第21話 八犬士と八剣士、龍虎相搏ち策謀知略縦横するの巻

「あいつら追っかけてくるぜ!ポン刀抜いてやがる!やべえ!」

 ライトバンの窓から上半身を外に乗り出して、川崎 瑠偉が叫ぶ。


「常雄さん!人間の駆け足でギリギリ引き離されないくらいの速さでゆっくり走ってくれ!」

 崎山 貴一が運転席の江崎 常雄に向かってそう叫ぶ。江崎はバックミラーを見ながら、時速二十五キロくらいの速度をキープした。

「いいぞ!このスピードでしばらく走れば、あいつらだんだんばらけてきて、足の速いやつだけ残って遅いやつは取り残されるはずだ。それで、先に追い付いてきた足の速いやつから順にやつらを叩きのめしていけば、いつもこっちの方が戦う人数が多くなる!」


 その崎山 貴一の説明に、坂崎 聡が全員に向かって注意を追加した。

「いい?繰り返し何度も言うけど、絶対に一対一で戦っちゃダメ!死ぬわよ!

 さっき決めたコンビの相手とは絶対に離れない!絶対に二対一以上の人数差で戦う!これだけは絶対に守ってね!他のことは忘れてもいいけど、これだけは絶対に守ってね!」


 車内の全員が、坂崎の説明に静かにうなずき、そして自分とコンビを組む相手と二言三言短い会話を交わした。こっちの準備は万端だ。

 最初は一団となって走って追いかけてきていた犬士たちだったが、しばらくすると、恰幅がよく一番大柄な犬田小文吾がまず息を切らして遅れはじめた。その後、犬山道節、犬村大角と一人一人脱落していき、とうとう、八犬士の中でもひときわ体の小さい犬川荘助一人だけが残り、それ以外は全員が置いていかれた。

 残った犬川荘助と、最後に脱落した犬江新兵衛との間の距離が二十メートルほど十分に離れたのを見計らって、崎山 貴一が合図をする。


「おりゃあああ!」

 合図と同時に、両側のスライドドアを素早く全開にして、運転席の江崎 常雄を除く七名の男たちが一斉にライトバンから飛び降りた。汗だくになって走ってきていた犬川荘助は不意を突かれて「えっ?」という表情をしたが、その次の瞬間にはもう、さすまたが三四本伸びてきて犬川荘助の身体を仰向けに地面に押し倒していた。倒れるとすぐに別の何人かがワッと周囲を取り囲み、一斉に水鉄砲で犬川荘助の顔面にうんこ水を噴射する。


「うへぇっ!ペッ‼ゲホッ‼何をするお前たち‼」


 思わず顔をしかめて咳き込む犬川荘助の顔面を、川崎 瑠偉が思いっきり拳で殴りつけた。全く腰の入っていない手先だけのパンチであったが、抵抗できない状態でまともに喰らった拳骨は、歴戦の勇者である犬川荘助であっても一応のダメージはあったらしく、ゼイゼイと大きく肩で息をしていた犬川荘助は、そのままぐったりと戦意を失って虚ろな目になった。


「俺……、人の顔をグーで殴ったの生まれて初めてだわ……」

 川崎 瑠偉は、呆然とした顔で自分の握った右手を眺めている。するとその気のゆるみを戒めるように、坂崎 聡の鋭い声が周囲に響き渡った。


「瑠偉!油断しない!みんなもよ‼次が来るわ‼少しでもピンチになったら車に向かって!すぐライトバンで逃げるからね‼いいわね⁉」


 それで一同ハッと我に返り、もと来た方向を振り返ると、引き離されていた二番手の犬江新兵衛が、やはり肩でゼエゼエと息をしながら走ってくる。ボンクラな七人の現代人武者たちは、すぐにさすまたを構え直し、一対七という万全の数的優位の状態で伝説の犬士を迎え撃った。


 通常の状態であれば一騎当千の勇者である犬江親兵衛も、玉梓との戦いでボロボロに傷ついた後に車を追いかけて延々と走らされ、完全に息が上がった所で元気な七人を相手に、さすまたで刀の届かないだけの距離を取って戦われては、さすがに勝ち目はなかった。

 犬江新兵衛は、犬川荘助と同様にあっさりとさすまたで押し倒され、地面に押さえつけられた上でうんこ水を大量に掛けられ、戦意を失ったところを縄で縛り上げられた。


「次が来た!相手もバカじゃないわ!残りの六人は合流してこっちに向かって来てる!みんなライトバンに乗って!」


 坂崎 聡の号令で、外で戦っていた七人は一斉にライトバンに駆け込む。全員が乗り込んだのを確認すると、坂崎は前方に立つ六人の本物犬士たちを指さして、運転手の江崎 常雄に向かって冷酷な口調で命令した。


「轢いて」


 坂崎の目が機械のように冷たい。つい今さっき玉梓を轢いた瞬間には、目をつぶって顔をそむけていた坂崎だったが、生きるか死ぬかの戦闘の緊張感の中でアドレナリンが出過ぎて感覚がおかしくなっているのだろうか、まるで別人のようだ。

 運転席の江崎 常雄は「まったく!聡、お前もかよ!自分が運転しないと思って!」と怒鳴ると、ちくしょう!ちくしょう!と何度も大声で悪態をつきながら、今度はもう吹っ切れたらしく、その焦りきった態度とは裏腹にアクセルを一気に踏み込むと、全く躊躇なく一直線に六人の方に突っ込んでいった。

 一か所に固まっていた六人の犬士たちはパッと左右に飛び退いてライトバンをかわすと、密集したままでは全員まとめて轢かれると即座に察知し、素早く散り散りになる。


 江崎は急いで車をUターンさせると、最も近くにいた犬村大角に狙いを定めて、再び車を猛然と走らせた。犬村大角は突進してくるライトバンを軽々と横にかわしたかに見えたが、次の瞬間、何かに引っ掛けられるように仰向けに吹き飛び、地面に転がった。

見ると、村崎義一郎が窓から半身を乗り出してさすまたを突き出しており、それが犬村大角の肩に引っ掛かって大角を引きずり倒していた。

 すかさず川崎 瑠偉と皆崎 定春と塚崎 朋也がライトバンから飛び降り、倒れた犬村大角の身体をさすまたで地面に押さえつける。そして間髪入れず顔面に向けて噴射される大量のうんこ水。もはや男たちも手慣れたものだった。


 うんこ水を浴びると、犬士たちはいずれもすぐにぐったりと力を失った。単に戦意を喪失しただけでは、ここまで簡単にぐったりと脱力はしないはずだ。玉梓と同様に、一度は寿命で死んでいる幽霊のようなものである八犬士も、犬のうんこ水という穢れを浴びせられることで、神通力のようなものを失ってしまうようだった。


 「お主ら!愚弄しおって!もう許さんぞ!」


 そこに、怒り狂った犬山道節が刀を上段にふりかぶりながら突進してきた。川崎、塚崎、村崎の三人はその迫力に圧倒され、情けない悲鳴を上げながらへっぴり腰でさすまたを前方に突き出した。

 犬山道節は一本目のさすまたを軽々と飛び越え、体をひねって二本目をかわしたが、塚崎 朋也がでたらめに突き出した三本目のさすまたの端が、かろうじて犬山道節の胴体を捉えた。完全なラッキーパンチだったが、とにかくこれで犬山道節の突進は食い止められた。さすまたは二メートル近い長さなので、こうなってしまうと犬山道節の刀は塚崎には届かない。

 塚崎が犬山道節の動きを止めると、最初の突きをかわされた他の二人もさすまたを構え直して、犬山道節の身体を三方から取り囲んで押さえつける。


「ぬう!卑怯であるぞ!尋常に勝負せぬか!」


 張りのある声でそう大声で叫んだ犬山道節の口に向かって、加勢に来た田崎 満が何も言わず、水鉄砲でうんこ水を無慈悲に噴射した。

 犬山道節はたまらず顔をそらすが、田崎は無表情のまま淡々と頭から足先までまんべんなく水鉄砲でうんこ水をふりかけていく。堂々とした姿勢で力強く刀を構えていた犬山道節が次第に脱力していき、最後はがくりと膝をつく。


「卑怯とか、そんなん構ってらんねえから俺ら。死ぬのは嫌だ」


 地面にひざまずいてうなだれる犬山道節を見下ろして、田崎が冷たくそう言った。

 突然、ライトバンの運転席から江崎 常雄が叫んだ。

「満!後ろだ!油断すんな!」


 田崎 満がハッと振り向くと、長十手を逆手に構えた犬飼現八が、野生の猿のような敏捷さで背後から飛びかかってきていた。

 犬飼現八は田崎の背中に取りつくと、迷いのない手慣れた動きで長十手を田崎 満の太った顎の下に押し当て、左手で長十手の先端を握って渾身の力で引っ張り、田崎の首を締め上げる。

田崎は苦しそうに口から泡を吹いて、犬飼現八を振りほどこうと全力で抵抗する。しかし体術の達人である犬飼現八は、どんなに振り回されようとも全く田崎の背中から振り落とされる気配はない。田崎の太った顔が、見る見るうちに赤黒い危険な色に変わっていく。


「ちくしょう!離せコラ!」

 窒息寸前の田崎を救おうと、塚崎 朋也がさすまたの先端を犬飼現八の胴に差し込んで思いっきり押して引き剥がそうとしたが、犬飼現八はびくともしなかった。


 その様子を遠くから見て、まだ倒されていない八犬士の残りの三人、犬塚信乃、犬坂毛野、犬田小文吾は、今この瞬間こそ千載一遇の反撃のチャンスだと天性の勝負勘で敏感に察知した。

 彼らは先ほどライトバンを避けて一斉に散ったあと、一旦は物陰に身を隠して、八人の現代人たちが隙を見せるのをずっと待っていた。そして、犬飼現八が田崎の体にとりつき、戦いの潮目が変わりかけたこの絶好のタイミングを的確に捉え、三方の物陰から一斉に飛び出し、畳みかけるように素早く突進してきた。


 車の外で戦いに参加していた川崎 瑠偉、塚崎 朋也、皆崎 定春、村崎 義一郎の四人は、目にも止まらぬ早業でいきなり田崎 満がピンチに陥り、それと同時に周囲から一斉に敵が襲いかかってきたというだけで、さっきまでの威勢のよさはどこへ行ったのか、一転して恐慌状態に陥った。


 加勢に駆けつけた三人の犬士たちが、もう残り十メートルくらいの距離まで迫っている。それに対して、戦いの素人である川崎たち四人は、怯えた顔をして逃げ腰でさすまたを構えるだけだ。犬飼現八に首を絞められている田崎は、酸欠で顔が土気色に変わり、口から泡を吹いて白目を剥いている。


 やっぱりだめなのか。俺たちみたいなボンクラは、たとえ卑怯な手を使っても結局本物のヒーローには勝てないのか。俺たちはこれから日本刀で斬り殺されるのか……


 村崎 義一郎がそんなことを考えていたその時、野太い叫び声が響いた。

「お前ら全員、消えやがれえッ!」


 崎山 貴一の声だった。

 崎山はいつの間にかライトバンから飛び降り、トランクの扉を開けてヤツフサのうんこ水の入ったポリタンクをかつぎ出していた。タンクの中身はまだ三分の一くらい残っている。崎山はタンクの蓋を投げ捨てると、タンクを両手で抱えてブンとふり回し、まるでハンマー投げか砲丸投げのように勢いよく体の周りを一回転させて中身をぶちまけた。うんこ水がまるで投網のように円弧を描いて、ビシャビシャと周囲に降り注ぐ。


「ぐあああああ‼」

「ぐへっ‼ペッペッ!臭ッ‼なんだこれ臭ッ‼」


 うんこ水は敵味方関係なく、平等に男たちの頭に降り注いだ。汚水の雨を食らった塚崎 朋也が「何すんだよキーチ‼ふっざけんな!」と怒鳴ったが、崎山 貴一は苦情には耳も貸さずに一同に向けて怒鳴り返した。


「ボーっとしてんじゃねえ‼今だ‼倒せお前ら‼」


 まんべんなく雨のように降り注いだうんこ水を全身に浴びて、冴えない男たちはあまりの臭さに悶絶したが、よりダメージが大きかったのは本物の犬士たちの方だった。

 穢れを浴びせかけられた犬士たちは神通力を失って、ガクリとその場に倒れこむ。猛然と突進してきて、あと五、六歩で一太刀が届く間合いまで近づいていた三人の犬士たちも、うんこ水を食らった途端、足がもつれてその場に力なく崩れ落ちていた。


 塚崎がハッとその状況に気付いたその時すでに、坂崎 聡が水鉄砲を抱えてライトバンから飛び出し、背中に取りついて田崎 満の首を締め上げていた犬飼現八のそばに駆け寄っていた。

 そして至近距離からうんこ水を犬飼現八に噴射する。うんこ水は田崎 満の体もビシャビシャと容赦なく濡らした。


「む……無念……」


 全身にうんこ水を浴びた犬飼現八が、脱力してずるりと田崎の背中から滑り落ちた。それで呼吸ができるようになった田崎は、脂汗を流しながら膝に手をついてブハーッ、ブハーッと大きく何度も息を吸って吐いた。

「あっぶねえ……死ぬかと思った……」


 その間にも、坂崎 聡はうんこ水の雨を受けて倒れこんだ犬士たち一人ひとりに駆け寄っては水鉄砲でうんこ水を浴びせかけて、着々ととどめを刺していく。最初は呆然と突っ立っていた塚崎 朋也や皆崎 定春たちも加勢して、とうとう、持ってきた縄で八犬士全員を後ろ手に縛り上げてしまった。


「勝った……」


 川崎 瑠偉が、情けない口調でそうつぶやいた。

俺たちボンクラ一般人の八人が、里見家を救う正真正銘の八人のヒーローを倒した。


 まあ本来であれば、悪霊の玉梓を退治した時点で戦いは終わりなはずで、なんで俺たちはさらに正義のヒーロー八犬士にわざわざ戦いを吹っかけて、殺されそうな思いをしながらこいつらを倒しているのか、冷静に考えるとさっぱり意味が分からない。

 でも、戦う理由とか意味なんてのはこの際どうでもいい。とにかく俺たちはヒーローに勝ったのだ。


 それにしても。

 生死をかけた戦いに勝った時ってのは、もっと喜びと達成感がこみ上げてくるもんだと思っていた。

 なんだろう、このぼんやりとした虚しさと、どんよりした疲労感。


 そして臭い。敵味方みんな、うんこ水でびしょびしょで、とにかく臭い。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る