2 とんだ行商人

 森の奥から現れたのは一台の荷馬車だった。

 御者は一人の少女……それも、ヒューの感覚からすると10歳かそこらの幼い少女だ。少女は最初、もの珍しそうに姉妹と彼の三人を見比べていたが、彼らもまた少女を見ていた。少女は大きなハットを被っており、顔は見えない。汚れたシャツもブーツも、サイズこそ合っているが子供らしさが無く、背格好とちぐはぐな印象を相手に与えていた。

 少女は三人のすぐ側までやってくると、どうどう、と馬を制止させる。吐瀉物まみれの女と、処刑される寸前の男を見ても、彼女は慌てる様子も無く、ごくありふれた日常の光景と言わんばかりに悠然としていた。

 突然の来訪者に戸惑ったのは、むしろ三人の方だった。しばらく双方の視線による探り合いが続き、虫の声だけが沈黙を埋める。違和感が臨界点に達する瞬間、おもむろに少女が口を開いた。


「お嬢様方、寝そべってる旦那様、もし良ければ、ここで一つ商売の話がありんすが……」


「失せろ。ここは貸し切りだ」


 ミミは彼に刃を向けたまま、少女の商談とやらをぶっきら棒に跳ね除ける。

 少女は大袈裟に驚いて見せた。


「貸し切り! ここはメルギア王国領の町と町を繋ぐ公道で、ここを貸し切れるのは天下のメルギア王その人だけでありんす。

 メルギア王が女性だと言う話は聞いたことがございませぬが……」


「メルギア王相手じゃなかったら、馬上から人に商売を持ちかけんのか?」


「おっと……こりゃ、失礼致しやした」


 亜人と呼ばれた少女は、とすっ、と馬から降りる。体の小ささに不釣り合いな大きいハットを取り、ペコリと会釈。

 帽子を脱いだ事で初めて明るみになった少女の顔。そこで彼は、彼女の耳が奇妙に長く尖っていたのに初めて気づいた。馬鹿げた話だが……という前置きを添えて、彼はこれがいよいよメイクではなく、自分が元居た世界とは違う場所にやってきて、彼女は元居た世界にはいない人種なのかもしれないと逡巡する。

 彼の疑問は少しも解消されていないし、戸惑いは悪化する一方。ただ、何が出てきてもおかしくないという心積もりを、彼は彼自身を包み込む状況に自ずと強いられているのだった。


「あっしはギゼルという田舎町で生産したポーションを売って生計を立てておりやす。マリンカというケチな行商人でありんす」


「亜人が商売たぁ、いい御身分だな」


 ミミの嘲笑に、マリンカという行商人は困った顔をした。


「うーん。いい身分というのは、これまたどうしてでしょう。亜人解放宣言によって、我々ピピット族が純血人に対して商売をすることは公的に認められていると記憶しておりやすが……」


「ふん! その宣言はアタシ以外の純血人に対してだ。チビクソ」


「宣言は全人類に平等でありんす」


「アタシは生意気な亜人は生かしちゃおかない。そして、死体とは商売が出来ない。完璧な理論だ。文句あるか?」


 ミミは剣を鞘に仕舞い、唾を吐き捨てた。

 亜人というのはこの耳の尖った少女のような存在の事だろう。それは彼にも何となく分かったし、きっとそれ以外の”普通の人間”の事が純血人なんだろう、という事も察しがついた。

 亜人解放宣言なんて言葉があるからには、彼らが被差別対象だった事も、たった一つの宣言で払拭できない差別意識が未だ根強く残っている事も、彼にはよく理解出来た。

 理由は明白で、”差別”と”被差別”は、彼の元居た世界でも起こる馴染み深い形態だったからだ。人間がいる以上、あらゆる時間、あらゆる場所に起こりうる事だ、と彼は思った。


「お嬢様の亜人蔑視な発言には目を瞑るとして……あっしが生意気じゃなければ、商談の話を続けても宜しいでありんすか?」


「勝手にしろ。興味が湧けば聞いてやる」


 マリンカが馬車の側から二、三歩近づくと、ミミは「そこで止まれ」と一言。亜人

の少女は言う通りにした。

 ふと、吐瀉物の臭いが彼女の鼻腔をくすぐる。


「胃酸と、アルコールと、消化物の三重奏。昔、パブで働いていた頃を思い出すでありんすなぁ……あ、嘘、嘘、冗談でありんす……! すぐに本題に入りやすんで、物騒な物はしまって頂きたく……!」


 ミミが鞘から剣を抜くのを見て、マリンカは慌てて軽口を叩くのをやめた。彼女はお喋りな性格らしく、それが商売人にとって良いか悪いかはさておき、この女戦士との相性は最悪だった。

 ひょこひょこと荷馬車の方へ歩くマリンカ。精一杯背伸びをして荷台を覗き込み、ごそごそと荷物を漁っていたが、やがて二つの小瓶を取り出す。小瓶には緑色の液体が並々入っていた。

 姉妹は顔を見合わせた。


「この森に”肉大工”と呼ばれる害虫が出現する事をご存知で?」


 ミミの代わりに、ネネが頷いた。


「知ってるわ。動物の皮膚を食い破って内臓を貪る素敵なアリンコでしょぉ……体内にボッコボコのアリの巣が出来るから、通称”肉大工”。栄養満点の肉の巣に卵を植え付けるんですってねぇ。

 でも季節が違うわ。連中は真夏に大量発生するから、今はまだ心配ない」


 マリンカはわざとらしくしかめっ面をした。


「それが、出たんすよぉ! たまたまポーション屋をやってたもんで、この虫除けポーションが無ければ今頃どうなってた事か!

 この先なんの準備もせずにこの道を通るのは、絶対に止めた方がいいでありんす」


 マリンカは、ちん、とポーション同士で打ち鳴らす。

 ミミは皮肉っぽく笑い、やれやれとお手上げした。


「下手くそな押し売りだな。ピピット族は見た目も子供なら、中身も子供だ。

 アタシは商人だ。ふっかけるつもりなら、相手を選びな」


「一本5,000ゴールドで如何でやんすか?」


「フザけんな!」


 ミミの罵声に、マリンカはびくっと肩を竦める。

 貨幣価値は分からないが、もしRPGで5,000ゴールドのポーションが売ってたら、フザけんな! と思うだろうな、と彼は考えた。


「数年前だ。亜人解放宣言が発布される直前まで、アタシらは奴隷商人をしていた。お前らピピット族を売りさばいてたのさ。その時のピピット一匹の単価がいくらだったか知ってるか? いいトコ1,000ゴールドだ。

 必要かどうかも分からないポーションに、お前ら五匹分の金を積めって言うのか? 純血人から搾取しようってか? 調子に乗るんじゃねーぜ、亜人風情が!」


 ミミの言葉に、マリンカはにこにこと笑顔を絶やさなかった。

 まん丸ほっぺの赤らみと無邪気な彼女の笑顔が、浴びせられた罵声とあまりに不釣合いで、彼は思わずぞっとした。


「アタシに商談なんて100年早えよ。生まれ変わって出直して来な!

 行くぞ、ネネ。ヒュー、お前のこれからはアタシ達のボスが決める。さっさと立て!」


 ミミとネネは各々の荷物を肩に背負い、ちらりとマリンカの方を見て、向かうべき方向へ歩き始めた。彼も木にすがりながら慌てて立ち上がると、ふらふらと姉妹の後ろをついていく。馬車の側を通りながら、ミミは小声で「チビクソ」と毒づいたが、マリンカはポーションを握ったまま、微動だにしない。

 今すぐあの世に行くことは無くなったらしい……と、彼はほっとした。そして、目の前の小さな女の子(にしか見えない)の存在にも感謝した。このマリンカという行商人が現れなければ、逆上したミミに彼はきっと真っ二つにされていただろう。マリンカの偶然の来訪が、上手い具合に場を濁してくれたのだ。

 しかし、気の毒な扱いだな……こんな小さい子が、あんの謂れのない罵倒を受けるなんて……そんな事を考えながら、すれ違いざまに彼はマリンカの顔を覗き見る。

 その瞬間、彼の背筋は凍りついた。先程までの少女のつぶらな瞳に、一切の子供らしい無邪気さが無くなっていた。


「……四年前でありんす。とあるクソ奴隷商人が、あっしの家族を家畜みたいに売っぱらったのは」


 マリンカが言った。

 声のトーンは変わらない。笑顔も変わらない。

 ただ、その言葉の内容だけが、先程までとは明らかに異質だった。


「来世も”純血人”になる事を祈ってあの世へ行くんでありんすな……!」


 マリンカが話す言葉の不穏さに、姉妹が振り返ろうとした瞬間……。

 マリンカは二つのポーションのコルクを両親指で弾くと、ミミとネネが身構えるより早く、二人の全身に思い切りぶちまけた。ポーションの甘ったるい臭いが辺りに漂い、もはや悪臭と言い換えてもいい程のドギツさに、彼は思わず顔を顰めた。

 当のミミ・ネネの二人はあまりに突然の出来事に、何が起こったのか咄嗟に理解できなかった。ただただ、自分達の体に付着した正体不明の液体にパニックになった。


「穴だらけのクソになるがいいでありんす!」


 マリンカが叫ぶと同時に、ぶわっと煙のような羽アリの大群が姉妹を包み込む。

 焼けるような激痛と共に、ミミとネネは気づいた。

 ”虫除け”ポーションの正体が、”虫寄せ”ポーションだった事。

 自分たちの全身にぶちまけられた液体がそれだという事。

 マリンカの復讐の相手が自分たちだった事。

 自分たちの体が、穴だらけのクソになろうとしている事。

 ……この世のものとは思えない絶叫が、森に響き渡った。

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