第24話 須佐之男命、天の斑馬を逆剥けにして突き入れることを命じるの巻
柾目の檜の巨大な一枚板でできた扉の向こうに、スサノオがいる。
名前だけはときどき聞く神様だし、よく知らないけど乱暴者で強い神様だって話も、なんとなくどこかで聞いたことがある。壁越しに聞こえてきた声はまるで地響きのようで、音というより圧という感じで、ビリビリと柱や壁が細かくゆれ、空気の振動が顔面に当たる。
正直恐い。でもその口調は意外と好意的っぽいし、神様にひとこと言ってやりたいとナキメを人質にしてまでこんな所に来てしまった以上、とにかく言うべきことはちゃんと言っとかなきゃならない。
崎山が、慣れない敬語を使ってたどたどしく説明した。
「俺たちのことはもうご存知ですよね。ここから神様たちがみんなで下界を見下ろして、俺たちと里美が一緒に暮らすように運命をいじって、俺たちの様子を見て楽しんでいたって聞いています。
でも、いくら何でもそれってひどすぎやしませんか。神様と比べたら、俺たちはちっぽけな存在かもしれないけど、それでも俺たちにだって人権はあるはずです」
するとスサノオは、不思議そうな口調で「人権?なんだそれは?」と尋ねた。
たったそれだけの一言なのに、音圧でビリビリと顔面に空気の振動が伝わってくる。というか、天から下界をいつも見下ろしているとかいう割に、人権という言葉も知らないのかこの神様は。
「人間は誰だって自由で平等で、生まれながらに最低限の権利があるってことです。どんなダメな奴でも生きていていいし、バカにしていい理由はない」
しかしスサノオは事も無げに言い切った。
「なんだそれ。ねえよそんなもん」
そうなの⁉と八人の男たちが驚いているとスサノオは、それはお前ら人間が、人間同士の決まりとして話し合って決めたことだろ?とバッサリと切り捨てた。
「お前ら人間同士の間で、その『人権』とかいうやつがあった方がお互いに上手くいくっていう話になってんのなら、そうしたらいい。でも俺たちには関係ない。
高天原じゃ、イザナギが毎日千五百人の人間を産んで、イザナミが毎日千人の人間を殺してるが、産むのも殺すのも、そんな人権だの何だの、いちいち考えてねえよ。
イザナギくらいの神様だったら、指をちょっと動かしたくらいで勝手に人間が産まれちまうし、イザナミだって少し体をゆすっただけでバタバタと勝手に人間が死んでいく。そんな、人間一人一人のことまでじっくり丁寧に見てたら、神なんてやってられん」
いや、アンタら、俺たち一人一人が右往左往してるのを天の上からじっくり見て楽しんでたじゃないですか、と皆崎 定春が反論したが、スサノオの答えは「そういう時もある。気まぐれで」と身も蓋もない。
どうやら神々にとって、人間というのは例えるなら小さなアリのようなものらしい。アリの巣を壊されたアリが全力で人間に抗議してきて必死にアリの人権(蟻権?)を主張しても、人間が「あぁ、そうなんだ、それは大変だったな」程度の感想しか抱かないのと一緒で、彼らは俺たちの人生を気まぐれに左右することについて、これっぽっちも悪いと思っていないらしかった。話の前提があまりにも違いすぎて、さっきから全然話が噛み合わない。
「とにかく、俺たちはお詫びとして何かが欲しいんだ。物は正直何でもいい」
ぐちゃぐちゃ議論していても全く話が進まないと悟った崎山が、理屈とか感情とかを全部すっ飛ばして、シンプルに要求だけを伝えた。この調子では心からの謝罪は到底期待できない。それに、さっきからビリビリと空気が震えるこの雷鳴のような低い声が、とにかく恐ろしい。
気が変わってスサノオが怒り出す前に頂くものだけ頂いて、スサノオの機嫌がいいうちにさっさと帰ろうと、八人の男たちはすっかり逃げ腰になっていた。ナキメを人質に取ったあたりで抱いていた、神々に一発ガツンと文句言ってやろうという威勢のよい決意はすっかりどこかへ行ってしまっていた。
「はあ?何かが欲しいだと?おぬしら、何か勘違いしているのではないか」
スサノオの声色が変わり、ドドドドドと空気が不気味な低周波振動を立てた。八人の人間達はゾクッと背骨の芯に震えが来るのを感じた。
「俺は、お前たちが面白いから呼んだのだ。お前たちが高天原に行かせろと要求したから来させたわけではない」
その短い言葉はスサノオの心情を何も語らなかったが、スサノオの心情はよく分かった。恐ろしくて声も出ない。田崎 満が真っ青な顔でガタガタと明らかに震えはじめ、坂崎 聡は苦しそうに胸を押さえて「はぁ……」とため息をつくと下を向いた。
「おぬしら、俺を楽しませよ。人間の分際で神を人質にして高天原に来て、このスサノオに謝れなどと言う。こんな頭のおかしい鼻っ柱の強い奴はオオナムジの野郎以来だ。
俺は、頭のおかしいお前たちが、この高天原でどんな面白いことをやってくれるのか、それに期待しているのだ。さあ何をする?何を見せてくれる?」
なんだか話がおかしなことになってきた。
相手に謝罪を求めにやってきたのに、謝るどころか、なぜかこちらが相手を楽しませなきゃいけないことになっている。崎山が失禁しそうになりながら、渾身の勇気をふりしぼって反論しようと口を開いた瞬間、スサノオの陽気な声が総檜造りの広い空間にビビビと響きわたった。
「そうだ、お前ら。天のまだらの馬を逆剥ぎにして、アマテラスの忌服屋の屋根から突き入れるのはどうだ。俺が昔にやって大騒ぎになったやつだ。もしそれを人間のお前らがやったら、間違いなく歴史に名を残すことになるぞ!」
そういえば、ナキメもここに来るときに同じようなこと言っていたけど、さっきから何度も出てくるその「天のまだらの馬を逆剥ぎにして、アマテラスの忌服屋の屋根から突き入れる」ってのは何なんだ一体。
塚崎 朋也が、恐る恐るスサノオに質問した。
「あの……昔大騒ぎになったってのは、一体どんな……?」
「ん?太陽が無くなった」
はあ?太陽が無くなった?と一同が真っ青な顔して絶句していると、スサノオは「天の岩戸って話、聞いたことないか?」とあっさりと言って笑い、あの時は俺もさすがにこっぴどく叱られて、ヒゲを切られて手と足の爪を全部引っこ抜かれて追放されたんだよなぁ、と元ヤンキーが若い頃の悪行を懐かしむような口調で平然と言い放った。
「冗談じゃない!アンタちょっと頭どうかしてるよ!」
突然、村崎 義一郎が半泣きの悲鳴のような声を上げて立ち上がると、足をもつれさせながらバタバタと入ってきた方向に向かって走り出した。
「無茶苦茶だ!そんな事やってられっかよ!」
「嫌だ!絶対に嫌だ!」
村崎の逃走に触発されて、男たちは口々に文句を叫びながら、後を追うように全員が立ち上がり、出入口の方に向かってあたふたと駆け出した。しかし、来る時には開かれていた檜の巨大な扉がいつの間にか閉じられていて、押しても引いてもびくともしない。
「お前ら、侍でもないのに玉梓と里見八犬士を倒して、その上キジシナナキメを人質に取ってここまでやって来た、その度胸は一体どこへ行ってしまったのだ。
俺はお前らに期待していたのに残念だぞ。今までにお前らがやってきた事と比べたら、天のまだらの馬を逆剥ぎにして、アマテラスの忌服屋の屋根から突き入れることなど、今さら怖がるようなことでもあるまい」
「いや、わけわかんねえって!それやったら太陽が消えたんだろ?手足の爪全部ひっこ抜かれたんだろ?怖がるに決まってんだろ!出せよここから!そして俺たちを地上に帰せ!」
泣きそうな声で川崎 瑠偉が叫ぶと、スサノオは途端に氷のように冷たい、平板な口調に変わり、凄みを利かせながら言った。
「何を言っている。このスサノオがやれと言っているのだ」
その声音に秘められた底知れぬ殺気に、さっきまで大声で怒鳴っていた川崎が嘘のように押し黙り、勝手に腰が抜けて無表情のままその場にぺたんとへたり込んだ。
「やれ」
これが神の怒りか。無理だ。抵抗できない。
八人の男たちは、土気色した顔でうつろな目をして、死んだような声でか細く「はい」と返事をした。
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