二話 女役人シンディの悩み


 朝の営業が始まると、それぞれの出勤時間に合わせてお客さんが訪れてくれる。もともと外で朝食を食べる文化は街の住人にはなかったが、橙也が厨房に立つようになってから着々とお客さんも増えていた。


 そんな忙しい時間も過ぎ去り、朝営業が落ち着いてきた。ピークを過ぎた店内はせわしなさが薄れ、ゆったりとした雰囲気に包まれている。

 そんな中、普段通りのキビキビとした足取りで、しかし橙也にだけわかる慌てた様子で桃香がカウンターへと来た。

 ボディラインの出る、ちょっと変わった姿だが、快活に動く桃香はそれも上手く着こなしている。元は長いスカートだったのだが、短い方が動きやすいと桃香はミニにしていた。


「ねえ兄さん、ちょっと気になることがあるんだけど」


「うん? どうした?」


 異世界に来てもホームシックにならずに元気に過ごしているような子が、珍しく心配の表情を浮かべている。桃香の発言が気になった橙也は耳を近づけた。


「シンディが来てるんだけど、ちょっと顔色が良くないの。ほら見て」


 シンディというのはこの店の常連でもある、地方役人だ。落ち着いた雰囲気のため大人びて見えるが、まだ十七歳の少女である。その歳で役人になることすら難しいのに、最年少で中央の役職へつくのではないかという噂まで出ていた。


(そういえばそのための試験が今日なんだっけ……)


 よくしゃべる子ではないが、橙也のつくる料理に興味を示してくれて、何度か会話をしたことがあった。期待の新人として評価されるのもうなずけるような聡明な受け答えをしていたと覚えている。


「普段から表情に出すような人じゃないけど、たしかにいつもと様子が違うみたいだな」


 うつむき気味であるため、銀色の髪が目元を隠していた。それでも顔色が悪く、元気が無いのが見てとれる。

 キリッとした姿が印象的な彼女にしては、少し意外な様子だ。

 日頃は役人としてバリバリ働いているイメージなのに、今日の彼女は小さく見える。


「さっきからずっとお腹のあたりを押さえているみたいなんだよね」


 単純に空腹で腹を押さえている、というようには見えなかった。


「どうしたんだろう? 心配だし、ちょっと話を聞いてくるよ」


「お願い、兄さん。わたしが行っても力になれないだろうし」


「医者じゃないんだし、俺だって力になれるかわからないさ。だけど、できることはやってみようと思う」


 もし自分の栄養学の知識で少しでも苦しみを和らげることができるならと考え、橙也はホールへと出てシンディのもとへと向かった。


「シンディ、大丈夫?」


 普段なら声をかける前にこちらに気づく彼女なのだが、今日は橙也がそう口にするまで顔をふせたままだった。

 力なく顔を上げた彼女は、困ったような笑みを浮かべる。無理に浮かべた笑顔はかえって痛ましかった。


「いや、何でもない。いつものように食事をしに来ただけだ」


 シンディの凛々しい口調は、橙也との関係性によるものだった。元々礼儀正しい彼女だが、何度か彼女と会話をするうちに橙也の方から楽に話していいと言ったのだ。


「嘘だよ。いつもの食事ならもっと早い時間になるだろうし、何よりも顔に出ている……。人が少ない時間に来たのは、俺に相談したいことがあったからじゃないの?」


「……君は何でもお見通しだな」


 少し間があったが、シンディは話し始めた。


「実は昇進のための試験があって、合格すれば中央に行けるかもしれないんだ。それはこの街の役人としては初で、先輩たちの期待もあってな……。そのせいか胃の辺りが痛いんだ」


 重圧による胃痛。過度なストレスを受け続ければ胃に痛みが走るのはよくある症状だ。


「それで昨日からまともに食事が喉を通らなくてな。しかし、食事を抜き続けるわけにもいかないだろう? これで元気ならいいが、少しフラつくこともあってな」


 口調だけはいつもどおりの感じだったが、その声は弱々しい。


「できれば、こんな状態でも食べられるものを用意してもらえないだろうか? 適当に食べてみてもよかったのだが、これ以上悪化すると試験を受けることすらできなくなってしまうと思って。だからここへ来たんだ」


 藁にもすがる思いということらしい。どうにかしてあげたいが、その前に確認したいことがある。


「医者には行ったの?」


 栄養士は医者ではない。力になれることもあるだろうが、専門の医者に診てもらう方がいいことも多い。

 しかし、シンディは顔を横に振って、


「行っていない。もし医者に行けば止められるかもしれない。今回の試験を逃すとまた来年になる……そうなると最年少の記録を打ち立てることができないんだ」


 前から感じていたが、彼女は少し背伸びをしようとするところがある。周りの期待による重圧を橙也が正しく把握することはできないが、それを懸命にはねのけようと頑張っているのは伝わる。細い体で受け止められないくらいのプレッシャーが彼女にのしかかっているのだろう。


「ダメだよ。具合が悪いなら医者へ行かないと」


 残念なことに橙也は医学に精通しているわけではない。栄養学の観点で作った料理で健康増進の手助けすることはできるかもしれないが、医者のように治せるというわけでもないのだ。

 だが、彼女は、


「行けない。行けば皆の期待に応えられなくなる……っ。そんなことは絶対に……許せない。自分を……許せなくなる」


 唇をかみしめているところを見ると、彼女の必死さが伝わってくる。


「私はこの街の人たちも、先輩たちも好きだ。中央から離れているため活気がなくなっていると言われるが、私が試験に合格することで少しでも元気づけられればと……。皆が笑顔で私を見送ってくれたんだ、期待に応えたい……っ」


 悔しそうに拳を握る彼女を見て、橙也は強い決意のようなものを感じた。


(本当にまずい状態であれば、ここに来ることもなかっただろう。逆に言えば、それほど悪化しているわけでもなく、健康食堂に来ればどうにかなると思って足を運んでくれたんだ。だったら、俺は……)


 彼女の覚悟は本物だ。吐露した気持ちに偽りはないだろう。

そんな彼女が自分を頼ってくれた。元の世界ではうだつの上がらない、ただのサラリーマンだった自分を。


(どうする……?)


 橙也は、彼女を見ながら考える。


(極度のストレスによる胃酸過多と空腹が、今回の胃痛の原因なのかもしれない。詳しい診察などはできないから、あくまで俺個人としての判断だけど)


 本格的な治療は医者に任せるとして、ここは料理人として、お客様にあった料理を出すだけ。

 根本的な解決ではないが、まずは胃酸から胃を守るのが一番だ。


「事情はわかった。ただ、俺にできることは少し症状を軽くすることくらいだからね? 試験が終わったら必ず医者に行って。役人のみなさんもシンディが無理をすることを望んでいないと思うし」


「ありがとう、トーヤ。私のことを心配してくれて」


「俺もこの街が好きだし、シンディには中央で活躍してほしいから。じゃあ、少し待っててくれる? 料理の前にあるものを飲んでもらいたいんだ」


 とにかく空腹の状態がまずい。すぐにでも何か胃に入れて、状態を改善した方がいいだろう。

 橙也はそう判断して、素早く厨房に戻るとミルクを温める。

桃香も心配そうに近づいてきた。


「シンディ、大丈夫そう?」


「胃が痛いんだって。だけど、試験があるせいで休むことができないらしい」


「シンディは責任感が強いからね。兄さんを頼りにする気持ちもわかるよ」


 桃香とシンディは休日に遊びに行くほど仲がいい。友人が苦しんでいて、桃香も気になっているのだろう。


「ミルクも温まったし、行ってくるよ」


 適度に温めたミルクを持った橙也が戻ると、シンディはその顔に疑問を浮かべていた。


「ありがとう。でも、なぜミルクを?」


 カップを受け取りつつ疑問を口にする彼女に、橙也は軽く頷いて説明する。


「胃に何も入っていない、ということだったから。一時的にでも、胃酸から胃を守るためだよ。ミルクには胃酸を中和し、胃の粘膜を保護する効果がある、と言われているからね」


「たまに君はよくわからないことを言うな。だが、痛みを和らげることができるということはわかった。咄嗟にそのような判断ができるとは、もしかしたら君の方が役人に向いているのかもしれないな」


「俺にはそんな才能ないって。さ、まずは一口飲んでみて」


 温かいものを飲むこと自体がストレス緩和につながることもある。彼女の症状をひとまず収めるだけのものだが、なにもしないよりはいいだろう。


「本当だ。一口飲んだだけでだいぶ楽になった気がする」


「病は気から、と言うからね。だけど、食べられそうならごはんも食べてね? ホットミルクだけじゃ栄養が偏ってしまうから」


 再びお礼を言ってシンディは再びカップに口をつけた。

 ゆっくりとミルクを飲んでいくシンディを見て、効果はどうだろうか、と考える。

 ミルクを飲み終えたシンディは、先程までよりも和らいだ表情を浮かべた。


「ふぅ、なんだか少し落ち着いたみたいだ……。ありがとう」


 お礼の言葉は先程と同じだが、その声色には力強さと驚きが混じっている。そのまま、ゆっくりと飲み干し、彼女は不思議そうに空になったカップを眺めていた。


「いつも思うが君は魔法使いなのか?」


 この世界においても魔法というのはおとぎ話の中に登場するものらしい。もっとも、魔石や魔道具があるせいか、元いた世界よりも現実的なものであると聞いたことがあるが。

 どちらにせよ、


「俺は魔法使いじゃないよ。ただの料理人さ」


「ふふ、君はいつもそうやって煙に巻くな」


 そんなことはないんだけどな、と思いながら、橙也は厨房へ向かおうとする。


「それじゃ料理を作ってくるから、もう少し待っていてね」


「魔法使いの出す料理を楽しみにしている」


 少し元気になったシンディは、いつものようなキリッとした声で軽口を叩くのだった。


(多少は楽になったのかな)


 そんな彼女に安心しつつ、橙也は再び厨房へと戻ってきた。


(さて、何を作ろうか……)

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