウンターまで歩み寄る姿を、じっと見つめるポポーニャ。ヒューは慣れない体と“初めてのおつかい”にあからさまにギクシャクし、異端審問官の熱い視線にこれっぽっちも気づいていない。
ここで、マリンカには二つの選択肢がある。ちょっと荷物を取りに行くフリをして異世界の相棒を見捨てて逃げるか、産まれたての雛を庇う親鳥になるか、二つに一つだ。
「ヒュー」
「……うん?」
「ちょっと荷物取ってくるでありんす」
命あっての復讐。マリンカは無慈悲にそう考えるのだった。何事に対しても、彼女の決断はすこぶる早い。
ヒューは己の命運が尽きたことにも気づかず「あ、ああ……」と戸惑いがちに返事をし、初めてのおつかいを続行するのだった。
部屋を借りることには何の障害も無かった。人数と日数を伝え、それに応じた金額を払う。異世界と言えど、そのプロセスは全く同じだ。彼が自身と小さな相棒の名前を伝えると、店の主人が宿の台帳に記入する。これがもし自分で記載するパターンだったら……と考え、彼はほんの少しぞっとした。彼はこの世界の文字を一つも知らない。
主人に部屋の場所を聞き、彼は頷く。彼はマリンカが帰ってくるまで待つことにした。
手持ち無沙汰に内観を眺める。木造の壁や天井に薄汚れた染みが目立ち、それなりの年季を感じる。壁に掛けられた額縁に彼の意識は吸い寄せられる。額縁に収められたのはこの町の広場の絵らしく、彼は導かれるように今日の公開処刑について思い出した。
薪の焼けるぱちぱちという音。ざわめきつつも視線を釘付けにされる民衆。女騎士の断末魔……。
明日は我が身だという実感が心を縛り上げ、食い込んだ部分から恐怖がじわじわと流れだす。自分が安全では無いという事実を前に、彼は圧倒的に孤独だった。この世界でたった一人の知り合いが目の前にいない今は、尚更そう思えた――前居た世界では、彼はずっと安全で、孤独を紛らわせる手段を沢山持っていた。
「幼児性愛者なんれふか?」
と、物思いに耽っていたヒューに、バケツ一杯の失礼をぶちまける人間が居た。言うまでも無く、ポポーニャ・ストロベリーフィールズ異端審問官だ。食堂は宿のロビーと遮るものが無く、ヒューの位置からも彼女はよく見えた。
ヒューが振り返ると、ポポーニャは肉の塊を乱暴に貪り、もぐもぐと力強く咀嚼する。
「何だって?」
彼は思わず聞き返した。
「幼児性愛者なんれふか?」
ポポーニャは肉を頬張りながら、もう一度同じ問いかけをする。
「何でだよ」
気の抜けた笑いを浮かべるヒューを、ポポーニャは至って悪びれずに眺めていた。彼女は口の中の肉を、ごくん、と胃に流し込むと、出口の方を指さした。
「ピピット族と行動を共にする純血人は、幼児性愛者か真の聖人しかいないれふ。しかし、お兄さんは聖人れはないれふね」
「聖人かもしれないだろ」
「いんや。聖人は傭兵なんかやらないれふ。ヒューラン・レンブラント。人呼んで傭兵ヒュー。電光石火のヒュー。あるいは、酔いどれソードマン」
「俺はヒューなんかじゃ……」
と、彼はマリンカに言われた言葉を思い出し、慌てて言葉を飲み込んだ。
優れない体調を隠し、この世界について知らない事を隠し、見慣れない光景を見飽きた風に装い、当たり前のように町を歩き……そして、ヒューラン・レンブラントという剣士になりきらなければならない。
「……ど、どうして俺の名前を知ってるんだ?」
慌てて彼は言い直した。
「有名人らかられふよ。そして、あんたは今そこで自分の名前を名乗ったれふ」
ポポーニャは宿屋のカウンターを指差し、そう言った。
「聖職者が盗み聞きなんかしていいのか」
ヒューはポポーニャの姿を見て、苦し紛れの皮肉を言った。幸いポポーニャの法衣は、彼の世界の聖職者が羽織るものとそれほど違わなかった。
「くひひ。わらしはポポーニャ・ストロベリーフィールズと申すものれふ。どうぞお見知りおきを。最近この町に来たばかりで、右も左も分からないんれふよ。だから、友達が欲しくって、ついつい」
「友達を作るのに苦労する性格らしいしな」
くふふふ。と、ポポーニャは笑った。
「まあ、そう言わずにこっちに来てくらはいよ。時間を持て余しておりまふ故」
ポポーニャが手招きをする。ヒューはちらりと出口の方を見て、(帰って来るはずもない)マリンカの不在を不安に思った。しかし、彼はポポーニャの間の抜けた口調を聞き、どこか油断していた。何かしらの敵意を持つような人間に見えなかったのだ。ポポーニャの性根は彼の憶測とは程遠い。
ヒューはゆっくりとロビーから食堂へと歩を進め、ポポーニャの向かいの椅子を引き、そこに腰を掛ける。ポポーニャは上機嫌な様子で、にこにこと笑っていた。
「……美味そうなステーキだな」
彼女の皿に盛られた厚切りの肉塊を見て、ヒューはそう言った。
「今日は大きな仕事が一つ片付いたんれふ。そういう日は、誰だって自分へのご褒美があって然るべきれふ。わらしの場合は、こうして大きい肉を食べ……え? ステーキ?」
ポポーニャは突然、真顔になる。
「ステーキって何れふ?」
「何って、ステーキだろ? ビーフ・ステーキ。どう見ても……」
言いかけて、彼はぎくりとした。ひょっとすると、この世界には“ステーキ”が存在しないのかもしれない、と彼は思った。
「わらしが注文したのは、“カブー”れふ。世界のどこにでもある、牛の厚切り肉れふ。ステーキって?」
カブー? と、彼は思った。が、とにかく話を合わせるしかない。
「そ、そうだった。カブー、カブーだ……俺の住んでいたところではこれをステーキと呼ぶ」
ポポーニャは“カブー”をフォークで刺し、ナイフも使わずに齧りつく。もぐもぐと咀嚼しながら、きょとんとした顔でヒューを見ていた。
「……出身は?」
ヒューは、ごくり、と唾を飲み込む。
背中を嫌な汗が走った。
「出身は……その……ぎ……ギゼル」
彼は言った。マリンカが口にしていた地名を、彼はたまたま記憶していた。そして、それ以外に選択肢は無かった。
そして、その唯一の選択肢は、最適解には程遠いものだった。
「ギゼル!? あの、亜人しか住んでいないギゼルれふか?」
ポポーニャは目を剥きながら驚いた。
「……拾われたんだ。俺は捨て子だった」
必死に嘘を上塗りするヒュー。
ポポーニャの浮かべる嫌らしい笑みに、彼の不安は膨れ上がっていく。
「ははぁーん。なるほろ」
ポポーニャはしたり顔で頷いた。
「……それでさっきのピピット族と二人旅しているワケれふか。亜人と一緒に住んでいたから、亜人と仲が良い。つまり、あんたは幼児性愛者でも聖人でもないと」
「そう、そうなんだ!」
思わぬ相手の勘違いに、ヒューは喜んで食いついた。
「あいつとは、生まれも育ちも一緒なんだ! だから、俺に君らのような偏見は無い」
「本当に?」
ポポーニャの質問の意図が、本当にギゼル出身なのか、本当に偏見が無いという意味なのか、ヒューには分からなかった。しかし、この質問をこれ以上掘り下げても、良い事は一つもない。彼は「本当だ」と一言呟くと、それ以上何も言わなかった。
「ふーん。まあ、わらしらって、偏見は無いれふよ」
と、ポポーニャは言うやいなや、懐を弄り、一冊の本を取り出す。それは例の上等な装丁の聖書だった。
彼女は目の前の“カブー”が乗った皿をテーブルの隅に退け、どしん、と聖書を置く。
「わらしの仕事は、異端審問官なんれふ」
異端審問官という言葉に、びくん、とヒューの身体が揺れた。本当は天井にまで飛び上がりたかったのを、何とか身の震えだけで済ませる事が出来た。
「わらしの最初の仕事は……友人を処刑する事れひた。その友人は、どんな亜人とも偏見を持たずに接する、素晴らひい聖人らったんれふ。それは正しい事と思えたし、わらしも彼を見習って亜人差別をしないと心に決めたんれふが……実は、彼が亜人に偏見を持っていない事には、別の理由があったんれふよ。
彼は決して聖人などではなく、ただただ亜人への差別意識とは程遠い境遇に育っていただけなんれふ」
ヒューの顔を覗き込むポポーニャ。
「その友人はなんと、異世界の住人だったんれふ」
彼はまたまた身体を震わせる。全身を走る痺れのような衝撃。
そんな事あるわけない、とヒューは呟いた。声は掠れて、弱々しい。
「それが、あるんれふ! この世には、この世の理を歪める力を持つ、マナを真っ黒に汚す悪魔の禁書が……キャンディ・マニュスクリプト。この書物に携わった人間は、例え友人でもわらしは裁かねばならんのれふ。
……とは言え、最初の仕事はわらしにとっても少ししんどいものれひた。友人を火刑にかけるのは、誰にだって辛い事。わらしにらって辛い事。辛くて辛くて、困難な仕事れひたが……それは逆に、わらしにとって決意を固める大事な仕事れひた。大きな壁を越えた仕事。この聖書はその時の記念品なんれふよ」
記念品、とヒューは呟いた。声は掠れて、弱々しい。
「この本は、人の皮で出来てるんれふ」
「……!?」
「人皮装丁本れふ。これはその異世界の友人の皮れれきてまふ」
ヒューは目の前の人物の狂気に、そして食卓に置かれた本の禍々しさに、勢いよく仰け反った。
恐怖が追いつく暇無く、ただただ人間の本能が反射として彼の筋肉を緊張させ、椅子ごと全身をひっくり返す。
彼は自身の後頭部を激しく地面に打ち付け、強烈な痛みと共に、目の前にチカチカと火花が走った。
「くひーっひひひひ! コケたコケたぁー! ひゃひひひひっひっひ!」
両手を打ちながら、ポポーニャは大爆笑する。
痛みとともにぐるぐると回る視界。塞がりかけた傷口から、じわりと血が滲むのを彼は感じた。
……焼け死ぬ直前、あの女騎士は「神様」と叫んでいた。
今なら自分にもその気持ちがよく分かる、と彼は思った。自分を襲う不条理な不運の連続に、彼は同じ言葉を叫びたかった。
しかし、それは都合の良い話だ。彼の世界では、とっくに“神は死んでいる”し、彼もずっとそう思っていたのだから。
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