7 とんだ悲劇

 ヒューとマリンカがパドの門をくぐると、町には不気味な程に人気が無かった。数万人の人々が住むメルギア王国随一の商業都市が、ゴーストタウンよろしく閑散とするなんて、普段ではまずあり得ない事だった。

 不審に思ったマリンカだが、町の中央広場に見える異常な人だかりを見ると、すぐに彼女の疑問は解決した。何千人という規模の局所的な密度が、この町全体を閑散とさせているらしかった。

 ……そして、こんな人だかりが出来る原因は一つしか無い。問題は、その規模感だけだった。

 一方のヒューは、人が多いだとか少ないだとか、そう言ったレベルの目線で町を見ていなかった。例え人っ子一人居なくても、誰かに「真夜中に間違えて太陽が上がっただけ」と言われれば「そういう事があるんだな」と信じてしまうだろう。これ以上この世界に驚かされないよう、彼は出来るだけ常識を捨てる事にしていた。


 彼の魂はようやく自身の新しい身体に馴染み始め、危うげながらも真っ直ぐに歩く事が出来ていた。ただし、少しでも気を許せばふらつくし、誰かにぶつかれば酔っぱらいのようにその場に倒れ込んでしまうに違いない。

 町に入る前に彼は「普通を装え」ときつくマリンカに言われていた。優れない体調を隠し、この世界について知らない事を隠し、見慣れない光景を見飽きた風に装い、当たり前のように町を歩け、と。

 幸いな事に、パドの町は彼にとってどこか既視感のある佇まいだった。外壁門から続く石畳、連なる木組みの家々、軒先で売られる果物、焼けたパンの香り……それらは彼の元居た世界の『何処かの時代の何処かの風景』と大きく変わる事無く、建築技術や美的感覚が、いくつかある彼のものさしにぴったりと当てはまるのだった。

 むしろ彼を困惑させたのは、時折すれ違う亜人の姿だった。マリンカと同じピピット族だけではない。動物の耳を生やした人間、頭に草木を生やした人間など、彼にとってまだ未知の人種が存在する事を彼に知らしめた。


「じろじろ見るなでありんす」


 思わず横目で見てしまうヒューに対し、マリンカは彼の方を見ずに、ぼそぼそとそう呟いた。


「……これからどこへ向かうんだ?」


「とりあえず、広場の“見世物”を見とくが吉でありんす。あんたの今後のためにも、あっしの好奇心のためにも」


「あの人だかりは何だ?」


「すぐに分かるでありんすよ」


 マリンカの言葉に従い、ヒューは真っ直ぐ広場に向かって歩き続けた。三百メートルか、四百メートルか、数ブロックの通りを進むにつれ、マリンカの言う“見世物”の正体が彼にも分かり始める。

 それは、公開処刑だった。

 白いボロ着を身に纏った女性が、垂直に立てられた丸太に縛り付けられていた。長い金髪に美しい顔立ち。誰かを射抜くような目つきが、これから自分の辿る運命に抗うように、ギラギラと輝いているのだった。

 人だかりからほんの少し離れた場所で馬車を止め、マリンカは荷台によじ登った。彼女の身長では、とてもじゃないがこの群衆の壁の向こう側を見ることは出来ない。公開処刑は珍しいものではないが、この人の数は異常で、彼女の好奇心はこの異常事態を巻き起こしている“人物”にあった。

 ごちゃごちゃとした荷台を慎重に踏み台にし、ようやく憐れな死刑囚の顔を見た瞬間、彼女は仰天した。せっかく登った荷台から、危うくずり落ちそうになった。


「こ、これは何の冗談でありんすか!?」


 ヒューの助けを借りながら、マリンカは再び荷台によじ登る。


「チルシィ・ジファール! チルシィ副団長が……火刑にかけられるなんて! たまげたでありんす……でも、一体どうして……?」


 と、マリンカはチルシィ副団長の怨嗟の視線の先に居る人物を注視する。

 そこには、例の異端審問官ポポーニャ・ストロベリーフィールズが、さも敬虔な顔つきで立っていた。


「あの顔は確か……最近この町に来た異端審問官。魔女狩りでありんすか」


 マリンカはヒューの方にちらっと視線を向ける。彼女の視線に気がついたヒューは、事態が飲み込めずに困惑した表情でマリンカを見つめ返した。


「よぉ〜く見とくがいいでありんす。教会はあんたの存在を許さないと言ったでありんすが……その末路があれってわけで。気をつけないと、すぅ~ぐにあんたも同じ運命を歩む事になる」


「あの女性は?」


「この町の……いや、この国の有名人でありんす」


「何で処刑されちまうんだ?」


「この世に神に裁けない者は誰ひとりとしていないでありんす」


 マリンカの皮肉たっぷりの言い回しに、ヒューは分かったような分からないような、何とも言えない気持ちになった。

 要するに、と彼は思った。


(要するに……これはただ、そういう事が起こる時代ってだけで……そんなに驚く事じゃない。あんな美しく若い人が大勢の前で殺されるなんて、それを見世物にされるなんて、酷い話だけど)


 どこか現実離れした光景に、彼はそれ以上の感想を持ち得なかった。

 が、いよいよ死刑執行人がチルシィ副団長の足元に火をつけた瞬間、彼女はほんの一瞬だけその気丈な表情を崩した。自分がいよいよ地獄へと叩き落とされる、ほんの数秒後には炎の痛みが全身を支配し、全てが闇へと閉ざされる……人間である以上抗えない、死の恐怖。

 ヒューはその刹那の表情に、ぎくり、と身を強張らせるのだった。


「……ポポーニャ! ポポーニャ異端審問官!」


 めらめらと燃え始める薪。

 チルシィは憎しみか、あるいは恐怖に抗う虚勢か、あるいはそのどちらも混ざった鬼気迫る表情で、自分を焼き殺す異端審問官に向かって絶叫した。


「ポポーニャ! よく見ろ! 貴様がこれから焼き殺す人間の顔を! ……クソっ……全部貴様が仕組んだ事だったんだ! マーシャも、クロエも、ジキタリスも……全て貴様の差金だった! 最初から犠牲者は私一人だったのだ!

 ああ……私は何て愚か者なんだ! 何が神だ! 何が教会だ! これほど悪辣な外道を、どうして見抜けなかったんだ! こいつの頭の中に、正しいも悪いも何も無い! ぐだぐだ語っていた善悪論は私への刷り込みで……こいつは最初から私を罠にかける為に……ああ、神様! こんな畜生をあなたのお膝元にのさばらせておくなんて、あなたは何をぐずぐずしておられるのですか!? 今すぐこいつの脳天に雷を落とし……ぐっ! ごほっ! げほっ!」


 尋常ではない煙が立ちこめる。チルシィの姿は煙に包まれ、外からはまるで見えない。


「げほっ! ぽ、ポポーニャ……ごほっ! 貴様が死んで……地獄で最初に出会うのは……私だ……! げほっ! ああ、神様! 神様! どうして、どうして……! どう……して……」


 炎の勢いは加速し、灼熱がチルシィの全身を包み込む。その場に居た全員が寒気を感じる程の怨嗟の言葉も、炎の勢いと共に弱々しくなり、やがて聞こえなくなった。

 彼女はしきりに神の名を口にしたが、神が手心を加えたとすれば、恐ろしい炎の痛みに包まれるより先に彼女の意識を断ち切った事だろう。

 即ち、一酸化炭素中毒。

 チルシィの絶叫はあっと言う間に自身の肺を煙の毒で満たし、彼女を絶命に至らしめたのだった。


 ヒューは思わず目を背けた。直視に耐えない光景と香ばしい香りに、せっかく収まった吐き気がぶり返してきた。また、この大衆の中で最もあの死刑台が近しい人間が自分だと言う事実も、少なからず原因の一つだった。

 あの女騎士の言葉が、果たして魔女の呪いなのか、清廉潔白を汚された亡者の断末魔なのか。一部始終を眺めていた野次馬たちの耳にはどう聞こえてるのだろうか。そして、それが自分の時は……?

 彼はふと、そんなふうに考えた。


 マリンカは荷台から飛び降りると、ぱんぱん、と膝についた砂を払う。

 その瞬間、ぽつり、と小さな水飛沫を顔面に感じ、彼女は空を見上げる。


「ひと雨来るでありんすな」


 マリンカは馬の手綱を握り、そそくさと歩き始める。ヒューは天に伸びる煙をちらりと振り返り、マリンカの後をついて行った。


 ほんの少し歩いたところで、マリンカは手頃な宿屋を見つけると、手際よく納屋に馬を入れた。手綱を括り付けながら、彼女はちらりとヒューの方を見る。先程の惨劇が脳裏から離れず、ヒューは物憂げな顔で納屋の外を眺めていた。いつの間にやら、外は土砂降りの雨になっていた。


「何を考えているんです?」


 マリンカは訊ねる。


「……この町の人々は、あれを見てどう感じているんだ? って考えている」


「教会は怖い! とか、雨のせいでもう一回死体を焼かないといけないな、とか」


「あれは正当な処刑なのか?」


「神のみぞ知る、でありんす」


「あの女騎士の言葉に耳を傾けて、立ち上がる人間は?」


 マリンカは手を横に振った。


「あれは大衆にとって、寸劇みたいなもんでありんす。目の前で行われた事は、遠い世界の話でありんす。非道な教会、憐れな女騎士。それだけ。心の中に芽生えた義憤は、ただのカタルシスの一環にすぎない。悲劇もただの劇にすぎないように。

 ……ヒュー、あんたは優しい人間なのでありんすか? それとも正しい人間?」


「優しくも正しくも無い」


 マリンカは腕組みをし、ゆっくりと頷いた。


「それなら結構。あっしと取引をするつもりなら、くれぐれも自分が正しい人間かどうかだなんて、試そうとしないように。

 あんたの世界がどうかは知らんですが、この世界はとても理不尽でありんす。

 あんたの世界にも、理不尽という言葉はあるんです?」


「沢山ある」


「なお結構。ほい、これ」


 マリンカはヒューに向かって、おもむろに布の袋を放り投げる。ヒューはそれを受け取ろうとしたが、予想外の重さに手元から滑り落ち、地面に落としてしまった。彼は訝しげな表情でマリンカの方を見つつ、仕方なく布の袋を拾い上げると、中には見たこともない銅貨と銀貨がぎっしりと入っていた。


「それはこの世界の貨幣でありんす。銅貨は1ゴールド、銀貨は10ゴールド。

 ここからはフリでも良いんで、あんたが宿屋を取ってくれなきゃ困りやす。あっしはただの従僕で、あんたと対等に口を利くことも許されない。あっしが無礼を働いた場合、あんたはあっしの顔面を蹴り飛ばさなきゃならんでありんす」


「俺はまだ取引を飲むなんて言ってない」


「あっしだって、取引成立なんて一言も言ってない。捨て犬のように憐れなあんたの寝床を確保するために、わざわざやってるんでありんすから。さ、早く」


 マリンカは、くいっ、と首を傾げ、ヒューを宿屋の方へと促した。

 ヒューは一瞬迷ったものの、彼女に言われるがまま、宿屋の方へ向かって歩く。


(……これは彼女なりの優しさなのだろうか?)


 と、ヒューは考えた。もちろん、見知らぬ世界で雨ざらしになりながら路頭に迷うことを考えれば、涙が出るほど嬉しい申し出だ。

 とんだ悲劇の連続を受け、彼はこの世界に対して失望しかけていた。あの処刑を見た町の人々が何を考えているのかが気になったのは、この世界に失望したくなかったためだ。

 ……マリンカの行動がただただ利己的なものと断じてしまっても、きっと間違いではない。彼を自分の側に繋ぎ止め、何とか自分の復讐の手伝いをさせようと考えているのだろう。

 しかし、彼は落ち込んでいた自分の気持に、ほんの少し陽の光が射すような感覚を覚えていた。悲劇もただの劇。それは違いない。しかし、悲しいと感じる心は本物で、少なくともマリンカはあの処刑を“悲しむべき事”と捉えているのだ。宿屋を取るのだって、取引の話にケリをつけてからで良いはずだ。取引不成立の瞬間、彼の尻を蹴飛ばして町に放り出せば良い。

 商人の厚い面の皮から透けて見えるマリンカの人となりに、彼はひとまず安堵に近い感情を覚えたのだった。


(……平常心だ。宿屋を取るだけだ。旅先で旅館を借りるのと何も変わらない。一泊いくらですか? 言われた金額分の硬貨を取り出す。それだけ。普通を装うんだ……)


 彼は深呼吸をし、宿屋の扉を開け、カウンターにそそくさと歩みだす。しかし、事もあろうに、平常心を先に乱したのは彼に続いて入ってきたマリンカの方だった。

 宿屋のロビーには食堂スペースが設けられており、そこには昼下がりの軽食を嗜む人物の姿があった。

 人物は、先の処刑で一仕事を終えた、ポポーニャ異端審問官その人だった。

 マリンカとポポーニャの視線がぶつかり、マリンカの小さな口から「おわっ」という小さな悲鳴が漏れた。

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