4 とんだ商談
マリンカの荷馬車の空きスペースに、彼は体をうんと小さくしながら乗っていた。乗り心地も座り心地も最悪だったが、自分の足で歩くよりはマシだ、と彼は我慢した。
というより、とてもじゃないが彼は自分の足で歩く事が出来ないでいた。マナが馴染みきっていないのだ、とマリンカは言う。
「あんたと同じ異世界からやってきた人間が、大昔に居たらしいでありんす。その男の肉体も元々は一流の剣士のものだったけれど、マナが入れ替わってからは剣術の方はからっきしだったらしい。ソードマンも魔法使いも、己のマナを巧みに操って技術を向上させているんですな。
あんたが元居た世界で何をやっていたのかは知らんですが、他人の家の勝手が分からないのと同じように、他人の肉体が如何に具合が違うかって話でさあ。でもまあ、すぐに慣れると思いやすよ。ヘソクリの場所までは分からんでしょうが」
「……マナって何だ?」
馬上から怪訝な顔をしてマリンカが振り向く。
「マナはマナでありんす。あんたの世界に、この言葉は無いでありんすか?」
「無い」
マリンカは驚いていた。
「マナはどんな動物にも備わる、目に見えないエネルギーの流れでありんす。歩行、狩猟、逃走、思考、会話。剣術も、魔法もそう。それら全ての行動がマナの力と流れによるものでありんすよ」
「行動は筋肉が行うものだし、思考は脳が司る機能だ」
「魔法は?」
「そんなものは無い」
マリンカは失笑し、まじまじと彼の顔を見る。
「あまり文明の発展していない世界から来たんでしょうな。筋肉……ぷぷぷ」
彼の元居た世界に、マナという概念は存在しなかった。代わりに”科学”が発展していたが、マリンカにそれを伝えることは難しいだろう。彼にマナという概念が少しも理解出来ないように。
「いや、失敬。あんたの住んでいた世界を馬鹿にしたいわけじゃないでありんすが……この世界のこの時代に来た以上、最低限の物事は知っておかなくちゃいけませんな」
「君の言うマナってのは、魂みたいなものか?」
彼の質問にマリンカは、うーん、と唸った。
「魂はマナの形状を指す言葉でありんす。歪なマナは動物の姿形を変質させる。特に、変質した人間は亜人と呼ばれ、純血人と同じ扱いはされないでありんす。“差別”ですな。
差別って言葉は、あんたの世界には?」
「沢山ある」
「じゃあ亜人が居るでありんすか?」
「いない」
「どうしてそれで差別が起きるんで?」
彼は少し悩んで、言葉を探した。
「それは……肌の色が違ったり、国や宗教や言語が違ったり……あと、能力が低いとか、趣味が受け入れられないとか……とにかく、理由は様々だ」
マリンカはハットを脱いで、自分の尖った耳を指で弾いた。
「耳の一つも尖っていないのに? チビでもないのに?」
彼はくすりと笑った。この世界に来て初めての笑みだった。
「耳の尖った人間は居なかったが、チビなのは仕方無いだろ。その歳じゃ……」
彼の言葉に、マリンカはあからさまにはっとする。
妙に演技臭い振る舞いから、本当に驚いた訳ではないらしい。
「おっと、それは失言でありんすな。旦那はあっしの年齢を知らないでしょう」
「10歳かそこらだろ? 君みたいな幼い子が行商人だなんてのは不思議だが……それもこの世界の特色なんだろうな」
「本気で言っているのでありんすか? 10歳のガキンチョが行商人をするって?」
「……俺からすれば、この世界はあり得ない事ばかりだから。違うのか?」
彼がそう言うと、マリンカは不敵な笑みでハットを被り直した。
「まあ、とにかく。すぐにあんたも亜人について勉強する事になるでありんすよ。
あっしら亜人は、純血人とマナの形が違うでありんす。形の違いは”穢れ”。あっしらは穢れた存在として長年酷い扱いを受けてきたでありんす。
この国で数年前に発布された”亜人解放宣言”は形だけのもの。根強い差別意識は宣言なんかで消せやしない。亜人と純血人は、永遠に憎み合う関係なんでありやす。
しかし、旦那は純血人だ。異世界人とは言え、外っ面は純血人。そこにあっしとの利害の一致ってヤツがある訳でさぁ」
マリンカは前を向きながら、馬の動きに合わせてゆらゆらと頭を左右に動かす。代わり映えのしない森の風景より、ころころ忙しない彼女の挙動が、彼の興味を惹いていた。
「亜人は弱者でありんす。純血人に虐げられ、商売も満足に出来やしない。ミミの態度は行き過ぎたものじゃなく、この世界では当たり前の反応でありんす。
……でも、亜人よりももっと弱い存在がいる。ヒュー、あんたです」
「何度も言うけど、俺はヒューなんてヤツじゃ無くて……」
マリンカは右手をひらひらと振った。
「何度も何度も言うけど、あんたはヒューなんです。そうでなくちゃ困るでありんす。
……あんたはこの世界で、異世界人である事を絶対に他の誰にも知られちゃいけない。あんたの存在を教会は許さないだろうし、異端審問官にとっ捕まったら、あっと言う間に火炙りでありんす。
もちろん、あっしは止めやしないですよ。あんたがヒューだろうとファーだろうと、本当の自分を主張したいなら、勝手にすればいい。それであんたが炙られたとして、あっしがあんたを庇う義理も無い。でしょ?」
「そうはっきり言われちゃ悲しいけど」
事実、彼が今頼れるのは目の前のちっぽけな少女一人だけ。彼女に突き放されると、酷く心が痛むのであった。
「うむ。しかし、お互いが悲しい気持ちにならないために、”商談”ってものがこの世にはあるんでありんすなぁ」
「一銭も持ってない俺に何を売りつけるって言うんだ?」
「あっし」
少女は親指で自分自身を指す。
当然、彼は戸惑った。
「……何だって?」
「商品はあっし。あっしを買えでありんす。奴隷として人間扱いせず、ただの道具として扱え、という意味でやす」
彼は未だに理解が及ばず、言葉も見つからない。
「お前は変態なのか?」
マリンカは首を横に振った。
「あっしが……亜人が商売をする事が、どれだけ苦労の連続か旦那は知らないでやしょう。つって、同情を買いたい訳ではないでありんすよ。
要するに、あっしの店の“看板”になって欲しいでありんすな。商売は全てあっしが考える故、あんたはあっしを隷属させているフリをしてくれるだけでいいんす。
あんたにとってもこれは利益だ。右も左も分からない世界で一人放り出されるより、あっしというこの世で唯一の理解者が側にいた方が、何かと都合がよろしかろう。
それとも、なんの頼りも無く明後日の方向に一人で歩き始める? あまり良い選択とは思えませんな」
マリンカは馬を止めて彼の方に振り返る。
「どうでやす? 悪い話じゃ無いでしょ」
彼は少し考えた。
「……むしろ旨すぎて信用出来ないぐらいだ。俺が君を買うとして、俺は一体、何を払うんだ?」
マリンカは笑った。いかにも残酷な、悪魔の笑みだった。
「貸しにしとくでありんす。
これから行く町に、グラスケージという商人が居るんでやすが……あんたが支払うのは、そいつの首だ。
ミミとネネみたいな雑魚であっしの復讐は終わらない。
交渉成立か、さもなくば路頭に迷うか。今すぐ決めるが良いでありんす」
マリンカの言葉が冗談でもなんでもない事を、彼女の低い口調が物語っていた。
彼は考えた。
”俺は一体、何をさせられようとしているんだ?”
”このマリンカって少女に、莫大な借金をしようとしているんじゃないか?”
”グラスケージってのは、どこのどいつだ?”
「……今の俺にはまだ何も判断出来ない」
マリンカは、どん、と荷台を両手で叩いた。
彼はぎくりと身を震わせる。
「ノー! ノーでありんす! あんたの返事もイエスかノーでありんす!
……と、言いたいところでやすが、仕方ない。
今の自分がどれだけ脆弱な存在か、これから向かうパドの町で思い知るでしょうな。
商談はフェアにがモットーでありまするが……この世は決してフェアじゃない。不運は万死に値する。
あんたは知るべきでありんす。教会を、異端審問官の恐ろしさを」
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