第2話




「…やっと、春らしくなってきたわね」



 んだ水が流れる川沿かわぞいを、おだやかな笑みを浮かべながら女が一人歩いていた。


 どこからか風で運ばれてきた桜の花びらが、川の水をまるで春の色に染め上げるように流れていく。


 …すると、ひときわ強い風が吹き荒れた。大量の花びらが飛んできて、一瞬で女の視界しかいがすべてうばわれてしまうが。本当に一瞬いっしゅんの出来事だったので、すぐにまた穏やかな風景に戻った。


 風の悪戯いたずらとでも言いたげに、おかしげに笑いをこぼす。手のひらに乗った花びらに息を吹きかけ、落ちていくそれを眺めれば。身体中に花びらが付いていることに気がついた。特に、自慢じまんの黒髪に大量にひっ付いている。


 着物や髪に付いてしまった花びらを、できる限り払いおとす。そして何事もなかったように、また同じように道なりに歩きだした。


 向かう先は、枯木こぼくになった元大桜。下から見上げても、その全体を見ることは到底とうていできない大木たいぼくで。桜の花どころか、葉すららない。枯れはてた木。


 その木の場所に、この女ーーー香夜かやが呼ばれたのだ。


 それは昨夜のこと。家の敷地内しきちないにある今が盛りの桜を眺めながら、手に入れたばかりの茶と菓子を楽しんでいた時のことだ。


 縁側に腰掛け、恵みのように降り注ぐ花びらを眺めながら愛でていると。突如とつじょ、それは目の前に現れた。


 現れたのは、夜でもその存在を目視もくしできるように淡く光る一人の老婆ろうばだ。白い着物に身を包み、悲しげに目を伏せている。ゆっくりと目を開き、香夜を見たかと思えば…うやうやしく頭を下げこう言った。



『哀れなあの子を…お助けください…』



 誰がどう見ても、この世の者ではない老婆が自身の身の上を簡潔かんけつに語りだす。そして、香夜もよく知っている桜の枯木に明日老婆の孫が向かうから。助けてあげてほしいと、懇願こんがんしてきたのだ。


 他にもっと適任てきにんがいるだろうに、なぜ自分に助けを求めるのか。率直そっちょくに老婆に尋ねたところ、ただたんに相性の問題だと言う。


 老婆の姿が見えるだけでなく、話に耳をかたむけられる者はかなり限られる。ほんの一握ひとにぎりの者だけだ。


 そんな一握りの存在である香夜に、もちろんタダとは言わないと老婆は言う。孫を助けてくれたなら、香夜の望む物を渡せると言われれば。俄然がぜん興味が沸いてくるというものだ。


 香夜の望む物は、孫が持っている。それを聞いて、急くばかりの気持ちを抑え。就寝しゅうしんにつき、朝になって早速桜の枯木へと向かった。


 老婆は、孫がいつ枯木にやってくるかは話さなかった。話すだけ話したら、満足したように消えてしまったのだ。まだ香夜は、何も答えていなかったというのに。


 だが、物で釣ったのは恥ずかしながら良い判断だと香夜は思った。欲しい物の為なら、たとえ面倒なことが待ち受けていても機敏きびんに動けるのだから不思議なものだ。


 浮き足立つ、心踊る楽しい季節の新たな出会い。それは物であれ人であれ、楽しみなものだ。心待ちにしている物が待つ場所へ、いくばくか早足で歩を進めた。


 川沿いから離れ、春の陽光ようこうが降り注ぐ森の中を奥へと進んでいく。ここへ来るまでに、少々体が火照ってしまうほどに暑くなっていたことに気がついた。


 早足で歩いただけで、少し汗ばむほどの陽気なのだ。これからどんどん暑くなっていくのだろうと、少々億劫おっくうに思いながらも。香夜は視線を、正面にそびえ立つ枯木に向けた。


 

「…どうやら、まだ来ていないみたいね」



 どうやら、早く来すぎてしまったらしい。いくらなんでも、食事もらずに来たのは失敗だった。自分自身に呆れたため息をこぼす。


 少々の空腹を感じた上、暑くなった自身を休ませる為に。休憩がてら、枯木の前でゆっくり待つことにした。


 ……待つことを決めたまではよかったが。せっかくの陽気だというのに、ちるのを待つばかりの枯木がお供では少々寂しい。


 周辺を見てみるも、常緑樹じょうりょくじゅしかない。今は春らしい彩りを求めている分、勝手な考えだがそれが無いのが残念に思えて仕方がなかった。


 香夜は枯木の昔を、鮮やかに思い出す。この木も、それは見事に大輪たいりんの桜が咲き誇っていた。あでやかで、見る者を魅了する花の中の花。


 いつの頃からか、咲かなくなってしまったのを見て。自然に枯れたのだろうと香夜は決め込んでいた。だが、おそるおそる触れてみれば。木の表面はまだ、瑞々みずみずしさを保っているのだ。


 この木は枯れていない。何らかの原因が元で、桜が咲かないだけなのだ。これだけ立派な大木なのだから、桜が咲いたらそれは見事なことだろう。



『私が欲しい、お前をおくれ』



 香夜は思わず、言葉を声に乗せていた。暇潰し、興味本意、懐かしさ。理由は色々とあるだろう。


 花咲か爺さんではないが。せっかく訪れた春の季節に、待ち望んだ物が無いのは寂しい。



『 紡がれるは想いの心、 結ばれるは昔のえにし



 色鮮やかに、爛漫らんまんと咲き誇る大桜。その光景を思い浮かべ、咲いてほしいと心から願えばいい。咲いたお前がほしいと、望めばいい。互いの心が通ったならば、春に相応しい彩りになる。



「咲いた……!」



 それはまるで、夢のような光景だった。





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