6 続・とんだ異端審問官

「悩みがないなんて羨ましいれふ!」


 ぱちぱちぱちぱちと小刻みな拍手をし、ポポーニャは笑った。無遠慮で、相手を小馬鹿にしているようにすら見える仕草。しかし、それが思慮に欠ける愚かな振る舞いと言い切れないのは、彼女の所作の一つ一つに知性の尻尾が見え隠れする為であった。

 対して、正面に座るチルシィは真顔を崩さない。相手がどんな理由でここに居るのかを見極めるまで、彼女は決して油断するまいと気構えていた。

 疑心暗鬼がゆらゆらと陽炎のように揺れる中、ポポーニャはさも楽しげに話を続ける。


「わらしはこの仕事を誇りに思っていまふ。でも、最初からそうでは無かった。そうなるまれには多少の時間がかかったんれふ。

 異端審問官の任を受けてから、様々な疑念がわらしの胸に去来しまひた。異端者とは? 神罰を受けるべき人間とは? わらしが罰そうとひている“悪しき人”とは?

 そもそも全知全能の神様が、どうして異端者をお創りになられたのか?」


「神職者が神を疑うなんて」


「疑いはより強力な証明へのプロヘフれふ」


「プロヘフレフ?」


「プロヘフ」


 ポポーニャが言いたかったのは、プロセスという単語だった。

 チルシィは結局聞き取れなかったが、文脈で何となく察すると、再度訊ねることはしなかった。


「なによりの問題は『神に背く人間が、本当は善人かもしれない』という事れふ。善良かもしれない人間をわらしがこの手で葬り去ってしまう事に対するジレンマ。分かりまふか?

 例えば副団長殿。騎士団が守る人間にはきっと根っからの悪人や、守るに値しない人間もいまふ。もちろん、それを分別するのはあなた達の仕事では無いれふが……あなたの守った悪人が、他の善人を苦しめるような事になったら、どう思いまふ?」


 チルシィは小さく肩を竦めた。


「愉快だとは思わない。しかし、私がその悪人とやらを独善で罰すれば、その時点で私が悪人だ」


「そうれふ。だから、あなたは時として悪人を守り、わらしも善人を裁く。それは我々の仕事の性質上、仕方のない事れふ。

 しかし、わらしにはそれが耐え難い事のように思えまひた。不愉快どころれは無く、耐え難い。自分の弱さに辟易するほろに。

 異端審問が独善では無いという証明がわらしには必要らった。そうれなければ、わらしは教会の権力の為に働く狂犬となってしまう。それはとても恐ろしい事れ、耐え難いことなんれふ」


 ポポーニャは腕を組み、椅子に深々ともたれ掛かった。


「そもそも悪とは? わらしが思うに、悪とはただの”流れ”れふ。水は海に流れればよろしいが、町に流れば水害になる。

 人間も同じ事れふ。行動そのものの流れが正しければ善、そうれなければ悪。

 その道標にこれが必要なんれふ」


 ポポーニャは法衣の中を弄って聖書を取り出すと、どさっ、とチルシィの目の前に乱暴に置いた。

 机の上に置かれた聖書を、チルシィはちらりと見る。少し傷んではいたが、皮のカバーにきめ細やかな装飾が施された上等品だった。


「ある日わらしは、ふとした瞬間に、わらしの仕事は誰かの”善悪”を咎めるものではないと悟ったれふ。

 最初の人間は完璧だったと、聖書それには書いてあるれふが……誤った行為をその本で正しきる事が出来なかったのは、腐敗した教会の落ち度れふ。

 落ち度は遺伝という形でマナを汚染し、亜人を生み出し、やがて悪魔を生み出した。産まれるべきでない”汚れた魂”を精算するのが、わらしたち異端審問官の仕事なんれふ。

 そこにはもはや善も悪も関係ないんれふよ。これはただの浄化なんれふ」


 ポポーニャは椅子から立ち上がり、ゆっくりと部屋の中を歩き始めた。


「わらしの異端審問官としての最初の仕事は、同性愛者の少女を火刑に処する事れひた」


 同性愛の少女、という言葉にチルシィはぎくりとした。続いて連想されたのは、訓練生達の自身への苛烈な敬愛、そして自身の春画。

 盗み見るようにポポーニャを見ると、彼女はなんの気無しに部屋の本棚を眺めていた。


「同性愛は聖書では正せない。そういう性質に産まれてしまった事は、その少女の落ち度でも何でも無い。

 原初の純粋な人間たちのほんの些細な悪意が、人から人へ、動物から動物へ。偏ってるつぼとなったマナの淀みが、胎内で眠る彼女に障り、彼女は穢れて産まれてしまっただけれふ。

 しかし、そうなった以上、彼女のマナだけを浄化するのは不可能。一度神の元へ還す事、それのみが唯一無二の回復手段なわけれふ。

 聖書は全てれふが、万能薬では無い。その本の力れは、毒キノコをただのキノコにする事はできない。

 即ち、わらしの使命は毒キノコを見分け、刈り取る事れふ」


 ポポーニャは自分の首を掻き切るマネをした。


「わらしはその初仕事でそう悟った。少女を火刑にかけた事で迷いを捨てたれふ。

 その本はその時にこさえた記念碑のようなものれふ」


 チルシィは目の前の聖書を手に取り、ぱらぱらとページを捲った。

 そこに書いてある事は当然ながら、チルシィ自身も幼い頃から読んでいたものと同じだった。


「確かに記念品らしい。上等な装丁だ」


「ええ。お金は掛かりまひたが……それ以上に職人を探すのに苦労しまひた。特殊な素材を使ったオーダーメイドで、やってくれる職人がなかなか居なかったれふ」


「特殊な素材?」


「“人間の皮”れふ」


 理解が及ぶまでの一瞬、チルシィの体は固まった。

 そして次の瞬間、彼女は猛烈な勢いで本を手放し、椅子ごと仰け反る。


「……な……なっ!」


 途端に、上等な装丁から呪われた何かが立ちこめ、自分の指にぞわぞわと纏わりつくような錯覚に、チルシィは嫌悪感を隠しきれなかった。

 羊や馬の皮と何一つ変わらない見た目や触覚が、尚の事恐ろしい。


「人皮装丁本ってやつれふな。それ、その時の女の子の皮れれきてまふ」


「な、何故そんな!? 何て事を……!」


 どん、と両手を机に叩きつけ、ポポーニャは仰け反るチルシィに顔を近づけた。

 毅然としていたはずの副団長の表情は、動揺の色を隠せなくなっていた。


「サーナキア! あの時の少女の名前れふ! その本にはサーナキアのマナの残り香が今でも内包されているんれふよ!

 チルシィ副団長! わらしは彼女のマナに誓って、この仕事を妥協しない。

 教会のツケはデカいれふ! 最初の預言者は偉大だったが、長い教会の歴史に蔓延った怠慢が、病となってマナを汚している!

 傷み、虫食い、汚れなきものを汚そうとしている!

 この騎士団もそうれふ! チルシィ副団長。あなたは毒花だ。

 あなたの振る舞い、言葉の全ては、少女たちのマナを汚す毒蜜れふ」


「何だと……!?」


 ポポーニャの言葉に、チルシィの動揺はすぐさま激昂へと変わった。

 ばん、と机を叩き、今度はチルシィの方がポポーニャに食って掛かる。

 互いに一歩も譲らない勢いで、二人の顔は触れるか触れないかギリギリにまで近づいた。


「怒るんれふか?」


「侮辱されて怒らないはずがないだろう!」


「侮辱と感じるのは、それが図星だかられふよ、チルシィ副団長殿。

 ……おーい、入って来て」


 ポポーニャの呼びかけに、そっと開かれる副団長室のドア。一触即発の状況に顔を出したのは、三人の訓練生達だった。

 クロエ、ジキタリス、そしてチルシィの春画を描いた張本人のマーシャだ。

 クロエは普段の格好が男装だし、ジキタリスは極端な男嫌い。三人のある共通項が、人皮装丁本の材料となった少女の性質と重なり、チルシィの不安を確信に変えてしまった。


「……どうしてこの三人が呼ばれたか分かりまふか、副団長殿。分かるはずれふ。

 あなたを想って自分を穢した三人れふよ」


 三人は真っ赤になり、いっそ今すぐ死にたい気持ちに駆られた。

 羞恥心は死よりも恐ろしかった。


「彼女たちはそんな事はしない」


「”騎士道”に誓ってそう言えまふか?」


 にたにたと、笑うポポーニャ。彼女の笑みは、どこか爬虫類を思わせる。


 チルシィは歯を食いしばり、あれこれと考えた。

 やっぱりこの件か、という事。

 どうしてこの異端審問官がそれを知っているんだ、という事。

 どこまで知ってるんだ、という事。

 このまま彼女達を見殺しには出来ない、という事。

 そして……この事が公になれば、騎士団にとってこれ以上の恥辱は無い、という事。


「正直なところ、わらしは決め兼ねてるんれふ」


 ポポーニャはそっと訓練生の一人……クロエの側に立ち、まるで自分の飼い猫のように彼女の顎を優しく撫でた。


「……っ!」


 クロエは強気な表情を崩さなかったが、ぎくり、と身を強張らせた。

 ポポーニャはくすりと笑い、三人の顔をまじまじと見ながら、喋り続ける。


「この三人は、果たして本当に穢れているのらろうか?

 本当に毒キノコ? 過ちはほんの少しの気の迷いだったのかも。

 もしかすると、環境が悪いのかもしれないし、もしかすると、誰かが彼女達を拐かしたのかも……」


「その誰かというのは私の事か?」


「そうは言ってませんが、そうとしか言い様が無いれふね」


 チルシィは一瞬、憤怒の表情を浮かべたが、ほんの少し何事かを思案した後、小さくため息をつく。

 どさり、と椅子に腰掛けると、観念した様子を交えつつ、ポポーニャを睨みつけた。


「……なら、私を連れて行け」


 クロエ、ジキタリス、マーシャの三人は、副団長の言葉に唖然とした。


「副団長!?」


「何を仰るんですか!」


 クロエとジキタリスが慌てて声を上げた。


「私は騎士だ。逃げも隠れもしない。

 異端審問会で正々堂々と決着をつけてやる」


 チルシィは妙に落ち着いた面持ちで、ゆっくりと脚を組む。


「本気で言ってるんれふか?」


「騎士に二言は無い!」


「ち、チルシィ副団長!」


 今度はマーシャが声を発する。


「わ、私が……私が行くべきです! 今日の事は全て私が原因です! クロエもジキタリスも関係ない! ましてやチルシィ様が罪を被るなんて! ほんの出来心とは言え……私はチルシィ様を……玩具にしたも同然です! 私を恨み、軽蔑して下さい! 私こそが罰せられるべきです! どうか……どうか……!」


 マーシャは泣き崩れながら、ほとんど絶叫に近い声でそう言うと、ついには床に突っ伏してしまった。

 チルシィは若き訓練生を憐れんだ。


「マーシャ。私が恐れるのは、騎士の魂や正義の心が悪しき暴虐に敗北する事だ。

 今のお前はまだ訓練生だ。お前の過ちは私の落ち度で、お前たちがすべき事は、この一連の出来事から何を学ぶかという事。

 ……ポポーニャ異端審問官。今日という日にはお前たち教会の暴虐から、私達が逃れる術は無い。ただし、正義は必ず勝利する。長い月日をかけ、多くの犠牲を払い、世界は正しい秩序で満たされるだろう。正義の炎に焚べる薪となるなら、私は喜んでこの身を捧げる」


「本物の薪になっても構わないんれふか?」


「私を焼く勇気があるならな」


 チルシィは、これは戦いだ、と思った。

 罪ですら無い言いがかりで罰を受ける人間を代表して、自分の信念の為、騎士団の為、訓練生たちの為に負けるわけにはいかないと。

 彼女の脳裏には、聖書の装丁に成り果てた少女の痛みと苦しみと無念が、いま目の前で起こっている出来事のように張り付いていた。


 ……そして、ポポーニャは最後の最後まで不気味な笑みを絶やす事が無かった。

 まるで全ては自分の筋書き通り、とでも言わんばかりに。

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