第14話 玉梓が時空を超えて蘇り、里見家に危機が迫るの巻

「あーもう。勉強やだ。全然わかんない!」

 里美は勉強をしていた。その後ろで、塚崎 朋也と村崎 義一郎が、ゴロゴロとじゅうたんに寝転がってくつろいでいる。今日はこの二人が、剣崎家の和室で泊まる番だ。


「あんたらはいいわよね。勉強しなくていいんだから」

 里美は思わず悪態をついた。東京の四年制大学に進学して憧れの一人暮らしをするためには、少なくともこの一学期のうちにそれなりの成績を出さなければ周囲を納得させられないのだが、勉強は一向にはかどらない。


「じゃぁお前も高校なんて辞めちゃえばいいんだよ。何とかなるよ案外」

そう言うと、塚崎 朋也は寝転んだままバリバリとせんべいをかじった。

「あんたらと一緒にしないでよ。私は大学に行って一人暮らししたいの。あんた達とは違うの」

「あぁそう。まあ頑張れよ。でもさ、お前がこの家を出て一人暮らししたら、俺たちも一緒についてかないとダメなのかな、やっぱり」

「は?なんでアンタたちが私の部屋に一緒についてこなきゃいけないのよ」

「だって、犬の声するかもじゃん」


 そこでようやく里美はあっ!と気が付いた。

 昨年の十一月に犬士たちとの同居生活を始めてから、もう五か月になる。八犬士たちが完全に居ついてしまい、これがもうすっかり日常になってしまっているのでつい忘れてしまっていたけど、犬士たちがここで暮らしている理由は、彼らが里美のそばにいないと、ウェリッシュコーギーのヤツフサが脳内にうるさく語り掛けてくるからなのだ。

 ということは、里美が家を離れて一人暮らしをしてしまったら、再びヤツフサの声に悩まされるようになる可能性は十分ある。


「はー、そうかー。一人暮らしできるかどうかも分からないんだな、それじゃ」

 里美が大学受験に向けて勉強する理由の七割がこれで消えた。開いている問題集が、急にバカバカしいもののように思えてきた。


「だいたいさ、あんたら何でうちにいるの?」と里美が聞いた。

「知るかよ。犬がうるさいから来た。それだけだ」と塚崎が答える。


「あんたら、里見家をピンチから守る勇士なんでしょ?ヤツフサも里美を守れって言ってたわけだからさ、もう少し私を守ってくれてもよくない?」

「守るって、何から?」


 村崎 義一郎の問いに、里美はうーんと言葉に詰まってしまった。里美は学校ではごく普通の生徒で、いじめられるような事も無いし、内房線のガラガラな車内では通学途中に痴漢に遭う事もないし、変質者に襲われたこともない。

 八犬士が押し掛けてくるまでは、いつも女友達とだけ一緒に過ごしていて、同年代の男とこんなに気軽に日常的に会話を交わすことも無かったというくらいの男っ気のなさなので、悪い男に騙されて、ひどい目に遭うといったこともない。だとしたら一体、八犬士は何から彼女を守ればいいというのか。


「受験から……かな?」

目下、里美にとっての一番の危機は大学受験だ。

「それじゃ俺たちは守れないじゃん。分かってると思うけど」


 八犬士たちは全員が高校中退で、在学時代の学業成績は散々たるものだ。本来なら「智」の玉を持っていて一番賢いはずの坂崎 聡ですら偏差値は五十で、里美と大差ない。


「はー。まったくもう。ホント何なのよ。一体何のためにいるのよアンタら」

 里美としては、八犬士たちが自分を全く守ってくれず一向に役に立つ気配がないのに、そのくせどこか「自分たちは本当だったら伝説の勇士で、里美が玉にマジックでいたずら書きさえしなければ、本来の力を発揮してすごいことができていた」と思っていて、無駄に自信ありげなのがどうにも気に食わなかった。

 そんな、やたらと自分たちに都合のよいストーリーを心の支えにして、「いざという時が来て本当の自分が覚醒すれば、このダメダメな仮の自分は消滅するはずだ」と八犬士たちは思い込んでいる。そんなの、ご都合主義的な中学生向けライトノベルじゃあるまいし、と里美は思う。


 まあ、確かに、秘密基地を作り始めてからの八犬士たちは人が変わったようになり、それなりにしっかりしてきたような気がしないでもない。それでも、何も知らない周囲の人が彼らを見たら、依然として目標もなくダラダラとその日暮らしをしているダメな若者のようにしか見えないはずだ。

 「なのに、なんであいつら、いつも自信満々のドヤ顔でいられるんだろう」と里美の得体の知れないイライラは今日も続くのだった。


 ――そんな彼らに、危機は突然にやってきた。

 その日は、ごく普通の一日と同じように始まった。ごく普通に里美は学校に出掛け、ごく普通にお父さんと犬士たちは仕事に出掛け、ごく普通の生活が何の出来事もなく流れていく。


 ところが、普通だったら部活を終えて夜七時前には帰ってくる里美が帰ってこない。携帯に電話しても全く応答がない。


 七時半を回ったところで、さすがにこれはおかしいと焦り始めたお母さんは、八犬士たちを一人一人つかまえては、里美に最近なんか変な様子はなかったか?と聞いて回った。

 それで犬士たちも、自然と秘密基地に集まって相談をし始めた。不安そうな顔をしたお父さんとお母さんも秘密基地に来て、犬士たちと一緒に打ち合わせに加わった。お母さんは心細さを紛らわすためか、ウェリッシュコーギーのヤツフサをずっと抱きかかえたままだ。ヤツフサもおとなしくお母さんの腕の中に納まって、だらしなく舌を出してハッハッハッと息をしている。


「六時半にバトミントン部の練習が終わって、学校の最寄り駅まで友達と一緒だったってことは分かっているのよ。それなのにこの時間まで帰ってこないのはおかしいわよね」

「学校にはそろそろ電話したほうがいい時間かもしれない。警察は……もう少し様子を見て、八時を回ってまだ全然連絡が無かったら、その時は連絡するしかないな」


 そう言うお父さんとお母さんの深刻な顔を見て、八犬士たちも事の重大さを悟った。

「里美のスマホで位置情報分かったりするサービスみたいなの、あったりしない?」

「あの子、そういうのは登録してないわ」

「学校の最寄り駅までは大丈夫だったってことは、何かあったとしたら電車の中か、駅で降りてからうちに自転車で向かう道の途中ってこと?」

「まぁ、そういうことになるか。人通りのあまりない道だから、あるいは……」


 それを聞いて、「俺、原付でちょっと駅まで様子見に行ってきますよ」と、スクーターを持っている塚崎朋也が申し出て急いで外に出ようとした。

 ところがその時、その場にいた一同の頭の中に、女性のヒステリックな甲高い声が突然響き渡り、出発しかけた塚崎は思わず足を止めて声がした方向を見た。


「ひひひひひひ!里見 由江ぇ!里見 由江はそこにおるかえ⁉」


 その音を聞くだけで勝手に鳥肌が立つような、おぞましく不気味な声だった。お母さんはヤツフサを抱きかかえる両腕にぎゅっと力を入れて、おびえながら静かに声を絞り出した。


「私が……里見……由江よ……」


 すると、壁に囲まれた秘密基地の中に、どこから吹いたのか分からない不気味な風がびゅうっと巻き起こり、その場の全員の頭の中にさらに大きな声が響いた。


「おお‼おぬしが里見の者‼忌々しいあの里見義実の末裔!

 しかし何ぞ、久しぶりに甦ってみたというに里見家のこの体たらくは。里見の嫡流はおなごのお前一人!しかも他家に嫁いで、里見の家名も失う始末。何じゃ。わらわが自ら手を下さずとも、憎き里見家は勝手に滅びておるではないか!重畳!重畳!」


 秘密基地の中に吹いた不自然なつむじ風が、ギュウっと入り口のブルーシートの前あたりに集まり、そこにぼんやりとした白い煙のようなものが発生した。煙は次第に濃くなり、中に般若の面のような恐ろしげな形相をした、薄気味悪い女性の顔が青白く浮かび上がった。

 原付で通学路の様子を見に行こうと、入り口に向けて一歩踏み出していた塚崎 朋也が、煙に浮かぶ女性の顔を見てヒエッ!と叫んで後ろに倒れ込んだ。

 南総里見八犬伝マニアのお母さんは、煙の中に凝り固まったこの般若のような気味悪い女性の幽霊に、どうやら心当たりがあるようだ。


「あなた、玉梓ね。……あなたが犬士たちに成敗されてから、もう七百年が経つわ。その間、世の中は変わって、里見家も確かにご覧の通りの有様よ。

 でもね、もうお家の存続がどうとか、今の世の中ではもうそういうのは意味がないのよ。だから、あなたもいいかげん里見家を呪うのはやめて成仏しなさい。私と里美を襲ったところで、里見家が滅びて他の家が喜ぶとか、関東管領と古河公方の争いがどうとか、もうそういうのは無いから。何も無いから」


 玉梓と呼ばれたその女の幽霊は、お母さんの言葉をせせら笑った。

「フン!馬鹿なことを言うでないわ。里見家は我が不倶戴天の敵。その血が完全に絶えるまで、わらわの呪いが尽きる事はない。お主の娘は我々の因縁の地、伏姫が洞窟で暮らしたあの、忌まわしい富山の山中で預かっておる。しばらく絶望を与えた後で、ずたずたに切り裂いてくれるわ里見の者よ。ひひひひひ!」


 甲高く薄気味悪い笑い声と共に、凝り固まった白い煙の中に浮かび上がる玉梓の顔が、スッと上空に上がっていくとそのまま屋根に吸い込まれて消えていった。どうやらこの秘密基地から去っていったらしい。


「おい……何なんだよ……今のはよ……」

「聞いてねえよこんなの。マジで幽霊出てきたぜ……。どういうことだよ」


 玉梓の霊が消えていったあたりを呆然と眺めながら、犬士たちはおびえた顔でただ突っ立っていた。

 彼らはここ半年近く「いざという時が来て本当の自分が覚醒して伝説の勇士になれば、このダメダメな仮の自分は消滅するはずだ」と思いこんで自信満々に過ごしてきた。

 ところが、今の状況はどう考えてもその「いざという時」だと思うのだが、自分たちの中に秘められているはずの「本当の自分」とやらは、なぜか一向に覚醒する気配がない。さっきから、恐ろしくて膝がガクガクと情けなく震えている。


「今の幽霊は、玉梓といって、里見家を呪い続ける悪女の霊……。まぁ、分かりやすく言えば里見八犬伝のラスボスよ。……って、わざわざ私が言わなくても何となく分かるわね。

 それにしても、どうしよう。こんなんじゃ警察に行っても相手してもらえないわ。なんで富山に里美がいるって分かるんだ?って警察に聞かれて、きっと頭がおかしい人か共犯者だと疑われて終わり……」


 そう言って憔悴しきった顔でハァとため息をつくお母さんだったが、憔悴しきっている割に、そのため息がなんとなく大げさでわざとらしい。

「ハァ……まさか本当に里見家のピンチが訪れるとは……警察も頼れない……」


 そしてお母さんは、チラチラと何度も犬士たちの顔を眺めてはため息を繰り返す。

「玉梓を倒せるのは、里見家を守る伝説の八犬士だけ……ハァ……」


――やばい。さっきからなんかお母さんからの圧がすごい。――


 八犬士たちは、里見八犬伝に憧れ続けたマニアなお母さんの無言のプレッシャーを感じ、全員、無言のままじっとりと嫌な汗をかいた。


 彼らの中の「本当の自分」は、やっぱり一向に覚醒する気配はない。

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