朝のはじまり

改訂稿

　目覚まし時計が鳴った。ねむい。もう朝なのか。

　カーテンの隙間から漏れた光が、天井を照らしている。時計の針は５時３０分を指していた。

　寝返りをうって壁の方を向いて目を閉じる。

　あと５分。５分だけ。

　けれど、すぐに今日のスケジュールを思い出してしまう。朝礼の後、すぐに部内会の予定だったはず。報告事項を見直しておかないとまずい。

　目を開ける。壁紙を見てため息をついた。

　洗面台に立つと、目の前の鏡に３０を過ぎた女の顔が映っていた。張りの失われた自分の顔。伸びた髪にも艶（つや）がなくなりつつある。黙って顔を洗った。

　歯みがきをしながらキッチンに向かい、トースターにパンをセット。冷蔵庫からサラダと牛乳を取り出してテーブルに置く。

　普段使っている椅子のかたわれは、一年前からバッグ置き場になってしまっていた。

　洗面台に戻って口をすすぎ、ブラシを髪にあてる。

「ちっ」

　枝毛か。抜け毛も増えてきてる。これもみんな忙しいせいだ。だいたい今の担当だって、主任の仕事だっていうのに。デブ課長がなんで私にしたんだか。

　またため息が出た。

　なんだかんだ言っても、やっぱり男の方が昇進が早い。出て行ったあいつも今ごろは役職持ちになっているだろうか。

　キッチンに戻ると６時になっていた。あと４０分しかない。のんびりしすぎた。

　サラダをさっさと口に運びトーストを牛乳で流し込む。スマホの通知を確認するが、今日も変わりばえのないニュースばかり。食器を食洗機に入れてスタートさせる。時計は６時２０分。余裕はない。

　スタンドミラーを広げる。半ば無意識のうちに手を動かしながら、最後にベージュピンクのリップに指を伸ばしたとき、ポーチから何かが転がり落ちた。

　それはより鮮やかなコーラルピンクの口紅だった。

　これはあの時の――。先月の給料日、デパートに寄ったときに店員さんに勧められて買ったやつ。

　私は逡巡（しゅんじゅん）した後で、コーラルピンクの口紅を引くことにした。

　鏡を確認する。少しはましに見える気がする。時計の針は３５分を指していた。

　あわてて着替えてバッグを引っかけ、急いでアパートを出て駅に向かう。地下鉄に乗りこんだ時には７時を少し回っていた。

　席はすでに埋まっている、か。仕方ない。まだ少し空いているけれど、これからどんどん混んでくるはず。

　つり革をつかむ。電車が動き出した。窓の外には地下の真っ暗なコンクリの壁が流れていく。目の前に座っているサラリーマンもOLもスマホを操作している。見慣れた光景に、いつしか私もスマホを取り出していた。

　Gメールをチェックし、カレンダーで今日の予定をもう一度確認する。報告事項リストをメモ帳に入力するが、思いのほかあっさりと終わってしまった。あとは会社で資料をコピーすればいいだろう。なんだ。もうやることがなくなったのか。

　それからは惰性のままに、なんとなくニュースを読んでいた。

　乗り換えの駅についた。人の間をすり抜けてホームに降り、別のホームに急ぐ。すでに列ができている。ため息をついて私も並び、またスマホを眺める。

　すぐに地下鉄がやって来たけれど、案の定、すでに車内は混雑していた。スマホを手にしたまま、どうにかドアのそばに滑り込んだ。

　周りは男ばっかり。女性専用車両だってあるけど、一番階段に近いこのドアの横が私の定位置だ。

　嫌な蒸し暑さ、独特の色んな匂いが混ざった空気。この淀んだ空間にもいつしか慣れていた。

　揺られながらスマホの画面を見ていると、急に視界の隅が明るくなる。顔を上げると、窓の向こうが住宅街になっていた。電車は地上に出ていた。さらに少しずつ高いところに上っていく。今まで気にしたことはなかったけれど、アパートや低いビルのずっと向こうに、副都心のビルが、まるでモニュメントのように建っていた。

　昨日までの低気圧が通り過ぎたせいか、今日はいつもより空が透き通っている。日中は気温も上がることだろう。

　ふと目の前のガラスに自分が映り込んでいるのに気がついた。注意しないと見えないくらい、うっすらとだけれど、妙に唇の色だけは綺麗に見える。晴れ渡った空に映り込んだ自分が、人混みの中にいる私を、じっと見つめている。

　新人の時はすべてのものが新鮮に見えた。わけもわからず、でも一生懸命だったあのころ……。

　その時、小さくスマホが震えた。着信を知らせるバイブだ。画面を開くと短いメッセージが届いている。

　――今度の週末に一度会えないか。

　あいつからだった。ため息が漏れそうになる。何を今さら。私より仕事を取った男。未練なんてあるわけない。

　無視してやろうかと思ったけれど、考えてみれば、今や私も仕事だけの毎日になっている。なんだ、あいつと一緒じゃんか。そう思うと自嘲の笑いがこみ上げてきて、なんだか色んなことが馬鹿らしくなった。

　――何の用？

　――ルノワールとか好きだったろ。今、新美術館で印象派展やってるからさ。一緒にどうかって。

　ほほう。印象派展か。それはいいことを聞いたけれど、別にあいつと一緒に行く必要はないだろう。

　――１人で行くから、

「結構」と入力しようとしてやめた。

　そのまま送り返したが、それっきり返事は来ない。――なに？　それで終わりなの。もうちょっと何かないの？　そこまで考えて、少しだけ落胆している自分に気がついた。

「なにやってんだか」

　駅に到着し、他の人と一緒に押し出されるようにホームに降りた。流されるままに改札口を通って、地上に出る。

　雨上がりの晴れた空、掃除をした後のように綺麗なビルの窓ガラス、街路樹の葉っぱに残ったしずく、自動車の通り過ぎるエンジン音に横断歩道のピヨピヨ音。

　駅から出た人々、バスから降りた人々、サラリーマンも、OLも、誰も彼もが足早（あしばや）に歩いていた。

　街は既に動き出している。キラキラと輝いて。まるであの頃のように。……私も踏み出そう。

　ペースを上げる。もっともっと。早足で。やる気がみなぎってくる。バッグの中でスマホが震えた気がしたけれど、もう確認はしない。どっちにしろ会社はすぐそこ。

　今日の仕事がもう始まるのだ。