第3話




 上を見上げれば、木の枝と青い空しか見えていなかったのに。だんだんと蕾が生まれ花がほころび、枯木に色が添えられる。想像以上に美しい、満開の大桜が復活した。



「綺麗……」



 それ以上は、言葉にならなかった。圧倒的あっとうてきな大桜の美しさに、多くの言葉は不粋ぶすいであるし野暮やぼである。そんなことを冷静れいせい脳内のうないで考えられないほど、まともな思考ではいられなかった。


 ただ、美しい大桜に見惚みほれて。ゆっくりとした時間の中で、ただ見つめて。穏やかな時間を過ごす。……香夜は思った。なんて贅沢ぜいたくな一時だろう、と。


 ヒラヒラと降ってくる花びらをつかみ、思わず笑みがこぼれる。こんなに素晴らしい桜を眺めることが出来るのは、とても贅沢で幸福なことだ。


 今度は弁当を作って、酒も用意して賑やかに花見をするのもいいかもしれない。ここは穴場中の穴場。特に邪魔じゃまされることもなく、きっと楽しめるはずだ。



「………風が強いな、」



 春の嵐とでも言いたげに、強い風が吹き荒れる。早朝急いでいたなりに、綺麗にまとめていた髪が風のせいで乱れてしまった。


 仕方なく髪留めを外し、手ぐしで乱れた髪をなんとかまとめる。未だに強い風が吹いていて、まとめるだけでも苦労するが。それなりに気をつかって手入れをしている黒髪が、乱れたままなのは気分が悪い。


 ようやく綺麗にまとまったところで、強く吹いていた風が止んだ。お化けのように見えてしまうほど、ひどく髪を乱したくせに。気まぐれな風だと笑いながら、伏せていた顔を上げた。



「おや、」



 しげる木々の影に同化するように、その子はいた。暗がりに浮かび上がる、子供の白い着物のおかげで見つけることが出来たのだが。香夜を伺うように見つめるばかりで、一向に動こうとしない。


 ただたんに警戒けいかいしているのだろう。だがこのまま逃げられてしまったら、困るのは香夜だ。


 空腹のせいで、余計に疲れも感じるせいか。いつもなら、気長に待つのも手の内と考えただろうが。今は気ばかりがいていた。



「これは誘拐ではない」



 香夜は、自分と自分以外の何かに言い聞かせるようにそう呟いて。一瞬いっしゅんで子供との距離きょりをつめると、自身の手をそっと相手のまぶたの上に乗せた。


 いきなり目の前に現れた香夜に、当たり前だが大層たいそう驚いた子供は。怯えたように顔をひきつらせ、体も硬直こうちょくさせていたが。手のひらの温もりと、香夜がかすかに唱えた言葉によってゆっくりまぶたを閉じた。


 どうやら成功したらしい、穏やかな寝息が聞こえはじめた。起こさないよう抱き上げながら、子供らしくない体に驚くことになる。


 細すぎて、軽すぎるのだ異常な程に。それに肌に触れると、あまりの冷たさに香夜は分かりやすく眉をしかめた。


 泥汚どろよごれだけでなく、身体中に小さなり傷や切り傷もたくさんあって。特に一番ひどいのが、手だった。



「無数の傷の上にさらに傷が…それにあかぎれか。肌の色も変色へんしょくしてる」



 何をどうしたらこうなるのか。色々な理由があるだろうが、大抵はろくでもない奴が関わっている場合が多い。果てしない苦労話だ。


 今の時代、親に死なれた子供がまともな保護者に出会う確率かくりつ極端きょくたんに低い。養子として引き取られるのではなく。使用人や、言い方は悪いが奴隷のような扱い前提ぜんていで引き取られる。


 食べる為、ひいては生きる為に。そんな扱いでも、受け入れなければならない場合もある。だがこれは、とんでもなく悪質だ。


 なにしろ、顔は一切傷が無いのだ。殴られた跡も見当たらない。服などで隠せる箇所かしょにだけ暴力をふるう。ずる賢い奴らの使う手の一つだ。子供が死のうが関係ない。これはそういった傷跡だった。



「……隠れるなら、もっと上手く隠れなさいな。丸見えとまでは言わないけれど、見えているわよ」



 子供がいた雑木林のさらに奥。木の裏や茂みの中に、複数の男たちが香夜たちを伺うように見張っていた。


 言わずもがな、狙いは子供らしい。雇い主の命令で、連れ戻しに来たのだろう。香夜に言いあてられて観念したのか、隠れていた何人かは姿を見せた。


 気配で全ての人数を把握はあくしているというのに、全員は出てこないようだ。念のためなのだろうが、そんなことは無意味だと香夜は言い捨てたかった。



「なんの用?」

「そのガキをこっちに渡せ」

「ガキなんて品のない呼び名のものはいないわ。ここにいるのは、可愛い小さな子供だけ」



 気を失った子供の頬に手を添えて。男たちが思わず見惚れるような、魅惑的みわくてきな笑みを見せる。見ていた男たちの中で、下っぱらしいやつは案の定だらしなく鼻の下を伸ばしていた。


 だが、首領格しゅりょうかくともなれば話は別である。香夜に見惚れはしたが、それは一瞬のことで。すぐさま無表情に顔を戻し、さらに低い声で話を続けた。



「……俺たちが下手したてに出てるうちに、大人しく渡せ」

「あら、それが下手な態度なの?ならそれらしく、土下座して地面に額をこすりつけて懇願こんがんしたら?」



 いい笑顔で香夜がそう言いきれば。男たちの顔が、どんどん凶悪きょうあくに変化していく。誰が合図を送ることなく、隠し持っていた武器を取りだそうとしていたが。させるものかと、再び香夜の紅い唇が開いた。



「大の男がよってたかって、女子供に手を出そうって言うの?」



 この場にいる誰よりも、ニマリと妖しく笑う女の姿に。背筋がゾッと冷える思いをしたのは、一人や二人ではないはずだ。


 暖かな春の日和だというのに、この雑木林の中はやけに寒い。それは暗がりだからか、それとも……。



「この子、使用人よね?」



 香夜がいる国では、基本的に子供でも使用人として雇い入れることも出来る。親の稼ぎだけでは暮らしていけない者や、身内のいない孤児などだ。


 特に孤児の場合、赤ん坊か幼い内に引き取り育てる。その代わりに、使用人にするという場合が最も多くを占めた。


 だがどんな生まれでも、使用人にしたなら必ず国に届け出る必要があるのだ。どういった経緯けいいで子供を使用人にしたのか、子供は何歳なのか。書類を提出する義務がある。


 なにより、子供は国の宝と公言(こうげん)しているお国柄くにがらなのだ。使用人とはいえ、子供に暴力を奮い。理不尽なふるまいをした場合。それはきびしいばつが下される。


 この子供の怪我の具合からみるに、確実に投獄とうごくは免れないだろう。それを踏まえて、あえて香夜は問うたのだ。



「どこの誰の使用人なの?」

「お前には関係ねぇだろうが」

「残念ながら、あるのよね。この子の唯一の肉親から頼まれたのだもの」



 子供を助ける代わりに、香夜が欲しいものを手に入れることが出来る。その為に、わざわざここまでやって来たのだから。無駄手間むだてまだけは避けなければならない。


 一歩、また一歩と大桜の幹の方へと下がる。それを逃がすまいとして。男たちも茂みの中から出て、香夜たちを囲いこもうとする。だが、その前に香夜が行動に移った。



「返してほしかったら、取り返しにいらっしゃい」



 男たちが迫りくる中、香夜は子供を抱えたまま大桜の幹に手を添える。するといきなり突風が吹き荒れ、辺り一面が桜の花びらでおおいつくされた。


 風が止み、男たちが目を開けた時にはすでに二人の姿はなくーーーー。はらはらと落ちる淡い色の花びらだけが、周囲に残っているだけだった。





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