3 とんだ復讐者

 全身を這う羽アリの群れが、無数の穴を穿つ。

 頭のてっぺんからつま先まで痛覚の固まりとなった姉妹は、人間とは思えないおぞましい奇声を発しながら、じたばたとのたうち回っていた。

 ネネは早々に発声器官を食い破られ、無言のままもがき続けていたが、徐々に動きが鈍くなり、やがて動きを止めた。ミミは妹よりほんの少しだけ息が長かったが、その分長い時間をかけて苦しむと、奇声は呻き声に変わり、全身を細かく痙攣させ、やはり動かなくなった。

 彼女達が羽アリの巣となった時には、二人はもはや人の姿をしておらず、ただただ穴だらけの肉塊として無残に往来に転がるのだった。


 マリンカは目の前で起こった全てを冷ややかな顔で見下ろしていた。

 唇を噛み、視線を逸らさず、身じろぎ一つせず。


 ……とっくに空になった胃袋が嘔吐の真似事を繰り返す。ヒューの平常心は粉々に砕かれ、微塵も残っていなかった。四つん這いになり、姉妹の方を見まいと地面に顔を伏せても、ポーションの甘ったるさに混じった血の臭いは、彼の意識を強引に非現実的な現実に引きずり戻す。

 吐き気、頭痛、恐怖の渦に巻き込まれながら、ふと、彼は自分の視界が暗くなるのを感じた。少女の陰が彼の頭に被さったのだ。いつの間にか目の前にやってきたマリンカに、彼は思わずぎょっとした。


「こ、殺さないでくれ!」


 彼は小さな殺人鬼に怯え、慌てて後ずさる。


「殺さないでありんす。人殺しは嫌いでありんす」


 彼女の言葉がジョークか本心か、彼には判断できる余裕なんて無かった。

 マリンカは相手の散漫な意識を自分の言葉に傾けるため、おほん、と小さく咳払いをする。


「ヒューラン・レンブラント。人呼んで傭兵ヒュー。電光石火のヒュー。あるいは、酔いどれソードマン。あるいは……なんだっけ。まあいいや。

 ヒューラン殿。あんたはフリーランスの傭兵として食い繋いでいたが、たまたま酒場で出会った悪徳商人ミミに借金を作ってしまった。借金の原因は……ダイスゲームでありんすな。酒といいギャンブルといい、根無し草の傭兵の典型的なダメ性分を備えた、からっきしダメな男でありんす」


「俺はヒューとかいう人間じゃない! 俺は……」


「待て待て待て! 待つでありんす!」


 マリンカは慌てて彼を制止した。


「あんたの本名は興味無いでありんす。”本当はヒューじゃないあんた”が誰で、どこからどうやってここに来て、そして何処へ行くのかも、あっしには知り得ない事。

 もちろん、見てたっすよ。あんたの肉体の持ち主がすっ転んであの世に行ったのも、ネネが禁書を用いて……この世の理を破る秘術を用いてあんたを呼び寄せたのも。

 あんたには悪いが、この復讐の為にあっしは二年も機会を待ったでありんす。多少のイレギュラーはあっても、決行は揺るぎなかった。

 そう、復讐。あんたの世界に、この言葉は無いでありんすか?」


 もちろん、彼の元いた世界にもその言葉はあった。しかし、彼は何とも返事をしなかった。

 マリンカは言葉を続ける。


「お互いに不利益は無いはずでありんす。あっしは復讐を遂げて、そっちは借金がチャラになる。双方が得をする関係になれれば、それは行商人冥利に尽きる事。ま、これは商売ではなくただの殺人でありんすが……表向きには、全て不運な事故でありんす。

 詰まるところ、あっしはあんたの事なんて知らないし、あんたはここで何も見ていない。

 それで宜しいですかな? ヒューラン殿」


 彼はやはり、何とも言わなかった。

 自分の知らない人間が勝手に拵えた借金で、チャラになったも何も無い。マリンカの言葉は他人事のようにしか思えず、宜しいも宜しく無いも、それはそのヒューランとかいう奴に言ってくれ、と彼は思うのだった。

 マリンカは顎に手をあてて「ふむ」と小さく唸った。


「納得出来ないと言った様子でありんすな。途方も無い確率が産んだ奇跡的な不幸に、現実を受け入れられないと言った感じ。

 ただ一つ言えるのは、受け入れようと受け入れまいと、この世はちゃんとした”仕組み”で出来ているという事でありんす。

 どうして姉妹は傭兵を雇っていたのか。

 どうしてヒューランの名前をあっしが知っていたのか。

 どうしてヒューランだった男の体にあんたが居るのか。

 どうして季節外れの害虫がこの森に湧いていたのか。

 それらにはちゃーんとした理由がある事を、あっしは知っているでありんす。

 どうして日は登り、川は流れ、雲は空を泳ぎ、酒はゲロになるのか。それはあっしは知りやせんが、それらもきっときちんとしたこの世の仕組みが働いての事でありますれば……」


「俺が聞きたいのはそういう事じゃない……!」


 ヒューは震えた声でそう呟いた。


「何が聞きたいんです?」


「俺は一体、これからどうすればいいんだ!?」


 マリンカは妙に満足気な顔つきで、彼の質問を喜んだ。


「良い質問ですな。過ぎた今日より明日の事。そうです! 前に進みやしょう、異世界の旦那様! 太陽が登るのは太陽が登るから。どうだっていいやさ、仕組みなんてのは! ねえ?」


 マリンカは大げさに身振り手振りを交えながら喋り続けた。


「実は一つ、あんたに良い商談がありんす。あんたはあっしにとってイレギュラーではあるものの、これはまたとないチャンスとも言える……うん、きっとそうだ。

 今すぐここで商談成立させたいところではありやすが、ここにずっと居座るのはあまり宜しく無い。さあ立って。歩きながら話をしやしょう。

 何より、この肉塊がくっせぇでありんす!」


 マリンカがミミの亡骸を蹴り飛ばすと、わっと羽アリが飛び散った。彼女は慌てて身を翻すと、羽アリはしばらくして異変が無いと判断し、自分達の巣に戻る。

 この小さな行商人を信じるか信じないか、彼に選択肢は無かった。彼はこの世界で産まれたばかりで、”本当の彼”を知るのはこの少女だけ。

 とにかく話がしたい、と彼は思った。

 彼は自分が誰かも分からず、自分自身を映してくれる鏡が欲しかった。

 鏡は即ち、他人。

 彼の目の前には、マリンカしかいなかった。

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